Alive01-3

 玄関の鍵を開け、外に出た。
 ほんの気まぐれ。キッチンで水をコップ一杯飲んだけど、落ち着かなかった。悪夢のこと、そして悠の態度のことが心に引っかかって、眠気はどこかに吹き飛んでいた。だから、ちょっと散歩でもしようかと思い立った。
 この家の南側は、海岸沿いの通りに面している。北側の塀の向こうは砂浜で、そのちょっと先はもう海――太平洋が広がっている。
 通りを挟んだ向こう側は住宅街だ。分譲住宅をはじめ、一戸建てが多い。道路を横断して、向こう側の歩道を歩くことにした。
 等間隔に設置された街灯が、人も車もなにも通らない閑散とした道路を無感情に照らしている。
 しばらく、歩道を歩いた。
 自分の体は街灯の明かりの下を歩いているはずなのに、心だけは明かりがまったく届かない暗闇を歩いているような、奇妙な感覚に包まれる。
 ……余計なことは考えるな。
 邪念を振り払って、ひたすら歩く。
 やがて、それまで並んでいた住宅が途切れ、開けた公園が姿を見せた。うちからいちばん近い公園で、それなりに広い。土日の昼間ともなると、近所の人たちにとって憩いの場となって、かなり賑わう。
 当然ながら、こんな時間では人っ子ひとりいない。
 敷地内に自販機があったのを思い出し、そこに向かった。
 なにか飲み物を買って、ベンチでゆっくりと飲んでから帰ろう。小銭入れを持ってきて正解だった――ふと、そんな考えがよぎったときだった。
 人影が見えた。公園の広場。その中央近くにある街灯が、地面にそれを映し出している。
 せわしなく動く影。飛び跳ねたり、回転したり、手足を伸ばしたり。まったく止まる気配がない。
 それがバレエの動きであることは、素人の俺でもわかった。
 肝心なのは、こんな時間に、こんな場所で、ひとりでバレエを踊っている奇特な人物が誰なのか。
 ――ひとりだけ、そんなことをやりそうな人物に心当たりがあった。
 踊っている人物の顔が、明かりに照らされて一瞬だけ見えた。やはり予想していた人物だった。
 うちのご近所さんでクラスメイト。もっと詳しく説明するなら、悠の双子の兄。
 声をかけようか迷う。真剣な表情で踊っているのが、暗がりだけどわかる。邪魔はしたくない。
 とりあえず、踊り終わるまで待つことにした。
 その場に棒立ちになり、踊っている彼を眺める。
 彼がバレエをたしなんでいるとは聞いたことはあったけど、こうして実際に踊っている姿を見るのは、今回がはじめてだ。
 正直に言って、かなりすごい。
 彼は体のラインにぴったりと沿った、スポーツウェアを身につけている。だから、細身ながら、極限まで引き締まった体なのがわかる。
 片足を軸にした回転は、まるでぶれることがない。指先まで神経の行き届いた、繊細かつ大胆な動き。全身をバネにしての跳躍は、そのまま空を飛んでいけるんじゃないかと思うほど高い。これでプロのバレエダンサーを目指しているわけじゃないらしいから驚きだ。
 ――すたん、と。
 彼の足が静かに地面に降り立つ。
 そして俺を見た。
 
「――見物料をもらったほうがいいかな」
「気づいてたのか、惺?」
「ああ。でも話しかけてくるわけじゃなかったから、とりあえずそのまま踊っていた」
 
 彼――真城惺のほうへ歩いて行って、暗がりでも顔がわかるくらいまで近づいた。
 惺の身長は、俺より10センチ以上高い。人体を構成するパーツ――手足の長さや胴体、頭の大きさとかに黄金比率があるのなら、惺はそれにぴったり当てはまるんじゃないだろうか。それほどまでにバランスよく均衡のとれた体つき。
 やや長めに伸ばした淡い亜麻色の髪。それを後頭部で結わえている。
 いつも紅茶色のレンズをした眼鏡をかけていて、瞳の色は計り知ることができない。夜のいまでもそうだ。そういえば、惺が眼鏡を外したところは見たことがない。それでも、くっきりとした輪郭で精悍な顔立ち――とにかく、顔のパーツも全体的に美形にできているのはわかる。
 激しく踊ったばかりだというのに、息ひとつ切らしてなかった。
 
