Alive01-2

「――――っ!?」
 
 覚醒してから、自分が悪夢を見ていたと気づくのに、たっぷり10秒はかかった。
 真っ暗な室内。ベッドに横たわったまま、しばらくのあいだ呼吸すら忘れる。
 目が暗闇に慣れて、ぼんやりと天井が見えてきた。
 ここは、悪夢に出てきたあの洋館ではない――そう実感できただけで、安堵の気持ちが胸に広がった。自分の名前は星峰凜――それも実感した。
 ベッドから上体を起こし、枕もとの時計に目をやる。
 午前1時を少しまわった頃。午後9時頃から読書をして、眠りについたのは11時頃だったような気がするけど、正確な時刻はいまいち判然としない。
 どちらにしても、あまり眠れていないようだ。体は軽く汗をかいていて、のども渇いていた。
 水でも飲んで落ち着こうと、部屋を出る。
 しんと静まり返った廊下。当然、廊下の照明も消されていて薄暗い。
 不意に。体に、かすかな風を感じた。こんな時間だから戸締まりはしっかりとして、みんな寝静まっているはず。
 廊下の突き当たりに目を向ける。ベランダに続く窓が開いて、白いレースのカーテンが揺れていることに気づいた。
 そしてその向こうで、長い金髪が風になびいているのが見える。
 ベランダに向かって静かに歩いていく。彼女はベランダの手すりに両手を置いて、空を見上げているようだ。 
 サンダルを履いてベランダに出たところで、金髪の持ち主が振り返る。
 
「あれ……凜くん?」
 
 幻想的な色の月明かりが、彼女の姿を照らした。
 腰まで伸ばした豊かな金髪。同じ年頃の女子が羨むこと間違いなしの、大きな瞳に小さな鼻。唇もみずみずしい。そこらのアイドル顔負けの、可愛らしく整った顔立ち。女性向け雑誌で専属モデルやってます、と言っても充分に通用する均衡のとれた長い手足。背の高さは俺と同じくらいだ。愛くるしいピンク色のパジャマ姿は、男子にとっては垂涎ものだろう。
 非の打ちどころのない美少女なんてフィクションか二次元にしか存在しないという、誰が言い出したのかわからない一般論を完全に否定するのが彼女だ。
 名前は真城悠。とある事情があって俺の家――この星峰家に居候している。
  
「空、見てたのか」
「うん。凜くんは?」
「のどが渇いて目が覚めてさ。水でも飲もうかと部屋を出たら……ね」
 
 悠が不思議そうな表情を浮かべて、俺のほうへ近づいてきた。
 そして両手を後ろで組み、やや前屈みになるように俺の顔をのぞいてくる。……こういう乙女チックな仕草を平気で、しかもナチュラルにやってくるから、学園の男子どもが騒ぐのも無理はない。
 本物の宝石よりもきれいなんじゃないと思える、澄んだ碧眼――エメラルドグリーンの大きな瞳が、呼吸を感じられるほどの至近距離で俺を見据える。月明かりと、ちょっと離れたところにある街灯くらいしか光源がないけど、染みとかニキビとかまったく無縁の、きめ細やかな白い肌もよく見える。
 晩春でも初夏でもない、なんとも言えない温度の潮風が吹いた。強くもなく弱くもない気持ちのいい風。悠の髪がなびいて、シャンプーか、コンディショナーの香りが鼻孔をくすぐる。
 無意識に一歩後ずさってしまった。
 
「凜くん?」
「あ、ごめん……なんか、キスされるのかと思って」
「えっ、もう、違うよ」
 
 はにかむ様子も愛くるしい。この表情を写真に撮って学園の男子連中に見せたら、高値で買いとってくれそうだった……って、発想がちょっと卑しいか。
 
「気のせいかな? 凜くん、表情が暗い」
「……気のせいだよ」
 
 こういうふうに見透かされるのが怖くて、距離をとったのかもしれない。無駄だったけど。
 
「凜くんはそういうの隠すの上手だけど、たまに無防備になるよね」
「え?」
「いまがその無防備なとき」
「……恐れ多いなぁ」
「なにかあったの?」
「たいしたことじゃないよ。ちょっと嫌な夢を見ただけ」
「怖い夢?」
「怖い……んー、怖い、か」
 
