Alive03-7

 放課後の教室で、惺とセイラが対峙していた。
 
「これから椿姫と会うとはどういうことだ?」
「彼女からの相談。昼休みの続きだよ。それがどうした」
「よりにもよって、なぜわたしが参加できない今日なんだ!」
「俺のほうこそ聞きたい。なぜセイラのスケジュールに合わせないといけないんだ? ……もっとも、だから今日にしたわけだけど」 
「惺、本音、本音」
 
 俺の注意に、惺はわざとらしく肩をすくめる。
 すがるような視線を伴って、セイラが俺を見てきた。

「凜は参加するのか?」

 昼休みの小日向さんの様子を見るに、惺とふたりっきりのほうが話しやすいんじゃないかと思う。俺も、ふたりがどんな会話をするのか気にならないと言えば嘘になるけど、そこまで野暮じゃない。
 
「頼みがある。凜も参加して、見張ってくれ」
「見張るって、なにを?」
「む……こういう気持ちを、日本語ではどう表現したらいいのか……もやもや? そう、とにかくもやもやするんだ。だから――」
「それってさ、もしかして……やきもち?」
「……む?」
「惺と小日向さんがふたりっきりになるのが、どういうわけかセイラにとっては好ましくないと。要するにそういうことだよね?」
「凜、セイラがふつうの乙女のように、素直にやきもち焼くわけないだろ?」
「それ、本人を前にして言わないほうがいいと思うんだけど」
 
 恐る恐るセイラに目を向けると、なぜか彼女は笑っていた。新しいことを発見した子どものように、瞳が好奇心で輝いている。
 
「なるほど……これがやきもちというやつか……ふむ」
 
 自分に言い聞かせるようにつぶやいている。相変わらず笑っていて、どこか楽しそうだ。
 
「惺、セイラの心理が理解できない。説明求む」
「さあ。それがわかれば神さまにでもなれるんじゃないか」
「いやいやいや、いつもの超能力でさ。……そんなことより、惺とセイラの仲じゃないか」
「よしてくれ。セイラがまた調子に乗る」
「おい。さすがのわたしもそろそろ怒るぞ? ――っと、時間か」
 
 セイラが自分の席に置いてあった荷物を取り、ドアのところまで歩いて行ったところで振り返った。
 
「では凜、よろしく頼む!」
 
 そう言って、返事も聞かずに颯爽と立ち去っていった。
 
「――って言われちゃったけど、どうしよう?」
「凜がいてくれると、俺としては助かるけど、小日向さん次第だな……ちょっと訊いてみる。待っててくれ」
 
 惺はスマホを取り出してコールした。
 
「……いつの間にか連絡先交換してるし」
 
 隅に置けないな、とセイラは称していたけど、あながち間違いではないらしい。
 
「――ふっふっふ。なにやらおもしろそうな話をしてるじゃないか」
「なんだクラスメイトK? お呼びじゃないぞ。しっし」
「俺は犬か! 今日も案内イベントないって聞いたときはつい男泣きしてしまったけど、さっきから凜たちの話を聞いてると、おもしろそうなイベントがあるみたいじゃないか!」
「盗み聞きしてたのか? 性格の悪い小者め。……だいたいな、今回のはおもしろうそうとか、イベントだとか、そういう色眼鏡で見るんじゃない、このうつけ者。人が悩み苦しんでいるデリケートな問題なんだぞ。話を聞いてたんなら、デリカシーがない上に馬鹿なおまえでもちょっとは察せるだろ?」
「悪口を織り交ぜて説明するなぁっ! だってさ、これから会うの小日向椿姫さんって言ってたじゃん」
「ん? 光太、小日向さんのこと知ってるの?」
「小日向さんってあれでしょ、ご両親が有名人で……あと、去年の演劇祭で主演やってた可愛い子」
「ちょっと待て。いま、なんて言った?」
「ご両親が有名人――」
「違う、そのあとだ!」
「演劇祭で主演やってた」
「それ! あの小日向さんが主演? いや、まずはそれより、おまえ、演劇祭観たってことか?」
「うん」
「へえ。おまえが演劇に興味あるとは知らなかった」
 
 演劇祭とは、毎年12月の終わり、冬休みに入ってから行われている演劇部の催し物だ。演劇部にとっては集大成とも言える晴れ舞台で、学園祭や定期公演などよりも規模が大きい。
 
