Alive01-4

 体が揺さぶられている。
 反射的に上半身を起こした。
 
「わわっ、お兄ちゃんっ!?」
「……ん……奈々?」
 
 ぼんやりとした頭が、徐々に覚醒していく。 
 最初に視界に入ったのは、心配そうな表情で見つめている妹の姿。そして、自分が自室のベッドで寝ていることに気づく。
 
「お兄ちゃん……?」
「おはよう、奈々。今日もツインテールが可愛いな」
 
 星峰奈々。ひとつ下の妹。肩にかかるくらいの長さの黒髪を、側頭部の上のほうで結わえたツインテールがトレードマークだ。ピンクとホワイトでストライプされたリボンは、奈々のお気に入り。
 
「お兄ちゃん大丈夫? 具合悪いとか……?」
 
 鳶色をした大きな瞳が、俺を見つめている。
 
「いや、大丈夫」
「……ほんと?」
「ああ。で、なんでわざわざ起こしに? あ、もしかしてこれが噂の、制服姿の可愛い妹に起こされるラッキーイベントってやつか。『起きないとちゅーしちゃうんだからね!』とか」
「な、なに言ってるの、もう」
 
 ちょっとだけ頬を赤らめる奈々。
 
「からかっただけだ」
 
 奈々はむすっとした。
 
「ねえお兄ちゃん、寝坊したの気づいてる?」
 
 口をとんがらせながら、奈々は枕もとの時計を指差した。デジタル表示は午前7時15分となっている。ちなみに、いつも7時には1階のリビングに下りている。
 
「あ……悪い」
「お兄ちゃんが寝坊なんてめずらしいね」
「友達から借りたこいつがおもしろくてさ。つい夜中まで読んじゃって」
 
 枕の横に無造作に置かれた文庫本を手に取る。
 嘘は言ってない。寝る前にこの本を読んでいたのは事実だ。そのあとの出来事は、わざわざ話すまでもないだろう。
 
「そうなの?」
「もう戻っていいぞ。わざわざ悪かったな。ありがとう」
「うん。じゃあ先に行ってる」
 
 奈々が部屋から出て行くのを見届けて、ベッドから降りる。
 寝巻きから、学園の制服に急いで着替える。
 薄いブルーの長袖のワイシャツは、学園指定のもの。母さんか悠がいつもアイロンをかけてくれているから、しわひとつない。その上から、深緑のステッチが特徴的な青のネクタイを締める。濃紺のズボンに履き替え、ベルトをきつめに締めた。
 最後にジャケットを羽織る。気温が高くなってきたとはいえ、まだ衣替えの前だ。……そういえば衣替えはもう来週か。
 クローゼットの扉の内側に備えつけられた姿見を見て、おかしなところがないか確認する。
 
「――っ」
 
 突然、姿見に映った自分と、悪夢の中の光景が重なった。
 夜中に悠や惺と話して、気が紛れたと思っていたのに、ここまで鮮やかにフラッシュバックしてくるとは思わなかった。
 深呼吸して、心を落ち着かせた。
 これ以上遅くなると、また奈々を心配させる。いつも通学に使っているリュックを持ち、忘れ物がないか頭の中で軽く確認したあと、部屋を出た。
 廊下の角にある洗面台で軽く顔を洗った。両手で頬をぱんっと叩いて無理やり心機一転。タオルで顔を拭いたあと、洗面台の鏡を見つめる。いつもどおりの自分が映し出されていた。
 ――よし、これなら大丈夫。
 1階へ降り、リビングへ通じるドアを開ける。
 6人がけのテーブルを囲んでいるのはふたりだった。
 奈々と悠。
 今日は月曜日。父さんがオーナーシェフを務めているトラットリアの定休日だ。だから母さんと父さんはいない。
 店の営業日でも、早起きの母さんはいつも朝食を用意してくれる。けど、土日の忙しさにさすがに疲れているのか、定休日である今日はまだ眠っている。毎週のことだ。そういえば昨日、「明日は思いっきり寝坊するわ~」と言っていたのを思い出す。
 
「おはよう。ねぼすけ凜くん」
 
 席について最初に声をかけてきたのは、向かいに座っている悠だった。奈々と同じ制服姿で、優雅な動作で朝食を食べている。
 青と緑のチェックのスカートは悠も奈々も同じ。違うのは、悠は白地に青色の縁取りがされたジャケットを着ていて、奈々はベージュのカーディガンを着ているところ。うちの学園は、指定のものならどちらでも構わないことになっている。
 
「おはよう、悠。今日も鮮やかな金髪が可愛いな」
 
 悠の金髪はいつ見てもきれいだ。夜中に見たときは寝る前だったから、髪型はなにもいじってなかったけど、今朝はいつものように、一部を後頭部でまとめてハーフアップにしている。本人お気に入りの髪型だ。
 
