Alive03-8

「ごめん、出ていい?」
 
 惺と小日向さんがうなずいたので、立ち上がって離れた場所へ。
 
「――もしもし」
『お、お兄ちゃん……ひっ……ぇぐっ』
「な、奈々? 泣いてるのか?」
『ひっく……だってぇ……』
 
 奈々の嗚咽は止まらない。
 いつもなら、この時間帯は部活動に励んでいる最中のはず。けど、明らかにそういう気配ではなかった。
 
「いったいどうした? いまどこだ?」
『ぐずっ……D校舎の……お、屋上』
「D校舎の屋上ね。わかった」
 
 惺に目配せを送る。行っていいぞ、と言うように軽くうなずいた。
 
「すぐ行くから。そこで待ってろ」
『……うん……ごめんね……っ』
 
 屋上のどこにいるかを聞いてから通話を終える。
 
「奈々ちゃんがどうした? 泣いてるって」
「詳しくはわからない。だからいまから事情を聞きに行ってくる。あ……えーと、奈々っていうのはひとつ下の妹なんだけど――」
「うん。わたしのほうは大丈夫だよ。妹さんのところ、行ってあげて。……ありがとう、星峰くん」
「ごめんな。それじゃあ惺、あとは頼む」
 
 駆け足で休憩所を離れた。かなり消化不良なところで途切れてしまったけど、小日向さんについては、惺がついていれば問題ないだろう。小日向さんには、あとでまた謝ろう。
 問題は奈々。あいつが泣きながら電話をかけてくるなんてはじめてだ。よほど切羽詰まった状況らしいということだけ、電話の向こうの奈々の様子から察することができた。
 校舎へ続く道を、ほぼ全速力で駆け抜ける。エントランスホールへ続く正面玄関から向かうのは遠まわりだから、直接D校舎へ。
 ひたすら駆ける。
 歩いていたら十数分はかかるところを、半分ほどの時間までに短縮した。校舎の裏口から入り、廊下を一目散に進んで、階段を駆けのぼる。
 
「――はぁ――はぁ……ふう」
 
 屋上に出た頃にはもう、息が完全に切れていた。……運動不足だな。
 D校舎の屋上は、情緒あふれる日本庭園だ。枯山水や灯籠、松や竹などが、自然かつ絶妙なセンスで配置されている。中央に位置する和風の東屋では、茶道部の連中が活動していた。けど、いまの俺にそれらをゆっくりと見ている時間などない。
 奈々から教えられた場所に急ぐ。階段室をぐるっとまわった先。物陰になる場所に奈々がいた。庭園を整備するときに余ったのか、無造作に置かれた大きな石の上に座っている。
 
「……お兄ちゃん」
 
 俺に気づいた奈々がかすれた声で呼んできた。赤く腫らした瞳が痛々しい。
 
「よう。びっくりしたぞ」
「ひぅっ……ご、ごめんね……っ」
 
 奈々の隣に座る。
 
「とりあえず深呼吸でもして落ち着け。ハンカチは持ってるか?」
「……うん」
 
 涙をハンカチで拭いてから、何度か深呼吸をする。しばらくすると落ち着いたようだった。
 
「それで、いったいなにがどうした?」
「ぶ、部活で――」
「部活ってことは、バンドでまたもめ事?」
「うん。その――美緒ちゃんが」
「先週、俺たちが見学したときみたいな感じ?」
 
 あのときは大事には至らなかったけど、危険な兆候ではあった。
 しかし、奈々は首を横に振った。
 
「え、違うの?」
「あのときとは比べものにならないくらい……大げんかになちゃって」
「なんでまた」 
「今日ね、美緒ちゃんの様子がおかしかったの」
「どういうふうに?」
「朝からものすごく不機嫌で……授業中、先生にも態度悪いって注意されてた」
 
 機嫌と態度が悪い――綾瀬さんのその姿は、申しわけないけど容易に想像できる。
 
「機嫌が悪かった理由はわかる?」
「……ううん」
「それじゃあ、いままでに似たようなことは?」
「そういえば……何度かあったかも」
「理由は聞いてる?」
「たしか、お父さんとお母さんがけんかしたとか言ってた」
 
 先日の見学のときも、バンドのメンバーたちがそんなことを話していた。
 
「綾瀬さんのご両親は、仲が悪いの?」
 
 奈々が一瞬だけ哀しそうな感情を瞳に宿らせる。
 
「うん。そう聞いたよ」
「それだと、今回も同じ理由かな」
「でも、いままでは今日ほど機嫌悪かったことはないよ? いつもは、ちょっと虫の居所が悪いのかなってくらいで」
「まあ、そればっかりは本人に聞いてみないとわからないか。……で、ほかのメンバーはどうしてる?」
「わからないの。みんな散り散りになっちゃって――あ!」
 
 奈々が見つめた先に、綾瀬さんが立っていた。あたりを見まわしている。たしかに、ちょっと遠目から見ても、表情は硬くかなり不機嫌そうだった。
 綾瀬さんもこちらに気づき、数秒ほど止まったあと、ゆっくりと近づいてくる。
 彼女はまず奈々をちらっと見やったあと、俺を睨んできた。
 