「俺の情報網によるとね、演劇部にはわりと可愛い女の子が多いって噂があってね。いやぁ、噂は本当だったよ」
  
 期待した俺が馬鹿だった。
 
「というわけで! 悩める小日向さんの相談に、俺も参加しよう! ……ん?」
 
 光太の制服の袖を引っ張る女子生徒がいた。クラスメイトの橋本さん。小柄で幼い顔立ち。艶のある黒髪をおさげにしている。そんな彼女は、憮然とした態度で光太を睨んでいた。
 
「川嶋くん、これから体育祭実行委員会の会議があるって、もちろん覚えているよね?」
「へ?」
「はあ、やっぱり忘れてる。ほら、もうすぐ集合時間だから、行くよ」
「ちょ、ちょっと待って!? 俺、急用が!」
 
 橋本さんの視線がさらに険しくなる。
 体育祭は再来週の土日に行われる。橋本さんと光太はうちのクラスの実行委員だ。もちろん、光太がそんな面倒な役職を自ら率先して引き受けるわけがない。授業を何度も寝て過ごした光太に、織田先生が課した罰のひとつ。
 先週のロングホームルーム、実行委員を決めるとき、「川嶋がどうしても実行委員をやりたいそうだ。みんな、異論はないよな」という織田先生の言葉。当然、クラス全員が盛大な拍手で賛成を表した。
 
「橋本さん! じ、実は、ばあちゃんが危篤ですぐ帰らないといけないんだ!」
「そう? えっと、『川嶋がもしおばあさんのことを持ち出して逃げようとしたら、すぐわたしに知らせてくれ。家に連絡して事実確認をする』って、織田先生から言われているんだけど」
「んげぇっ!?」
「それからね、『もうちょっとは言い訳の仕方を考えろ。小学生か』だって」
「さすが織田先生。扱い方をよくわかっていらっしゃる。光太、いい加減に降参しろ」
「じゃあ星峰くん、川嶋くんは強制連行するね」
「うん。ついでに強制労働させて、性根を鍛え直してやって」
「はーい」
 
 素敵な笑顔を残して、橋本さんは去っていった。もちろん、光太の腕を引っ張りながら。光太はなんか情けなくわめいているけど、橋本さんは華麗に無視していた。彼女、将来は頼れる女性になりそうだ。
 
「川嶋はなんというか、いつも間が悪いな」
 
 いつの間にか通話を終えていた惺が言う。
 
「あれは自業自得だろ。で、小日向さんのほうはどうなった?」
「凜が来るのは構わないってさ。別に嫌そうではなかったかな。だから凜も必要以上に気を遣うことはない」
「そっか。そういうことなら」
 
 教室を出て、並んで廊下を歩く。
 
「……なんか、セイラがいないのって新鮮だな」
「そうか? あいつが転校してきたの先週だぞ」
「そうだけどさ。なんかこう、あらためてセイラの存在感の強さを思い知ったよ」
「ふふ……まあ、言いたいことはわかる」
 
 真奈海はバイトのため、ホームルームが終わってすぐに帰宅した。うるさい光太もいまはいない。そういえば、惺とこうしてふたりで連れ立って歩くのはめずらしい。
 階段を下り、1階へ。それからエントランスホールを抜けて、校舎の外に出た。
 
「んで、小日向さんとはどこで会うんだ?」
「碧乃樹池公園。あそこなら落ち着いて話ができるだろうから」
 
 俺たちが最初に小日向さんと会ったのも、その一角だった。
 
「なるほど。……なあ、さっき光太が言ってたんだけど」
「小日向さんが、去年の演劇祭で主演をやっていたって話か。聞こえてたよ」
「それ、本当なのか?」
「ああ。その舞台は俺も観たから」
「そうなのか? ということは、先週小日向さんと会ったときには、もう彼女のこと知ってたってこと?」
「そういうことになるな」
「なんで黙ってたんだ?」
「……別に話す必要はないと思ってたし、タイミングもなかった」
「まあ、それはいいか。でもさ、小日向さんのイメージだと、主演って言われてもピンとこないんだけど」
「彼女の演技は見ただろ? あれを思い出してもらえれば、そうおかしな話でもないと思うけど」
 
 碧乃樹池のほとりでひとり「夏の夜の夢」のパックを演じていた小日向さん。その演技力は、本物の妖精がそこに存在するかのような真に迫ったものだった。けど、どうしても小日向さんはあがり症で人見知りというイメージが先に立ってしまう。
 
