Alive02-3

 教室からエントランスホールに出て、セイラはじっと下の階を眺めていた。エントランスホールは1階から4階まで吹き抜けになっている。さながら大きなショッピングモールのようだ。
 俺と惺は近くのベンチに座って、彼女が動くのを待っていた。
 なんとなく立ち上がり、セイラの横に立つ。
 見下ろす1階のホールは喧噪に包まれている。帰宅しようとする生徒、友達と談笑する生徒……さまざまな光景が途切れることなく続いていく。セイラは、真剣な面持ちでそれを眺めていた。
 俺からしたらいつもの光景だけど、セイラには新鮮な感覚があるみたいで、時折うなずくような反応を見せていた。
 ちらっと周囲の様子をうかがう。セイラの近くを通り過ぎる生徒たちの視線が、まるで重力に引かれるように彼女に集まっている。
 外国人ってだけではない。人目を惹く容姿に、凜々しく圧倒的な存在感。そこにいるだけで、空気が変わったような錯覚を覚える。必然的に、俺や惺にも生徒たちの視線が向かってくる。
 
「セイラ、なにか変わったものでもある?」
「……ふむ。凜から見て変わったものというのは、おそらくないだろう」
「じゃあ、セイラにとっては?」
「すべてが変わったもの、と答えよう」
 
 セイラが俺を見つめながら言う。吸い込まれそうなほど透き通った深紅の瞳に、危うく言葉を飲みそうになった。
 
「その心は?」
「わたしは、いままで学校という場所に通った経験がない。だから――」
 
 それから続く言葉はなかった。
 セイラの母国フォンエルディアも、先進国に名を連ねる国のひとつ。当然、学校教育は充実しているはずだ。それでもセイラは学校に通わなかった。あるいは、通えなかった理由は――?
 
「…………」
 
 俺が気軽に訊いていいことじゃない。
 けど、セイラの「だから――」に続く言葉。
 なんとなくだけど、想像はできる。いま、目に見えるものがすべて新鮮だ――そんなところだろうか。
 
「気を遣わせて悪かったな。そろそろ移動しようか」
「ん。どこに行く?」
「部活動というものに興味がある」 
「部活動ね。いきなり見学できるかな」
 
 俺の疑問に、いままで黙っていた惺が答えてくれた。
 
「大丈夫じゃないか? 転校生が見学したいって言えば、だいたいオーケーしてくれると思う」
「それもそうか。セイラ、部活動には運動部と文化部があるんだけど。運動部は外のグラウンドや体育館とかでやっていて、文化部は基本的に、その廊下の先にある校舎の教室で活動してるよ」
「どちらも捨てがたいな。おすすめの部活動はないのか?」
「え、おすすめ……か」
 
 1年のときから帰宅部だった俺に、その問いはどうだろう。
 
「あ、そうだ。おすすめってわけじゃないんだけど、俺の妹が軽音部に入っているんだ」
「……ふむ、1年A組の星峰奈々のことだな?」
 
 インターネットの検索結果のように、見事に言い当てた。
 
「うわ、ほんとに全校生徒記憶してるんだ……」
「信じてなかったのか?」
「そういうわけじゃないけど。あらためてすごいなって感心した」
 
 本当はすごいってレベルを超越してるんだけど。
 
「軽音部というのは、たしかバンド活動を主体にする部活だったな。凜の妹はバンドを組んでいるのか?」
「そうだよ。メンバー全員女の子。いわゆるガールズバンドってやつだね」
 
 興味を惹かれたように、セイラの瞳が輝く。決まったようだ。転校生はともかく、惺も来るってなったら奈々のやつも喜ぶだろう。
 
「凜、奈々ちゃんに迷惑がかからないか?」
 
 セイラを見ながら、惺が小声で言う。表情は神妙だ。
 
「んー、大丈夫だと思うけど」
「おい惺、いったい誰が凜の妹に迷惑かけるんだ?」
「その問いには答えられないな。特にセイラには」
 
 むすっとするセイラ。もともと顔がきれいだから、ご機嫌斜めでもさまになっている。
 
「まあまあ。俺としては、知り合いがいる部活のほうがいいんだよね。奈々なんていちおう身内だから声かけやすいし」
「凜もこう言っているから構わないだろう。よし、まずは軽音部だ」
「わかったよ……セイラ、言葉遣いはくれぐれも慎重に頼む」
「安心しろ。頼まれても性行為だとかセックスだとか言わない」
 