 それもある。でも、恐怖とかよりも強い感情が、心の奥で渦巻いていた。
 それを言葉で表すなら、なんだろう。
 
「……絶望……」
「えっ?」
「わわっ、なんでもない。気にしないで」
 
 一度口から出た言葉は、消しゴムで消せる文字のようにはいかない。
 
「凜くん、だめ」
 
 悠の両手が俺の手を包んだ。
 ……温かい。そして、優しい。
 
「ひとりでなんでも抱え込もうとするの、凜くんの悪いところだよ」
「……でも」
 
 俺の抱える問題は、他人にどうこうできることとは思えない。
 
「わたしは、凜くんの家族じゃないけど……でも、限りなくそれに近いと思ってるよ。だから、相談があれば話を聞くから」
 
 悠の言葉は、善意に満ちている。打算とか裏のない、素直な気持ちから発せられたのは、そのまっすぐな眼差しを見れば疑いようがない。
 
「ありがとう、悠。でも大丈夫。悪夢なんて、今日はじめて見たってわけでもないから」
「そう……?」
「ああ。ほんと、自分でもどうしようもないと思ったときは、ちゃんと相談するよ」
 
 悠はしばらく黙って、
 
「……うん。わかった」
 
 小さくそう言った。
 俺はなんとなく、空を見上げた。
 黄金色の満月が夜空の真ん中に浮かんでいる。月の周囲を煌びやかに飾るのは小さな星々。昼間とはまた違った幻想的な光景が、はるか天空で繰り広げられていた。
 
「……きれいだな」
「うん」
「そういえば、悠はなんで空見てたの?」
「……わたしは……」
 
 悠はベランダの縁まで歩いて、廊下から見えてたときと同じように、手すりに両手を乗っけて、顔を上げた。
 俺も悠の隣に立つ。
 
「あと何回、こういうふうに空を見上げることができるのかな、って。――夜でも、昼でも……晴れでも雨でもね」
 
 彼女の言った言葉の意味を、頭の中でしばらく反芻した。
 
「それって、単純に回数の話? それとも哲学的ななにか?」
「回数……」
 
 俺のほうを向いた悠は、一瞬だけきょとんとした表情を浮かべたあと、やわらかい笑みを浮かべた。それでも眼差しはどこか真剣さが漂っていた。
 
「凜くん、これは数学……ううん、算数の問題かな」
「え?」
「人生が80年だとすると、1年365日かける80で2万9200日。それが寿命を全うした人の一生」
 
 そんなふうに考えたことはなかった。
 約2万9200日日。
 一生が無限だとは思ってないけど、そうやって明確な数字を出されると薄ら寒い感覚に見舞われる。いま、俺が生まれて何日目だろう。
 
「もちろん、生まれたその日から空を見上げて感傷に浸るなんてできないし、そもそも毎日空を見上げるとも限らない。だから実際の数字は、もっと少なくなるよね」
「……ああ」
「――そして、誰もが寿命を全うするわけでもない」
 
 算数の話から、哲学へ。
 俺は沈黙を返した。
 
「だからね、そんな不確かな人生という檻の中で、わたしはあと何回、空を見上げることができるんだろうって」
 
 檻。
 自由のない檻の中。
 ――それは、俺がさっき見てた悪夢の――っ。
 
「り、凜くん?」
「……ん?」
「顔、怖いよ」
「あ……悪い。気にしないで」
「ごめんね。変な話しちゃって。気に障ったのなら謝るね」
「だから気にするなって。悠は悪くない」
 
 しばらく悠は俺を見つめる。
  
「……うん。わかった……でも――」
 
 なにか言いかけて、口をつぐんだ。
 
「わたし、そろそろ寝るね。凜くんは?」
「俺は、そうだな。キッチンでなにか飲んでから寝るよ」
「うん。おやすみ、凜くん」
「ああ、おやすみ」
 
 悠が家の中に入るのを見送った。
 悠の瞳が一瞬、悲しげに揺れていたような気がした。


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