「実際、舞台の上での彼女も、母親譲りの才能というだけでは説明がつかないような、圧倒的な演技だったよ。存在感という意味でも、誰よりも輝いていた」
「……へえ」
 
 F校舎に突き当たり、講堂通りを右へ曲がる。
 遠くに大講堂が見えた。相変わらず荘厳な建物だ。
 
「――まあ、小日向さんの悩みは、そのあたりにあると言っていいかな」
 
 ぽつりと惺が言った。
 
「……惺さ、昼休みにどこまで話を聞いたんだ?」
「だいたいの状況がわかる程度には」
「あの短時間で? ……惺って、地味にコミュニケーション能力高いよね」
「ふつうだろ。凜だったら、やろうと思えばできる」
「そうかな……。で、惺の言うそのあたりって、小日向さんの才能のこと?」
 
 静かにうなずく惺。
 
「ひと言で表すなら、出る杭は打たれる」
「ああ、なんかわかった気がする。目立ちすぎて、周囲から反感を買ったのかな」
「さすが凜。そういうことだ」
 
 惺が語り出す。去年の演劇祭。12月だともう3年生は引退していないから、出演するのは1年生と2年生。演劇部は人数が多いから、いくつかのグループに分かれて、それぞれ別々の内容の公演を行った。
 小日向さんが出演した演目は、俺たちと同世代の苦悩とか幸福を、群青劇で描いたオリジナルの戯曲だったそうだ。それがアンケートの結果でダントツの1位となった。主役の子の演技が素晴らしい――そんな感想が大多数だったそうな。
 
「もちろん、ほかにも演技の才能のある生徒たちはいたさ。でも、小日向さんの演技はそれらを覆い隠してしまうほど、圧倒的に輝いていた。俺にしても、感動して鳥肌が立ったのは久しぶりだったかな」
「へえ、惺がそこまで言うか」
「本当のことだからな。……それで小日向さんは、年明け――今年の1月頃だな、その頃にはもう演劇部の中で孤立していたらしい。その、いわゆるいじめみたいなものもあったそうだ」
「そりゃ理不尽だな。小日向さんに非はないじゃんか。そこまで詳しくないけどさ、演劇とか芸術って基本的に実力主義だろ? それなら才能のある人に注目が集まるのは自然だと思うんだけど」
「そうだな。でも俺たちはまだ学生……認めたくない事実を認めるには、まだ未熟なんだと思う」
 
 惺は、きっと俺が思っているよりずっと成熟してるんだろうなと感じる。彼が言っているのは明らかに大人の意見だ。
 
「――と。凜、ちょっと待っててくれ」
 
 道ばたにある自販機で、3人分の飲み物を買った。
 ……ほんと気が利くやつだな。光太もちょっとは見習ってほしい。
 
「あ、俺の分は払うよ」
「いや、いい。凜にはこのあいだ奢ってもらったからな。ここは俺に払わせてくれ」
「そう? さんきゅ」
 
 セイラが転校してくる日の前日の夜中――いや、日付は変わっていたから当日か。そのとき、ばったりと会った公園での出来事を思い出す。流れる水のようなよどみないバレエを踊る惺の姿は、いまでもまぶたの裏に焼き付いている。
 それからほどなく碧乃樹池公園に入った。小日向さんとは池の北側にある休憩所で待ち合わせをしているらしい。池を囲んでいる遊歩道を進んだ。
 
「小日向さんは演劇部に嫌気が差して休部してる。で、そこに戻ってきてほしいと部長から言われているから悩んでる。……あれ? なんであの部長は小日向さんに戻ってきてほしいって思ってるんだ? 事情を知ってるならそう簡単には言えない気がするけど」
「そこまではまだ聞いてないんだ……そういえば、ちらっと気になることを言ってたな。部長だけでなく、副部長にも同じようなこと言われているって」
「副部長? なんかややこしくなってきた気が――」
 
 急に惺が立ち止まる。
 
「凜、ちょっとストップ」
 
 どうした? と言いかけたところで、しっ、と惺が仕草で伝えてきた。ここはもう目的地の目と鼻の先。茂みの向こうに、丸太を組んで造られた休憩所の屋根が見える。
 
「小日向さんと誰かが話してる。とりあえず、そこの陰から様子をうかがってみよう」
 
 そう言って、惺は茂みの隙間をのぞき込む。姿も見えないし声もほとんど聞こえないのに、ほんとよくわかるよなぁと感心しつつ、俺も惺にならった。
 ……なんか最近、こうやって陰からのぞき込むパターンが増えたような。最初に小日向さんと会ったときもそうだったし。 
 休憩所の中には、小日向さんと見知らぬ男子生徒がひとり。中背だけど体育会系のようながっしりとした体格。黒髪をスポーツ刈りにしている。雰囲気から、なんとなく先輩だろうなと感じた。
 ふたりともベンチには座らず、それとなく離れた位置に立って向かい合っていた。