 これが漫画なら、俺も惺も盛大にずっこけているんだろうか。でも、俺はわき上がる黒い感情を押し殺すのに必死だった。幸い、近くにほかの生徒がいなかったから、聞かれてはない。
 
「……惺、ちょっと心配になってきた」
「奇遇だな。俺もだよ」
 
 そんなやりとりを繰り広げながら、文化部の部室が集うD校舎へ向かう。D校舎は、A校舎とB校舎のあいだから斜めに伸びた、文化系の部室が集まった校舎だ。なぜAとBの間にD? という疑問がわき上がるけど、D校舎はあとになって増設された校舎だそうだ。
 いちおう奈々に確認するため、スマートフォンでメッセージを送る。
 練習中なら気づかないかもとか思っていたけど、すぐに返事があった。LINEのメッセージではなく、通話着信で。
 
『もしもしっ!?』
「うおっ、そんなに慌ててどうした?」
『て、転校生って』
「ああ、今日うちのクラスにやってきた、海外からの――」
『そ、その人が惺さんと、キ、キキキ、キスしたってほんとっ!?』
「な、なんで知ってるの?」
『そんなことはどうでもいいの! キスしたの!?』
「え、えーと、それはね――」
 
 どう答えたものか。
 
「どうした?」
 
 怪訝な表情で、惺が問いかけくる。
 ……あ。
 
「いま目の前に本人がいるから、直接聞いて」
『ええっ!? ちょっ!?』
 
 慌てふためく奈々の姿を想像しながら、惺にスマホを渡した。
 
「…………? 相手は奈々ちゃんか?」
「ああ。あとは頼む。例のキスの件だ」
「おい!」
 
 俺は逃げるように、一歩後ずさった。
 惺はあきらめたように、スマホを耳に当てる。
 
「凜、どういう状況だ?」
 
 セイラが訊いてくる。
 
「俺の妹がね、なぜかふたりのキスの件を知っていたんだ」
「……ほう。で、自分では手に負えないから惺に丸投げしたと」
「はい。そのとおりです」
 
 必死に説明している惺に向かって、ぺこりと頭を下げる。
 
「ふふ。凜、きみは思ったよりもいい性格をしているな」
「いやぁ……はは」
「だが、どうして凜の妹が知ってる? 1年は違う校舎だったはずだろう。いくらなんでも、噂が広まるには早すぎる気がするが」
「俺も知りたいよ」
「まあクラスメイト全員が目撃者だからな。噂が想像以上に早く広まるのは、決してありえなくはないか」
「あのさ、他人事みたいに言ってるけど、セイラも当事者だからね?」
「もちろんわかっている。惺にディープキスしたのはわたしだ!」
「そ、そう」
 
 ディープキスだったんだ……そういえば、真奈海のやつもそんなこと言っていたような。
 
「凜っ」
 
 と、惺にしてはめずらしく厳しい口調で呼ばれながら、スマホを突っ返された。
 
「終わった?」
「終わった、じゃない。無茶ぶりもいいところだ」
「だってほら、俺みたいな第三者よりも、当事者が説明したほうがいいかなって」
「あのな、説明もなにもあるか」
「で、どうなった?」
「とりあえず事実だけは伝えて、理由はなんとかごまかした。けっこう苦労したんだぞ」
「ご苦労さまでしたっ!」
 
 再度、頭を下げる。俺なりの誠意だ。
 
「もういいよ。それから、見学自体は大丈夫だと思うってさ。顧問の先生にも話しておくって」
「わかった」
 
 スマホをポケットにしまい、再び歩き出す。
 
「そうだセイラ、あれはディープキスじゃないからな」
「なに? わたしは舌を入れたぞ」
「た、たしかに入ってきそうになったけど、先っぽだけ……そう、先っぽだけだ。だからディープキスじゃない!」
「見解の相違だな。わたしは真実を述べているまでだ。わたしの舌には、惺のそれの感触がまだ残って……」
「わかった! もうわかったよっ」
 
 めおと漫才って、こういうことをいうんだろうか。……悠が見てたら、視線がまた氷点下のようになるだろうけど。
 
「……ふふっ」
「笑うな凜。まったく困ったよ。目立ちたくないのに」
「惺よ、日本には人の噂も七十五日ということわざがあるだろう」
「セイラがそれを言うな」
「色恋沙汰だから、長引くかもね」
「凜、怖いこと言わないでくれ」
 