「すごかったな」
「そうか?」
「プロのバレエダンサーです、って言っても通用すると思うぞ」
「ふふ、それはどうも――で?」
「ん……で? とは」
「こんな時間にこんなところで会ったからな。なにかあったんじゃないかと思って」
「いや、まあ、その……夢見が悪くてさ。気分転換に散歩してた」
「そうか」
 
 それだけ言って、惺は黙る。「どんな夢?」と聞いてこないのは助かった。聞かれても答えにくい。
 俺は、惺の背後にある自販機に向かった。
 ペットボトルのスポーツドリンクと、アルミ缶のミルクティーを買う。
 
「ほい」
 
 スポーツドリンクを惺に投げる。
 
「いいのか?」
「ああ。見物料だ」
「どうもありがとう」
 
 ふたりして飲み物に口をつけてしばらくしたところで、話を向けた。
 
「なあ、なんでこんなところで踊っていたんだ?」
 
 惺の住む豪邸なら、踊れるところなんていくらでもあるだろう。そもそも、彼の家の敷地はこの公園よりもはるかに広い。
 
「さっきまでランニングしてたんだ。その流れで」
 
 ……どんな流れだ?
 
「ランニングねぇ。どれくらい走った?」
「20キロくらいかな」
「…………」
「なんで黙る?」
「それ、もうほとんどハーフマラソンの距離だよな。それをこんな時間に? しかも走り終わったあとバレエって、どんだけ体力あるんだよ。明日から学校だぞ」
「別にたいしたことないぞ?」
「たしかに、まったく疲れてないように見える……?」
「もう一度同じ距離を走ってこいって言われても大丈夫だ」
「…………おぉ?」
「なんだ、その中途半端な反応は」
「感動と驚愕とあきれが混ざった感じ?」  
「なぜ疑問系……まあいいか。それで、気分転換にはなったか?」
「おかげさまで」
 
 ふっ、と軽く笑い、惺はスポーツドリンクを飲む。
 
「なあ――」
「ん?」

 悠との会話のことを話そうと思って、すんでのところでやめた。
 
「あ、いや。悪い、なんでもない」
「悩みごとがあるなら話したほうが気が楽になるんじゃないか。ひとりで抱え込もうとするのは凜の悪い癖だ」
 
 思わず苦笑してしまった。
 
「それ、さっきも同じようなこと言われた」
「誰に?」
「きみの妹に」
「悠か。あいつとも話したのか?」
「まあね。ふふっ、血は争えないってこいうことか」
 
 惺は一瞬だけ黙った。
 
「それ、悠には言うなよ。また機嫌が悪くなるから」
「わかってる」
 
 沈黙が降りた。
 惺は俺と悠の会話のことを聞いてこない。きっと、俺から話そうとしない限りは詮索してこないだろう。惺の、こういう人との絶妙な距離感が実は好きだったりする。
 
「――さて、そろそろ帰るかな」
 
 あまり遅くなると寝坊してしまう。
 飲み干したミルクティーの空き缶を、自販機の横にあるゴミ箱へ捨てた。惺はまだ飲み終わってないみたいで、ペットボトルを手に持っていた。
 一緒に連れ立って歩き、公園の入り口で止まる。
 俺は左、惺の家は右だ。
 
「じゃあ惺、明日学校で……って、もう日付変わってるんだったな」
「そうだな。おやすみ」
「おやすみ」
 
 別れて、それぞれ反対方向へ歩き出す。
 惺と他愛もない会話をしたおかげで、だいぶ気が紛れたと思う。
 これからぐっすり眠れることを祈りながら、家へ急いだ。


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