「あの人誰だか知ってる?」

 小声で惺に問いかけると、彼は首を横に振った。
 
「どこかで見たことあるけど、詳しくは」
「セイラがいてくれれば一発でわかったな、きっと」
「そうだな。それでこの状況、たとえば愛の告白に見えるか?」
「違うと思う。なんか空気が重々しい」
 
 男子生徒を潤んだ瞳で見つめる小日向さん。対する男子生徒は、どこか威圧的な視線を向けているように見える。ふたりのあいだに言葉はないけど、見えない壁のようなものがある気がした。
 数十秒ほどの沈黙のあと、男子生徒が口を開いた。
 
「小日向さん、まだ戻ってくる気はない?」
 
 低いけどよく響く声だ。
 小日向さんは無言を返した。
 
「田村部長からも同じようなこと言われてるんだと思う。けどさ、やっぱりもったいないよ」
「わ……わたしは……」
「小日向さんがつらい思いをしたのはもちろん知ってるよ。でも、きみをいじめていた連中も、あの穏やかな鳴海先生に一喝されて、さすがに反省してるんだ」
「そ……それは……」
「僕のほうに戻ってきてもらえればいい。田村部長のほうと違って、きみをいじめていた連中は少なかったはずだ……どうだい?」
「……うぅ」
「そんな泣きそうな顔しないでよ。まるで僕がいじめてるみたいじゃないか」
 
 ふたりの会話が、木々のあいだを縫う風に運ばれて届いてきた。
 
「……思い出した。彼は演劇部の副部長だ。3年生で、名前は忘れたけど」
「まあ、会話の内容からそんなところだろうと思ったよ。でもこのまま放っておいたら、小日向さん泣いちゃうぞ」
「そうだろうな。それは困る。――行くぞ」
 
 惺が素早い動作で茂みから姿を出した。
 
「え――ちょっ!」
 
 惺の思いがけない行動に戸惑いつつ、俺もあとを追う。俺たちの存在に気づいたふたりが、こちらを見た。
 
「あ……ま、真城くん!」
 
 小日向さんの表情は、まさに困ったところに現れたヒーローを見るヒロインのそれだった。
 
「お待たせ、小日向さん」
 
 軽やかな口調で微笑みながら惺が言った。
 
「……きみは?」
 
 突然現れた俺たちに、怪訝な視線を向ける副部長。
 
「はじめまして。2年G組の真城です」
「……あ、同じく、星峰です」
「2年の真城……真城? もしかして、真城惺?」
「俺のことご存じで?」
「去年の有名な絵画コンクールで、最優秀賞を受賞したのが真城って名前だったはず。きみのことだよね?」
「……そんなこともありましたね」
「ああ、僕は3年の高見だ……それで、真城くんと星峰くんは、どうしてここに?」
「ここで彼女と待ち合わせしてたんです」
「待ち合わせ?」
「小日向さんとはこの前、シェイクスピアの話で盛りあがって。それで、同じくシェイクスピア好きな星峰を誘って、3人で語り合おうってことになって……はい、小日向さん」
 
 惺がふたつ持っていた飲み物の片方を手渡した。
 小日向さんも気づいているだろうけど、惺の雰囲気がいつもと違う。口調は軽やかでありながら、自信に満ちている。頬には常に微笑がたたえられていて、たしかな余裕を感じさせた。
 