 会話を続けつつ廊下を進み、曲がり角の先にある階段をのぼる。
 
「ところで、凜の妹はバンドでなにを担当しているんだ?」
「ベースだよ。あとコーラスも最近はじめたとか言ってたかな」
「そうか。楽しみだ」
 
 D校舎の4階に到着。この階は吹奏楽部やコーラス部みたいな、音楽系の部室が並んでいたはずだ。防音設備がわりとしっかりしているから、音漏れはあまりない。
 
「えっと、たしか軽音部の1年生はC教室だったかな」
 
 以前、一度だけ奈々に忘れ物を届けたことがある。いちおう4階の案内図を見てから、C教室へ向かう。
 しばらく進むと現れたC教室。ドアの電光掲示板には、「軽音部・第3部室」と表示されている。ちなみにA教室とB教室も軽音部の部室だ。
 入ろうとドアに近づいた。
 ちょうどそのとき自動ドアが開き、中からひとりの女子生徒が出てきた。危うくぶつかりそうになる。
 
「おっと、ごめん」
「…………」
 
 女子生徒は無言で行ってしまった。
 深海の色をそのまま凝縮したような蒼い長髪を、ポニーテールにした子。気が強そうなきりっとした光を、群青色の瞳に宿している。控え目に見ても可愛いと言える顔立ち。ただ、ちょっと機嫌が悪そうな表情をしていたのが気になった。
 
「おーい、お兄ちゃん!」
 
 教室の中から奈々の声。俺たちを見つけた奈々が、まるで犬の尻尾のように大きく手を振っていた。
 
「お邪魔します」
 
 教室に入ると、20人くらいの生徒たちがいくつかのグループに分かれ、楽器やら音響設備をいじりながら準備をしている。
 中は楽器やスピーカー、それからアンプなど、かなりの数が置かれている。机や椅子の数は最低限だ。
 教室後方にいたグループへ近づいた。奈々を入れて4人の女子生徒たちが、それぞれ担当の楽器を手に準備している。
 ほかのメンバーへも軽く挨拶。中には、何度かうちに遊びに来た子もいる。
 じぃ~っと。
 奈々の視線は、惺の隣にいるセイラに向けられている。みんながいる手前、露骨には態度に出さないけど、やはり複雑そうだった。
 
「紹介するよ。転校生のセイラ・ファム・アルテイシアさん」
「凜の妹というのはきみか。よろしく」
「……よ、よろしくお願いします」
 
 ぺこりと頭を下げる奈々。動きがぎこちない。
 ほかのメンバーたちも軽く自己紹介をした。みんな結構可愛い。光太がいたらやかましく小躍りしそうだ。……想像したら、激しくむかついた。
  
「奈々ちゃん、今日は無理言って悪かったね」
「い、いえ、無理なんてそんなことないです! むしろ惺さんが来てくれて嬉しいですっ」
 
 建前上、今日のメインは惺じゃなくてセイラなんだけど、奈々にはあまり関係ないらしい。
 バンドメンバーたちが、奈々の様子を見ながらくすくすと笑う。それを受けた奈々はベースを構えて、誤魔化すように軽く弾いてみせた。
 
「あれ? そういえば5人組のバンドじゃなかったっけ?」
「あ、美緒ちゃんならお手洗いに」
「その名前、何度か聞いたことあるような……」
 
 奈々が家でバンドの話をするとき、時々出てくる名前だ。
 
「うん。綾瀬美緒ちゃん。すごいんだよ。このバンドのリーダーで、ボーカルとギター担当してるの。作曲も作詞もできて、まさに花形スター!」
「へえ」
 
 と、そこにセイラが小声で話しかけてきた。
 
「さっき入り口ですれ違った女子生徒が、その美緒って子だ。フルネームは綾瀬美緒。妹さんと同じクラスだな」
「おお、さすが」
「お兄ちゃん?」
「あ、なんでもない……ねえ、さっき入り口ですれ違った子がいるんだけど」
 
 容姿や特徴を伝える。
 
「うん。その子が美緒ちゃんだよ。それがどうかした?」
「いや、こう言っちゃなんだけど、すれ違ったときにちょっと不機嫌そうだったから気になってさ」
「あ……えーと」
 
 奈々の表情が曇る。ほかのメンバーも同様の反応を見せた。
 
「美緒ちゃんだけ、その……お兄ちゃんたちの見学に反対だったの」
「え?」
「練習の邪魔になるからって言って……でも、ほかのみんなは噂の転校生……アルテイシア先輩を一目見たかったみたいで」
 