「え? ……あ、ありがとう」
「お兄ちゃん、それ、さっきわたしにも似たようなこと言ったよね?」
「そうだっけ?」
「てきとーだったんだね……そうなんだね……」
 
 隣に座っている奈々が、やや不満そうにつぶやいた。
 用意されていた朝食を食べ始める。今朝のメニューは食パンのトーストにケチャップのかかったスクランブルエッグ、サラダ、たまごスープ。シンプルな洋食テイスト。
 スープに口をつける。
 ちょっとぬるかった。
 
「凜くん、スープ温めなおそうか?」
 
 悠が俺の思考を読んだように言う。顔に出さないようにしたつもりだけど、悠はこういうところが妙に鋭い。
 
「いや、別にいいよ。俺が悪いんだし」
「そうだよー。悠ちゃんはお兄ちゃんを甘やかしちゃだめ」
「ふふっ、わかった」
 
 悠の笑顔は、きれいとか可愛いとかいう形容詞を通り越して、人を安心させる。生まれ持った才能だと思う。
 それから他愛もない雑談を交わしながら食事を進めた。時間がゆっくり流れているように感じる。 
 
「あ、ふたりとも、そろそろ支度したほうがいいかな」
 
 ちょうど食べ終わった悠が、ナプキンで口もとをお行儀良く拭きながら言う。壁にかけられた時計を見ると、たしかに家を出たほうがいい時間帯だった。
 
「それもそうだな」
「よし奈々、あと20秒で食べ終えて、さっさと支度するぞ!」
「えっ、そ、それは無理っ」
 
 味わう余裕もなく、一気に食べる。行儀とか気にしている場合じゃない。奈々も俺の勢いに押されたのか、真似して急いで食べる。
 俺が食べ終わったときには、涙目になって苦しそうにしている奈々が、隣で四苦八苦していた。こいつ、もともと食べるのはそんなに早くない。
 
「ん~~~~っ!?」
「はい、牛乳」
 
 コップを受け取り、奈々は中身を飲み干す。
 
「ぷはぁ……うう、苦しいよぉ」
「あのさ奈々、言いにくいんだけど、別にそこまで急いで食べることなかったんじゃね?」
「だ、だって、お兄ちゃんが急かすから!」
「いつも早めに出てるんだから、むしろ今日くらいに家を出るのがちょうどいいかもしれないな」
「いじわるっ!」
「落ち着けって。悠が苦笑してるぞ」
「もう! 悠ちゃんからも言ってよ。もとはと言えば、お兄ちゃんが寝坊したのがいけないって」
「うん、たしかに凜くんがいけないかもね」
「ああ、全部俺が悪かった。さ、それよりも後片付けして、さっさと仕度するぞ」
「もうっ」

 テーブルの上の食器を俺がまとめて、キッチンの流し台へ。悠と奈々は布巾でテーブルを拭いている。洗い物は母さんがあとでやってくれるから、食器はそのままでいい。
 それからそれぞれ身支度を整えて、玄関から外へ出た。ドアを開けた瞬間、強い潮風が全身をなでる。陽射しもまぶしくて、一瞬目がくらんだ。
 俺は有名なスポーツブランドのリュックで、奈々は白を基調とした女の子らしいキャンパスのリュック。悠はブラウンの革製手提げ鞄。
 俺たちが登校するときのいつもの姿。
 ……けど、なにか足りない。
 
「奈々、ベースは?」
「わぁっ、忘れてたぁ~!?」
 
 ぴゅーと室内に戻り、奈々はベースの入った黒いケースを持ってくる。軽音部に所属する奈々の愛用品だ。
 
「おっちょこちょい」
「ふんだっ」
「ふふっ。奈々ちゃん、ちゃんと日焼け止めつけた? そろそろ紫外線が強くなってくるから」
「うん。悠ちゃんから前にもらったやつ。ちゃんとつけてるよ」
「俺はもらってないぞ」
「お兄ちゃんには聞いてないよ……」
 
 そんな他愛のない会話をしながら、歩き始める。
 ぐるっと家の敷地をまわり込むようにして進んで、表の海岸通りへ。通りへ出たら左へ曲がり、バス停へ向かう。バス停へは徒歩で5分ほど。夜中に惺と会った公園を通り過ぎる。
 雑談を交わしながら、普段どおりの道を3人並んで歩く。ゆるい上り坂のカーブを過ぎると、バス停が見えてくる。
 そのとき――
 ふと、悠の足が止まった。
 俺と奈々もつられて止まる。
 