「……あ……ありがとう……?」
 
 状況についてこられないのか、小日向さんは目をぱちくりさせた。
 
「先輩もご一緒しますか? ……あ、先輩のぶんの飲み物はないですけど」
「いや、僕は――」
 
 副部長――高見先輩はまず小日向さん、次に惺、最後に俺に一瞥をくれたあと、小さくため息を吐いた。
 
「遠慮しておくよ。じゃあ、僕はこれで――」
 
 大股で足早に去っていく高見先輩。田村先輩もそうだったけど、演劇部の人たちは歩き方がきれいだ。
 
「はあ……疲れた」
 
 高見先輩の姿が見えなくなったところで、片手で頬を揉みながら惺がつぶやいた。
 
「慣れないことはするものじゃないな」
 
 いつもの惺。
 
「おい惺、なんだいまの」
「ん? 直接的にこの場から追い出すのはさすがにできないから、ああやって間接的に、先輩にとって居心地が悪くなるように仕向けたんだけど。それがどうした?」
「いや、言ってたこと全部が全部嘘じゃなかったけど、よくもまあ舌がまわるなって。雰囲気も話し方も、惺じゃない別の誰かがいるのかと思った」
 
 小日向さんもうなずいた。
 
「いつもの俺だと、もうちょっと面倒なやりとりが必要な気がして。先輩には悪いけど、ああいう態度を取らせてもらった。幸い、先輩とは初対面だったし」
 
 初対面の後輩から、ああも余裕のある態度で勢いよく畳みかけられたら、俺が高見先輩だったとしてもすぐにこの場から去ったはずだ。セイラと小日向さんの初対面のときの構図と似ている。
 ……こいつ、この短時間でここまで計算してやったのか?
 
「むむ……侮れん」
「気のせいだよ。座ろうか」
 
 休憩所の中には木製のベンチと、その中央に長方形のテーブルが置かれている。どれも丸太を加工して作られたものだ。
 それぞれベンチに座り、テーブルを囲んだところで小日向さんがまず口を開いた。
 
「真城くん……絵画コンクールって、あの……A校舎の廊下に飾られている絵のこと?」
「そうだよ」
「あれ……真城くんの絵だったんだ……へぇ」
 
 小日向さんが驚きと感心を隠せないのは無理はない。
 A校舎の1階。職員室や学園長室へと続く廊下の壁に飾られた、1枚の大きな絵画がくだんのそれだ。
 学生向けのコンクールではなく、プロやアマチュアなどの画家が作品を出品する日本でも有数な規模の絵画コンクール。その最優秀賞に輝いたのが、当時1年生だった惺の絵。とんでもない才能の持ち主が現れたとか、数百年にひとりの逸材とか、マスコミでもかなり取り上げられていた。もっとも、惺自身はマスコミの取材はすべて断ったみたいだけど。
 
「あれって、個人出品だったっけ?」
「ああ。あの絵を見た知人がこんな絵を描いておいてタンスの肥やしにするのはもったいないとか言って、かなり強引に出品させられて。それであの結果だ。おかしくて笑っちゃったぞ」
「おかしくて笑うようなことか? ……えーと、あれタイトルはなんだっけ――」
「俺の話はもういいよ。今日はなにしにここに来たんだ?」
「それもそうだな」
「あ、あのっ……真城くん……そ、それから星峰くんも……ありがとう」
 
 ぺこりと頭を下げる。
 
「困ってたみたいだったから。高見先輩は、演劇部の副部長で間違いないよね?」
 
 惺の問いかけに、小日向さんは小さくうん、と答えた。彼のフルネームは高見智則ということも付け加える。それから惺は、俺にだいたいの事情を説明したと小日向さんに伝えてから、話を切り出した。
 
「さっき高見先輩の言葉の中に気になる部分があって。田村部長のほう、そして高見先輩のほうってどういうことかな?」
 
 それは俺も気になった部分だ。
 
「……えっと、その、は……派閥……っていうのかな」
「派閥?」
「うん……田村先輩と高見先輩の派閥」
「なんで派閥があるんだ?」
 
 俺の率直な疑問に、小日向さんは困った表情をした。
 
「か、考え方の違い? ……演劇に対する」
「そういうのって、去年……小日向さんが休部する前からあった?」
 
 まだ緊張している小日向さんに対して、惺はやさしい声色で話しかける。彼女も惺と話しているほうが、少しだけ落ち着いているような気がした。
 ……しばらくは惺に任せてもいいかも。そうなると俺がここにいる理由は? となってしまうけど、まあ、細かいことは気にしないことにしよう。
 