 そう言われてみると、この教室にいる生徒たちの注意は男女問わず、セイラに向けられているような気がした。転校初日の朝に突如、男子生徒にキスした謎の美少女転校生――いや、セイラの場合は美少女ってより美女って表現したほうがしっくりくるか。
 
「わたしのことはセイラと呼んでくれて構わない。その代わり、奈々、と呼ばせてもらえるか?」
「あ、はい」
 
 セイラはほかのメンバーたちにも同じことを言った。
 
「奈々さ、キスの噂ってどこから広まったの?」
「え? ……えーと、クラスの誰かが、別の誰かのTwitterを見たって言ってたんだけど」
 
 わたしたちもそうです、と奈々とは違うクラスだという、ほかのメンバーもおおむね同じ意見だった。その情報の真偽はともかく、すぐに拡散していく。インターネットって怖い。

「奈々ちゃん、俺たちは結局見学してていいのか? その綾瀬さんに悪い気が」
 
 と、惺。
 
「あ、大丈夫ですっ。ちょっともめちゃったけど、最後は認めてくれたから」
「ありがとう。とにかく、俺たちは邪魔しないように隅っこで黙って見学してるから、いつもどおり練習してほしい」
「はい!」
「でも、綾瀬が戻ってこないと演奏できないね」
 
 メンバーのひとりが言う。
 
「顔洗って頭冷やしてくるとか言ってたよねー。そろそろ戻ってくると思うんだけどなー」
「あの子にはちょっと悪いことしたかな……」
「まあ、認めたというより、賛成多数で押し切られちゃったって感じだからね」
「戻ってきたら謝ろうかなぁ」
「……でもさ、今日の綾瀬、ちょっと機嫌悪かったよね」
「またお母さんとお父さんがけんかでもしたんじゃないの? けっこうよくあるじゃない」
「えー、それで機嫌悪いとかちょっと困るー。あの子、ただでさえ性格きついのにー」
 
 そんなバンドメンバーたちの会話。けっこうプライベートな内容も混ざってる。聞いてると、少し肩身が狭くなった。奈々は口を挟もうとしてるけど、話す内容とタイミングがつかめない様子だ。
  
「――あ、美緒ちゃん!」
 
 入り口に目を向けると、綾瀬さんがちょうど入ってきたところだった。きれいな足運びで迷いなく俺たちに近づいてきて、鋭く言う。
 
「見学するのは構いません。でも、邪魔だと感じたら即刻出ていってもらいますから」
「み、美緒ちゃんっ」
「奈々、あんたのお兄さんだからって、容赦はしないからね。ほかのおふたりも、ちょっと噂になっているからって関係ないから」
 
 例えるなら、大型犬の綾瀬さんと、小型犬の奈々。ふたりの背丈は同じくらい。でも、態度や雰囲気のせいで、どうしても綾瀬さんが大きく見える。
 自己紹介もなく、真っ先に出てきた言葉は敵愾心に満ちている。それをいちおう先輩の俺たちに向かって言えるなんて、第一印象のとおり、気が強い性格のようだ。
 
「綾瀬、言い過ぎだよ」
「そうだよー。奈々がかわいそー」
「あ……わたしは大丈夫だから」
「そんなこと言って、奈々だっていい気はしないでしょう?」
 
 ちょっとだけ、空気が悪くなってきた。離れたところにいるほかのバンドの生徒たちも、心配そうにちらちらと視線を送っている。
 
「綾瀬美緒だったな。それからほかのメンバーも、今日は急に無理を言ってすまない。けど、わたしは日本の部活動というものに興味があってな。しかも学生バンドなんて転校してくる前には触れる機会がまったくなかった。だから楽しみにしている」
 
 セイラの言葉には、上っ面ではないまっすぐな誠実さが含まれている。
 
「はぁ……わかりました。先輩」
 
 綾瀬さんも、さすがにほだされたようだ。
 
「ありがとう。ところで、きみたちのバンド名はなんだ?」
「……『The World End』」
「ほう。なかなか素敵な名前だと思うぞ」
 
 ガールズバンドにしては厳つい名前。俺も奈々から最初に聞いたときは少し驚いた記憶がある。
 
「練習開始します! 今日は月曜日なんでAの順番で!」
 
 女子生徒が大きな声で言った。
 空気にちょっとだけ緊張感が混ざる。
   
「えっと、お兄ちゃんたちは、あそこで見てて」
 
 奈々が耳打ちしてきた。
 俺たち見学組は、離れたところにあった椅子を並べて座る。
 演奏はバンドごとに順番があるらしい。たしかに、ここにいるすべてのバンドがいっせいに演奏したら、不協和音で練習にならない。
 最初に演奏するグループが、アンプの電源を入れる。マイクなどのテストも簡単にやっている。
 
