エントランスホールの喧騒は毎日のことながら、凄まじかった。
俺たちの通う創樹院学園は、総生徒数2500人を越える大規模な私立学校だ。地理的には、星蹟島のほぼ中央に位置している。離島で主要な大都市からだいぶ離れているとはいえ、アクセスもよく全国からの人気は高い。
だいたい一学年に800人前後。とてもひとつふたつの校舎に収まるわけもなく、5つの校舎に分割されている。校庭もメインとなるのが3つ。巨大な体育館がひとつ。ほかにもテニスコートや野球場、柔道や剣道などで使用する武道場など、専門分野の設備も完璧といっていい。
我ながら分不相応なところに入学したもんだと、しみじみと感じた。
「じゃあ、わたしはここで」
惺と悠に対して、ぺこりとお辞儀をしてから、奈々はA校舎のほうへ向かう。1年生の教室がある校舎で、エントランスホールに入って左に伸びている。
「凜くん、わたしも先に行くね」
エントランスホールから正面に伸びた先が、俺たち2年生の教室があるB校舎だ。悠は颯爽とした足取りで去っていった。……最後まで惺を無視していたのは予想どおり。もっとも悠のことだから、あとで謝ってくるとは思うけど。
惺と一緒に教室へ向かう。俺たちG組のクラスは、B校舎の3階だ。
――しかしすぐ、惺が立ち止まった。
「惺?」
「……気のせいか……?」
しばらく一点を見つめていた。
「おーい」
「……ああ、悪い」
「どうしたんだ?」
「なんでもない……たぶん」
「そう? じゃあ行こう」
惺が見つめていた方向は、奈々が行ったA校舎の方角。1年生の教室が2階から4階にかけてある以外は、1階に職員室、それから学園長室と来客室くらいしかなかったはず。
気になるといえば気になるけど、本人がなんでもないって言ってるんだから、あまり追求しないほうがいいだろう。
再び歩き出す。
廊下で何人かの顔見知りと挨拶を交わしつつ、階段をのぼる。
「あれぇ? 凜だ」
階段の踊り場でクラスメイトと遭遇した。
豊崎真奈海。新緑のような鮮やかなグリーンの髪を、ショートカットにしている。活発な印象を与える大きな瞳は、めずらしい紫色。
もう退部したとはいえ、かつては陸上部のエースだった。そのせいか、体はスレンダーで引き締まっている。
「真奈海か。おはよう」
「おは。真城っちもおはよう!」
「おはよう」
「凜と真城っちが一緒なんてめずらしいね……てゆーか凜、いつもより遅くない?」
「ああ、それはね……」
寝坊したことを伝える。
「なに、また遅くまで読書?」
「まあ……ね」
正確にはちょっと違うけど、当たり障りのない理由としては最適だし、正直に話して真奈海に心配してもらうこともない。だから訂正はしなかった。
「相変わらず読書好きだねぇ。また海外の難しいやつ?」
階段を上りながら話す。
「昨日のはそういうのじゃないよ。光太から借りたラノベ」
「えっ、ラノベ? 凜が!?」
「おかしいか?」
「だって、凜っていつも難しい本を読んでるイメージしかないもん。えっと、なんだっけ、前に読んでたの……ド……ドストなんとかさん」
「ドストエフスキーな」
19世紀を代表するロシアの文豪に対して、なんとかさんって……こいつ、よくこんなんでこの学園に入学できたな。
「りーん! なんでそんな哀れみの視線で見てくるのさ! それから失礼なこと考えていたでしょ」
「気のせいだ」
「ま、いいけど。でもさ、寝るの遅くなったってことは、そんなにおもしろかったの?」
「ああ。想像以上におもしろかったよ」
「そっか。あたしも今度借りてみよう」
3階に上がり、廊下を歩く。惺は俺と真奈海の少し後ろを黙って歩いている。
「あ、そうだ。今日うちのクラスに転校生が来るらしいよ」
「そうなのか?」
「うん。さっき用事があって職員室に行ったんだけど、ちらっとそういう話を聞いたんだ」
「へえ」
「変な時期に転校してくるんだな」
惺が疑問を口にする。
いまは5月の最終週で、来週はもう6月だ。
俺たち2年生の場合は、新しいクラスにもだいぶなじんだ頃。奈々たち1年生は、新しい学園生活に慣れてきた頃だろうか。どちらにしても転校してくるなら、ふつう春休み明けとか、新学期の開始に合わせるんじゃないだろうか。