「……えっと……」
「順番に話してもらえるかな。ゆっくりでいいから」
「うん……」
 
 朴訥にしゃべり出す小日向さんの話に耳を傾ける。
 まずは部長である田村涼子と、副部長である高見智則について。ふたりは、1年生のときから注目されていた実力者だった。過去には、いくつかの演劇コンクールで名誉ある賞を受賞したこともあるらしい。そんなふたりだから去年の秋、当時の1年生が引退してからは部のまとめ役になったのも無理はない。やがて部の中で話し合われ、田村先輩が部長に、高見先輩が副部長になった。ここまでは、特にもめることなく進んだそうだ。
 ただし、話が変わってくるのはここからだ。田村先輩と高見先輩のあいだに、部の方針をめぐる見解に齟齬が生じてしまった。
 しかし、ここまで込み入った話を、口下手の小日向さんから聞き出した惺の話術には正直瞠目した。ふだんは口数がそれほど多くない惺が積極的に、小日向さんに必要以上の緊張や困惑を与えることもなく話題を投げ、聞きたい情報を正確に引き出している。やっぱり、俺がいなくてもなんとかなったんじゃないだろうか。セイラからふたりを見張ってくれと頼まれたことは置いておくにしても。
 
「凜、細かいことは気にしないんじゃなかったのか?」
「……ん? 俺、それ口に出したっけ……?」
「ふふ。それこそ、細かいことは気にするな」

 例の超能力が俺を戦慄させる。小日向さんはもちろん、なんの話かわからないからか、首をかしげている。
 
「ごめんね小日向さん。続きを――」
 
 涼しい顔をしながら、惺が先をうながす。
 
「えっと……ふたりの意見は……よ、より多くの人に、わかりやすい演劇を楽しんでもらうか……もっと純粋に芸術性を追求するかで……対立して、その、もめちゃったらしくて」
 
 前者が副部長、後者が部長の意見だそうだ。小日向さんが「らしくて」という言葉を使ったのは、彼女が休部したあとになって話を聞いたから。小日向さんが部に顔を出していたときはまだ、ふたりの見解の相違はそこまで顕在化していなかったらしい。
 
「ここまで聞いて、凜はどう思う?」
「んー、俺は演劇業界のことあまり知らないから、知っていることでたとえさせてもらうと、文学でいう直木賞か芥川賞か、どっちの方向性で行くかもめたってこと?」
「まあ、その認識で間違ってはないと思う」
「そりゃたしかに、両立させるのは難しいだろうねぇ」
 
 大衆小説の直木賞に、純文学の芥川賞。このふたつは文学賞として密接不可分であるけど、両立させるとなると話は別。そもそも両立という考え方が無理筋だ。
 
「結局、最後まで部長と副部長の意見はまとまらなかったわけか。それでふたりそれぞれの意見に追随する部員が集まって、いつの間にか派閥が出来ていたと……ねえ、それでそのふたつの派閥は、部の覇権を争ってるの? 政府の与党野党みたいに」
「え……そういうわけじゃ……ないと思うけど」
「顧問の先生はどう考えてるの? こういう場合はさすがに口を出すんじゃ……あ、演劇部の顧問って誰だっけ?」
「鳴海はるか先生」
「あー、はるかちゃんか……そういえば、前に真奈海からそんな話を聞いたような」
 
 高見先輩もさっき、鳴海先生がどうとか言っていたことを思い出す。
 
「は、はるか……ちゃん?」
「あ、ごめん。昼休みに豊崎真奈海っていただろ? あいつの去年のクラス担任が、鳴海先生だったんだ。ちなみに悠も同じクラスだったね。真奈海のやつ、基本的に女教師に対してはちゃん付けで呼んでたから――って、いまのB組の担任って鳴海先生だったっけ」
「うん……そう」
「それなら、小日向さんもいろいろ相談しやすいんじゃないか?」
「凜、これは言ってなかったか。小日向さんに休部を提案したのは鳴海先生なんだ」
「昼休みに聞いた話か。どういうこと?」
「わたし……最初は退部届けを出したの……でも、鳴海先生は退部じゃなくて、とりあえず休部ってことにしたらどうかしらって」
 
 小日向さんが演劇部を休部している理由は聞いた。正直、俺だったら即刻退部していてもおかしくない理不尽な理由。ちなみに退部しても再入部することは不可能じゃない。でも、休部扱いのほうがまだ戻りやすい。つまり、小日向さんは鳴海先生の休部という提案を受けつけたってことは――? 
 俺は真っ先に浮かんだ直球の質問を飲み込んで、変化球を投げることにした。
 
「小日向さんはさ、部長と副部長の意見、どちらに賛同する? 強いて言えばってくらいの感覚でいいから」
「……え……と」
 
 答えを求めるように、屋根と柱のあいだから空を仰ぐ小日向さん。けど見上げた先に答えは見つからなかったようだ。
 けど、再び俺を見据える瞳には、確固たる答えが浮かんでいるように見えた。
 