「いよいよ始まるのか。楽しみだ」
「奈々たちは最後の演奏だってさ」
 
 そして、演奏が始まった。
 最初のバンドは、ボーカル、ギター、ドラムの3人。何年か前に流行った邦楽を演奏した。
 次のバンドはツインボーカルに、ギター、ベース、キーボード。ドラムは打ち込みらしい。聴いたことのない洋楽を颯爽と演奏している。
 それからいくつかのバンドが演奏をした。それぞれ持ち時間が決まっているみたいで、途中で演奏をやめて、改善点を話し合ったあと時間まで再び演奏、という流れだった。
 セイラは興味津々といった感じで楽しそうに眺めていて、惺は腕を組み、瞑想するように目をつむって静かに聴き入っている。
 
「……へえ」
 
 思ってたよりも、みんなうまい。
 残るのは奈々たちのバンドだけだ。  
 奈々たちのバンドは、ボーカル&ギターの綾瀬さん、ベースの奈々、それからキーボードとドラム。そして学生バンドにはめずらしい、サックスホーンがいる。サックスを演奏するのは佐久間愛衣さんといって、うちに何度か遊びに来たことがある子。奈々とは中学時代からの親友だ。  
 準備が終わり、いよいよ「The World End」の演奏が始まった。
 静かなキーボードの旋律から始まり、佐久間さんのサックスが入る。それから綾瀬さんのギターソロで、それまでの空気を一変するような変調。奈々のベースと、ドラムのリズムもバランスよく調和している。
 聴いたことのない曲。オリジナルだろうか。 
 そういえば、家で練習する奈々は何度も見たことがあるけど、実際にこうしてバンドとして演奏する姿は、これがはじめてだ。
 綾瀬さんの歌声が響く。澄んだ声音は、ギターを同時に、しかもかなり高度なテクニックで弾きながらでもまったくぶれない。
 Aメロ、Bメロと進んで、サビへ。歌詞は女の子視点で、失恋から立ち直り、新しい恋愛に向かっていこう、というようなことを描写している。ありがちな内容だけど、洗練されていてセンスが光る。
 奈々のバックコーラスが、ところどころで聞こえてくる。
 曲は、はじめてでも聴きやすく、耳に残りやすいキャッチーなメロディ。最後のサビで盛りあがりは最高潮へ。  
 印象的な後奏で、幕を下ろした。
 ……やるじゃんか、奈々。
 はじめて見る妹の勇姿に、けっこう感動してしまった。もちろん、素人の耳でもミスだとわかる箇所がいくつかあった。奈々だけでなく、全員に。いや、綾瀬さんはミスらしいミスはなかったか。
 とにかく、このバンドの実力は、いま聴いていた中でいちばんだ。身内びいきとかでなく、頭ひとつ分くらい、総合的に飛び抜けている。
 ……ただ、ほんの少しだけ、小骨がのどに刺さったような、奇妙な違和感を感じた。なにが原因の違和感なのか、うまく言い表せる言葉が見つからないけど。
 
「どうだった?」
 
 セイラと惺に問いかける。
 
「どのバンドも思った以上にレベルが高かった。音楽というものに触れるのは久しぶりだったが、感動したぞ。凜の妹もなかなかだ」
「悪くないな。それより、綾瀬さんのあのギター……」
 
 綾瀬さんのエレキギターは、持ち主の髪の色を映し出すように蒼い。ところどころに傷があったり色がはげてたりするのは、それだけ使い込んでいるってことだろうか。ボディにはアニメチックなネコのシールが張られている。ギターの真贋はさすがにわからないけど、決して安物ではないのはなんとなくわかった。
 
「ま、まさか、数百万円はするハイエンドモデルとか?」
 
 惺は苦笑しながら首を横に振った。
 
「そうじゃない。……なんでもないよ」
「あ、そう? それで、演奏はどう感じた?」
「ああ、それは――」
「全然だめっ!」
 
 惺の言葉をかき消す大声が響く。マイクを通した綾瀬さんの怒声。眉間にしわを寄せながら、綾瀬さんはマイクの電源を切る。
 
「遠坂は全体的に少し走り気味。ドラムはリズムの要だから気をつけてって前から言ってるでしょ! 木崎もちょっとテンポがずれてる。演奏の速度に手が追いついてないよ! それから、奈々は技術は上がっているんだからもっと自信を持って落ち着いて弾いて。佐久間は、テクニックはいいけど音色が冷たい。もっと温度を曲に合わせて!」
 