「どうした?」
 
 俺が声をかけても、悠は答えない。表情からいつも絶やさない笑みが消え、無感情になる。その視線は射抜くような鋭さで、一点を見つめていた。
 
「お兄ちゃん……あそこ」
 
 隣にいた奈々が、肘で小突いてきた。そんな奈々は嬉しさと狼狽がない交ぜになった、複雑な感情が浮かんでいる。
 バス停の横に佇む人影。
 俺と同じ制服姿。片手にはネイビー色のナイロン製手提げ鞄。恐ろしくセンスのいいデザインで、高級品の雰囲気が漂っている。そういえば以前、父親の形見のひとつだと言っていた。
 彼――惺が俺たちに気づき、視線を送ってきた。ただし、その瞳は紅茶色のレンズの奥に隠れていて、どのような感情を秘めているのかわからなかった。
 なにも言わず、悠は黙ってバス停に近づいていく。けど、惺がいる2メートルほど手前で立ち止まった。それ以上近寄る気はないらしい。
 俺と奈々は、お互い困ったような視線を交わらせて、ふたりの間に入った。
 沈黙になるのが怖いから、とりあえず挨拶。
 
「おはよう、惺」
「おはよう、凜。奈々ちゃんも」
「お、おはようごにゃい――っ!」
 
 狙ったかのようなタイミングで、奈々が可愛らしく噛んだ。頬から耳までにかけて、一気に赤くなる。肩にかけていたベースのケースがずるっと下がった。
 
「……わざと?」
 
 睨んできた。「スルーしてよっ!?」という言葉にならない声が、その眼差しに含まれているような気がした。緊張感漂うこの微妙な空気を消し去るために、わざと体を張ったわけではないらしい。
 
「ふむふむ。天然の妹キャラか。昨日読んでたラノベに出てきてたなぁ。需要はあるみたいだぞ」
「うるさいから!」
 
 俺と奈々のくだらない漫才を見て、惺は声にこそ出さないが、静かに微笑んでいる。
 問題は悠だ。彼女は会話に参加する気配がない。まるで存在している次元が違います、とでも言うように顔を背けている。
 そして沈黙が降りた。
 誰もしゃべらない。
 うわぁ、気まずい、と思ったところで奈々と目が合う。こいつも同じようなことを考えているみたいで、さっきよりも輪をかけて複雑な表情をしていた。俺はどうにかなるけど、奈々はわりとこういう空気に敏感で、苦手だったりする。
 なにか話題は――と考え出したちょうどそのとき、バスがやってきた。
 目の前で停車し、後部のドアが開く。
 惺がまず乗り、そのあと俺、奈々、そして悠と続いた。悠が乗ったところでドアが閉まり、車が発進した。
 バスの中は乗客が5、6人ほど。この停留所は起点に近いから、まだ空いている。
 惺は迷うことなく前のほうへ歩いていく。それから予想どおりというか、悠は俺と奈々の脇を黙って通って後部の席に座った。
 
「奈々、おまえは悠と一緒にいてやれ」
「え……でも」
 
 奈々は名残惜しいような瞳で惺を見る。
 
「おまえ、惺とふたりっきりでまともに会話できるか? できるならついでに告白して、彼女になっちゃえ」
「む、無茶だよぉ……」
 
 頬を少し赤らめながら、奈々は悠の隣の席へ。
 俺は惺に近づいて、隣に立った。座席は空いているのに、惺は座らず立っているからだ。
 
「別に座ってもいいぞ」
 
 惺が言ってきた。
 
「いや、いいよ」
 
 しばらく黙ったあと、惺が再び口を開いた。
 
「今日はいつもより遅いんじゃないか?」
「ああ、俺が寝坊しちゃって……その、すまん」
「なんで謝る?」
「ほら、なんていうか、その」
 
 後部座席の悠にちらっと目を向ける。悠は奈々となにかしゃべっているようで、さっきまでの無感情さは消えていた。
 惺と悠がなるべく鉢合わせしないよう、気をつけていた。いつも早めに家を出るのはそのためでもある。
 
「凜が謝る必要はないだろ。そういう日もあるさ。だいたい、夕べは遅くまで起きてたんだから」  
「まあ、そうなんだけど」
「それに、悪いのは俺と悠だ。気にするな」
 
 惺と悠のあいだにたしかに存在している確執。立派で荘厳な真城の邸宅がすぐ近くにあるのに、悠がわざわざうちに居候しているのもそのため。
 確執がなんなのか、俺は詳しく知らない。
 ……あー、姉さんなら知ってるかもしれないな。
 独立して離れたところでひとり暮らしをしている姉さんは、とある事情で悠と関係が深い。だから悠から事情を聞いている可能性はある。けど、特に理由もないのに、俺から不躾に聞くのも気が引ける。
 ちらっと惺の横顔を見る。はっきりとした鼻梁は横から見ても美しい。惺の横顔から、感情を読みとることはできなかった。
 
「どうかしたか?」
「あ、いや、なんでもない」
「気を遣わせて悪かったな。奈々ちゃんにも申しわけない」
「俺も奈々も大丈夫だぞ。そっちこそ気にするなよ」
「……ああ」
 
 それからは特に会話もなく、学園に到着するまでバスに揺られていた。


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