「わたしは、どちらかと言えば、副部長の意見に賛成……かな」
「それはどうして?」
「……う……えーと、その」
「凜は純文学も読んでるよな。好きな作品はなんだ?」
 
 うまく説明したいけどなかなか言葉が出てこない、そんな様子の小日向さんに、惺が助け船を出した。
 
「太宰治の『人間失格』とか、川端康成の『雪国』とか……あとは、志賀直哉の『暗夜行路』も好きだな」
「たとえば、豊崎が『ねえねえ、あたし最近読書に目覚めたんだ! だから凜のおすすめの本教えてー』って言われたら――なんで笑うんだ? ――その作品たちを真っ先に紹介するか?」
「いや、それはない」
 
 あいつがそれらの作品を最後まで読めるとは思えない。言葉遣いや文体が、いまのそれとは違いすぎて、真奈海の理解の範疇を超えてしまうはずだ。頭から煙を出してショートする真奈海の姿を、おもむろに想像した。
 
「じゃあ、この前川嶋から借りたっていうライトノベルだったらどうだ?」
「ああ、それならありかな。あれなら読みやすいし、内容もそこまで偏ってはないし。読書初心者に最初に紹介するなら最適……って、ああ、なるほどね」
 
 惺の言いたいことがわかった。
 
「小日向さんは、演劇をよく知らない人たちにも観てほしいんだね」
「……うん」
「それだとたしかに、シェイクスピアとかは敷居が高すぎるか」
 
 シェイクスピアの台詞まわしは独特で、情景描写や心理描写とかも、そのほとんどが台詞の中に含まれている。本だったら理解できるまで読み返せばいいけど、演劇ではそうはいかない。最悪、観客が理解できないまま進行して、やがて終わってしまう。
 
「わたしも、シェイクスピアの作品は好き。何回読んでも新しい発見があるし……その、お父さんの影響もある。けど、だけどね――」
 
 そこから語り始める小日向さんの意見は、説得力に満ちていた。
 まず、観客のこと。学生演劇では、観客の幅がかなり絞られている。学園祭や発表会での公演だと、出演者の友達や父兄などが多い。つまり、演劇に触れたことがない人たちが大多数を占める。そんな中で、世界でもっとも著名な劇作家の作品といえども、正当な評価をもらえるのか。
 次に、演じる側のこと。そもそも出演者は全員、十代の若者たちだ。プロの役者――たとえば、世界的に有名な小日向さんのお母さんが出演するならともかく、未熟な若造がどんなに背伸びしたって、はっきり言ってその実力や表現力にも上限がある――小日向さんの言葉はもっとマイルドだったけど、そんなことを語った。
 
「去年の演劇祭で、小日向さんが主役をやっていた演目も、どちらかと言えば大衆向けの内容かな。でも、十代半ばの出演者たちがおなじ世代の役を演じていたんだ。無理はなかったし、共感できるところも多かった」
「真城くん……もしかして観てくれてたの?」
「なんだ惺、言ってなかったのか」
「そういえばそうだった。……小日向さんが舞台に立っているところを、俺は生で観たよ」
 
 急に耳まで真っ赤にした小日向さんが、「ひゃうっ」と小さな悲鳴をあげながら両手で顔を覆った。
 
「まあ、これでだいたいの事情はわかったよ。それでさ、小日向さん。きみは結局、演劇部に戻りたいの?」
 
 さっき飲み込んだ直球を投げかけると、小日向さんはたじろいだ。
 
「そ、それは――」
「演劇祭でひとり注目を集めて反感を買って、いじめみたいなことがあったってことは聞いたよ。正直さ、部長のほうだとか副部長のほうだとか、派閥なんてどうでもいいと思うんだ。重要なのは、小日向さん自身の気持ち」
「――――」
「これは誰のものでもない。小日向さん自身が決めることだと思う」
 
 静寂が訪れた。
 小日向さんは、テーブルに置かれたミルクティーの缶をじっと見つめている。
 ――そして、数十秒ほどの静寂を破ったのは、あろうことか俺のスマホだった。
 
「だ、誰だこんなタイミングで!? ……っと、奈々?」
 
 ディスプレイには奈々の名前。なんとなくだけど、思いもよらない展開を予感をさせる着信に思えた。


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