そんなことを考えていたところで2年G組の教室に到着。教室の後方のドアから入る。すでに3分の2くらいの生徒たちが登校していた。
「みんな、おはよー!」
開口一番、真奈海が教室の全員に向かって元気に挨拶する。俺と惺も便乗してあいさつ。クラスのみんなも口々におはようと返してくれた。
前から思ってたけど、真奈海の底なしの明るさは、どうしても真似できない。
俺の席は、教室前方の出入り口からいちばん近いところにある。ついでに説明すると、俺たちの席はかなり近い。俺は廊下側の壁に面した端っこ列、いちばん前の席。クラス全体を俯瞰するといちばん左上。真奈海は俺の右隣で、惺は真奈海のすぐ後ろの席だ。
「……むむ」
リュックを机の脇に引っかけたところで、くだらないことを思いついた。
「なーに?」
「いや、光太に借りたラノベで……序盤に主人公のクラスに転校生がやってきて」
「ほほう。それからどうなるの?」
「簡単にまとめると、主人公にとって、波乱万丈の学園生活の幕開けとなった」
「あー、あるあるラノベだとそういう展開。ラブコメ漫画とかでもさ」
光太いわく、「転校生はラノベの鉄板だぜっ!」らしい。
「ま、現実問題としてそんなおもしろい展開にはならないか」
「いやぁ、わからないよ。現実は小説より……なんたらって言うじゃん」
ことわざが最後までが思い浮かばなかったらしい。残念なやつ。
「このクラスの場合、主人公って誰だ?」
にやりとしながら、真奈海が俺を見てきた。
「おい。俺はそういうの勘弁な。なんの変哲もない平和な学園生活を望む。刺激的な新展開とかいらないから」
平和で平穏がいちばん。
「つまんないの。じゃあ――」
俺と真奈海で惺を見た。
「俺か? 柄じゃないな」
「いやぁ、真城っちはいい線いってると思うんだよね。手足長いし背も高いし、眼鏡外したら美形みたいな気がするし。主人公らしさを兼ね備えているっていうかさ。……あ、あとね、あたし、真城っちの澄んだ声が好きだよ。ずっと聞いていたい」
真奈海が急にもじもじと、乙女のような奥ゆかしさを演出し出した。
……ネタに走ったな、こいつ。
まあ、付きやってやるか。
それからしばらく、真奈海と毒にも薬にもならない会話劇を繰り広げた。
「――で、真奈海、俺たちはなんでこんな茶番してたんだっけ?」
「ん? 忘れた」
「ま、いいか」
「そうだね」
「転校生だろ。転校生」
惺がやれやれといった表情で言う。
「あ、そうそう。ところで真奈海、転校生って女子? それとも男子?」
「んー、そこまでは聞いてないかな」
「大事なところだろ」
「しゃーないじゃん。ちょこっと聞こえてきただけなんだし」
そのとき、目の前のドアから急に誰かが飛び込んできた。
「ぐっちょも~~~~にん!」
謎の言語と得体の知れないポーズを決めたそいつは、川嶋光太という名のクラスメイトだった。面倒なので、こいつの外見描写は断固として拒否することにした。
やがて、俺と真奈海は光太を無視して会話を再開する。
「ちょっとちょっと! 俺のことは無視かよ!」
「……朝っぱらから犯罪級にやかましいんだよ、おまえは」
真奈海だけでなく、近くにいたクラスメイトたちも「うんうん」とうなずいていた。
「うぅ、容赦ないな。鞄置いてくる」
自分の席に向かう光太。こいつの席は教室の真ん中あたりだ。
「川嶋ってさ、日を追うごとに馬鹿になってない? アニメとかラノベとか漫画とかの悪影響かな」
「それ、光太の前で言っちゃだめだぞ。マジ切れするだろうから」
「なになに、なんの話?」
光太が戻ってきた。
「なんでもないよ」
「なあ、いまそこで聞いたんだけど、転校生が来るってほんと?」
「らしいな」
「あれ、それ噂になってるんだ。あたししか知らないと思ってたのに」
「転校生! これは刺激的な新展開の予感っ! ほら、凜に貸したラノベの話でさ――」
「あ、そのへんの話、あんたが来る前に話してたから、あたしはパス」
「俺もパス」
「うぉーいっ!? なんか付き合い悪くない? ところで転校生って女子? それとも男子?」
「その話も光太が来る前にしたからパス」
「そんなぁっ!? なんで俺が来る前に全部話しちゃうのさ!」
やかましくなったのか、真奈海が光太を冷たい眼差しで見つめた。
「川嶋、そろそろホームルーム始まるよ。席に戻ったら?」