 綾瀬さんの声はよく通るから、マイクなしでも充分に響いてくる。
 次々と出てくるだめ出し。奈々は真剣に耳を傾けているけど、ほかのメンバーの表情が暗くなった。……えーと、ドラムが遠坂さんで、キーボードが木崎さんか。
 
「全然成長してないよ! これじゃだめ!」
「ねえ、綾瀬」
 
 ドラムの遠坂さんが立ち上がる。
 
「なに?」
「あんたさぁ、もうちょっと言い方ってあるでしょ」
「言い方? 間違ったことは言ってないでしょ。言い方なんか気にする余裕と時間があるなら、練習に費やして」
「だからぁ、その言い方がさー、上から目線っていうかー」
 
 この間延びしたしゃべり方はキーボードの木崎さんだ。
 
「先週まで中間テストやってたんだから仕方ないじゃない。勉強しなきゃならなかったし。……綾瀬さ、なんでそんなに焦ってるのよ?」
 
 と、再び遠坂さん。
 
「焦るわよ。サマーフェスティバルまで、そんなに時間ないんだから! 練習してこなかった理由をテストのせいにしないで!」
「ちょ、ちょっと美緒ちゃん……」
 
 奈々がなだめにかかる。たぶん昔からなんだろうけど、こういう状況だと、だいたい泣きそうになっている。
 
「わたしは仲よしこよしでこのバンドやってるわけじゃないの。真剣に取り組みたい。みんなだってそうしようって言ってたじゃない。なのになに、この体たらく」
「理想が高いのはいいけど、あまり押しつけるのはよくないと思う。みんなにも個性があるんだから」
 
 冷静な声は佐久間さんだ。
   
「ああもう、うるさい! 今日は終わり! これ以上練習しても無駄!」
 
 綾瀬さんはギターを投げ出して、ひとり教室を飛び出してしまった。
 部室の中が静まりかえる。ほかのバンドの面々は、「ああ、またか。やれやれ」みたいな雰囲気だった。
 
「え、えーと……ひとまず休憩にします!」
 
 仕切り役の女子生徒が言う。
 ベースを置いた奈々が歩いてきた。ほかのメンバーも行き場がないのか、こちらにやってくる。
 
「…………うぅ……ふぇ~んっ」
「な、奈々? 泣くなって」
「だって、せっかく見学来てもらったのに、こんな……ひっく」
「綾瀬さんって、いつもああなの?」
「ぐずっ……うん」
「綾瀬のやつ、もっと思いやりのある言い方ができればいいのに」
 
 遠坂さんの言葉。
 
「最近、ちょっと厳しいよねー」
 
 と、木崎さん。
 
「別に悪い子じゃないんだけど。音楽のことになるとね……どうも感情的になるというか」
 
 佐久間さんは冷静に分析してる。
 
「奈々たち、今日はこれで終わり?」
「うん。美緒ちゃん、ああなっちゃうとしばらく戻ってこないから」
「そっか」
「ごめんね。お兄ちゃん。惺さんと、セイラ先輩も」
「いや、わたしたちは気にしてない。それよりも、バンドがうまくまとまるように行動するほうが建設的だぞ。実力はあるのにもったいない」
「そうだ。こういうのは悠に相談してみれば?」   
「悠ちゃんには何度か相談したよ。でも、結局美緒ちゃんって基本的にあの調子だから、どうにもできなくて」
 
 それは困った。
 俺たちも相談に乗るくらいはできるけど、それ以上となると難しい。こういうのは、部外者が軽々しく首を突っ込むものじゃない。惺と悠の問題と一緒だ。
 惺とセイラもそれをわかってるのか、それ以上はなにも言わなかった。
 
「さて……どうしよう、これから」
 
 このままここにいるのも気まずい。
 
「わたしたちも、今日のところはこれで終わりにしないか」
「セイラはそれでいいの? まだほかの部活見る時間はあると思うけど」
「いや、今日は充分だ。いい意味で濃い時間が過ごせたからな」
 
 惺もそうだな、とうなずいた。
 
「奈々、とりあえず俺たちは帰るよ」
「……うん。わかった。ごめんね」
「だから気にするなって。じゃあな」
 
 ほかの面々にも挨拶を済ませて、俺たちは軽音部の部室を出た。


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