「ふたりとも冷たいよ……凍えるよぉ……真城、助けて」
「すまない、川嶋。俺は力になれそうもない」
予鈴のチャイムが鳴った。まもなく先生が来るはずだ。
くそぉ、明日からもうちょっと早く登校しよう、なんてつぶやきながら、光太が席に戻っていった。
「ねえねえ、やっぱ最初はあれかな。転校生の紹介」
先ほどと一転。真奈海の瞳は楽しそうにきらきらと輝いている。
「うん、たぶん」
「きっと『えー、ホームルームの前に、みんなに大事な話がある』とかで始まるのかな」
「そんな感じだろうね」
「で、『聞いているやつもいるかもしれないが、今日このクラスに転校生が来ることになった』、それでついに転校生が登場、っと」
「転校生が男子なら女子が、女子だったら男子が騒ぐんだろうね。美少女、もしくは美男子ならなおさら」
「んー、正直どっちでもいいかな。……あ、でも美少女転校生だと川嶋あたりがうるさそうね」
「いや、たぶんそう悪目立ちするような、馬鹿な真似はしないと思う。しょっぱなから嫌われたくないだろうし」
「あいつ馬鹿なのに、こういうときは頭働くんだねー」
「基本馬鹿だけどな」
「おーい! 凜と豊崎、聞こえてるぞっ!?」
光太の怒声。
「ごめん川嶋ー、今度から悪口はあんたがいないところで言うねっ!」
満面の笑顔で、真奈海が言った。
「そうじゃないだろっ!?」
会話を聞いていたクラスメイトたちが笑う。
そのとき。
「ほーい、静かにしろ」
担任の織田先生が、タブレット端末を持って入ってきた。
「えー、ホームルームの前に、みんなに大事な話がある」
真奈海が予想したとおりの台詞に、思わず吹き出しそうになった。ちらっと見ると、隣の真奈海も必死に笑いをこらえていた。
――ふと。
惺が視界に入った。
どこか様子がおかしい。
表情がこわばり、全身から緊張感があふれているような……視線はドアのほうに注がれている。俺が惺を注視しているのには気づいていないようだ。
ドアは織田先生が入ってきてすぐに自動で閉じた。けど、その向こうに人の気配がするのはなんとなくわかった。
「えー、突然だが今日このクラスに転校生が来ることになった。もしかしたらもう噂を聞いているやつもいるかもしれないが」
クラスが一気に沸く。織田先生の台詞は、順番は違えどやはり真奈海の想像とほぼ一緒。
織田先生がドアの向こうへ声をかける。
一拍置いて、自動ドアが開いた。
クラスが静寂に包まれる。
流れるような長い銀髪に、誰もが目を奪われた。歩みを進めるたびに揺れる髪は、光を反射して煌いている。
転校生が教卓の近くで止まり、こちらを向いた。長身で姿勢がいい。漂ってくる雰囲気は凜々しく大人びていて、とても同級生とは思えない。
深紅の瞳が、教室を見渡す。
美少女というよりは美女、といったほうが適切だろうか。そんな大人びた雰囲気をまとっている。
ひとつ気になったのは、女子生徒には無骨すぎるんじゃないかと思える、黒のミリタリーふう腕時計を右手首にはめていること。
「フォンエルディアからの留学生、セイラ・ファム・アルテイシアさんだ。それじゃ、挨拶を――」
がたっ、という音ともに、ひとりの生徒が急に立ち上がる。その唐突さに、前の席の真奈海をはじめ、彼の周囲がびくっと驚く。
立ち上がったのは惺だった。
惺とは思えないほど、動揺した姿。なにか伝えたいことがあるのに、言葉が出てこない、そんな感じだ。
「おい、真城……?」
織田先生が声をかける。けど、転校生が人差し指を口に添えて、「しっ」という仕草をとると、なぜか先生は黙った。得体の知れない存在感を全身から放っている。クラス全体も、よくわからない展開にただ呆然と見守ることしかできない。
転校生が惺に近づいていく。
必然的に、俺と真奈海の間くらいで立ち止まった。
「セイ……ラ……な、なんで……っ!?」
惺から絞り出された声は、かすれている。
「……久しぶりだな……惺……っ」
彼女がこの教室に来てはじめて発した言葉は、涙に濡れていた。
恐る恐る彼女の顔を見上げる。
惺を一心に見つめる瞳から、大粒の涙がこぼれていた。先ほどまでの凜々しい雰囲気とはかけ離れた姿。
――さらっと、銀髪が流れた。
次の瞬間、謎の転校生――セイラ・ファム・アルテイシアが、惺に体を寄せて唇を奪っていた。