「なんでお兄さんがいるの……?」
 
 その胡乱げな台詞は俺か奈々、どちらに対して向けられたものなのか判断できなかった。
 
「やあ綾瀬さん。こんにちは」
 
 とりあえずいつもどおりに挨拶すると、きつく睨み返された。その目力は、気の弱い光太あたりだったら、簡単に睨み殺せそうなほどの凄みと迫力を秘めている。
 
「美緒ちゃん……あのね」
 
 奈々が立ち上がり、綾瀬さんと向かい合う。
 
「なに……?」
「今日、どうしてあんなことになっちゃったの?」
「……言ったでしょ。みんな成長してないから」
「そうじゃなくて! 今日の美緒ちゃん、なんか変だった!」
「変? どこが? 以前からあれだけ言ってるのに、成長してないみんなが悪いんじゃない!」
「美緒ちゃん、昨日のこともう忘れたの? お兄ちゃんたちに相談して、アドバイスしてもらって、放課後みんなに謝ったよね。いままで態度がきつくてごめんって」
「――――」
「それなのに、今日の美緒ちゃんは怒ってばっかりだった! いままでの態度よりもずっとひどかったよ!」
 
 ここまで声を荒らげる奈々を、はじめて見た。しかも友達に対して。そして、綾瀬さんの口もとが悔しそうに歪む。両手の拳はぎゅっと握られていた。
 
「――あんたも――」
「美緒ちゃん?」
「奈々も、みんなと一緒……態度とか言い方とか、そんなどうでもいいことばっかり気にするんだ! もういい――あんなバンド、解散よっ!」
「――っ!?」
「なんか文句ある? あれじゃあ、もう修復は無理。奈々もそう思うでしょ」
 
 歪んだ笑顔。諦念に満ちた瞳の光。それはもう、狂気の一歩手前だった。
 
「美緒ちゃんの……馬鹿ぁっ!?」
「あ、おい、奈々!」
 
 涙を散らしながら、顔をくしゃくしゃにしながら、奈々は走り去った。俺の言葉なんか届いていない。
 その場に残された俺と綾瀬さんのあいだに、どうやっても隠せないほどの気まずい空気が流れる。こんな感覚は久しぶりだった。
 
「綾瀬さん」
 
 返事も反応もなかった。呆然と立ち尽くしている。ただ、彼女まで走り去るようなことはなさそうだ。
 これならまだ、なんとかなる。
 
「ここでちょっと待ってて。3分くらい」
「………………は?」
「いいから。逃げちゃだめだよ」
 
 きょとんとしているであろう綾瀬さんを残し、来た道を戻った。階段室へ入り、踊り場にある自販機で飲み物をふたつ買う。微糖の缶コーヒーとレモンティー。すぐに綾瀬さんのもとへきびすを返す。
 綾瀬さんはちゃんとそこにいた。相変わらずというか、時間が止まったように呆然と立ち尽くしている。
 綾瀬さんにレモンティーを渡す。
 
「……なんの真似?」
「落ち着いて話そうと思って。飲み物が必要かなと」
「怒らないの?」
「俺が? なんで?」
「だって! 奈々のこと……泣かせた……っ!」
「泣かせたって自覚はあるんだね。俺まで感情的になったら、それこそ収拾がつかないだろ」
「――っ」
「とりあえず落ち着いて。ちゃんと話を聞くから。ほら、座って」
「……奈々のこと、追いかけなくていいの?」
「あいつ、たしかにへこみやすいけど、立ち直るのも早いんだ」
 
 今回の場合、奈々の精神の許容量を超えているような気がする。けど、正直いま心配なのは綾瀬さんのほうだ。
 俺が石に腰かけると、綾瀬さんも渋々座った。
 
「奈々からだいたいの話は聞いたよ。だから綾瀬さん、なにがあったのか話してくれないかな」
「なんでお兄さんに……関係ないのに」
「ここまでくると、もう完全に無関係ではないな。もし奈々に対して負い目とか罪悪感があるなら、話してくれ」
 
 綾瀬さんに口を挟む余地を与えず続けた。
 
「卑怯だと思うなら、行ってもいいよ。あ、そのレモンティーの代金はいいからさ」
「たしかに……卑怯」
「自分でもわかってる」
「……なにを話せばいいの?」
「綾瀬さんの好きなように」
 
 戸惑いの表情を浮かべる綾瀬さん。ペットボトルのふたを開け、レモンティーに口をつける。ちょっとは落ち着いたようだ。
 それからしばらく、綾瀬さんは黙った。
 そして、たっぷり2分くらい経った頃にようやく口を開いた。
 
「奈々の……お兄さんの両親は仲がいい?」
「うん、そうだね……仕事でも常に一緒だし、仲よしだと思うよ。あ、うちの家のことは知ってる? イタリア料理の店やってるの」
「奈々から聞いてる」
「俺もさっき奈々から聞いた。綾瀬のご両親はその……不仲なのかな」
「最悪」
「さ、最悪?」
「なんであれで結婚したの? って疑問に思うくらい。夫婦なのに、お互いのこと目の敵にしてる」
「……ふたりはどういう人なの?」
「お母さんは疑い深くてヒステリー。お父さんは……いつもは冷静だけど、怒り出したらなにをするかわからない人……ああ、そう考えると、わたしもあのふたりの血を引いてるんだってよくわかる……あはは」
 
 下手なことは言えなかった。
 
「昨日の放課後まではよかった。お兄さんたちに話聞いてもらって……その、たしかにわたしにも悪い部分があると思ったから……みんなに謝った――でも」
 
 綾瀬さんが唇を噛みしめる。
 
「家に帰ってから……夜、部屋でギターの練習してたら、ふたりがけんかしてるのが聞こえてきた。ものすごい大声で」
 
 俺は黙って耳を傾ける。
 
「――離婚するって」
「り、離婚?」
「お父さんが浮気したって、お母さんが泣きながらわめいてた」
「それ、本当?」
「知らない。だいたい、いつも些細なことで大げんかになるから、正直本当でも嘘でもどっちでもいい」
「…………」
「お母さん、そのまま家を出て行っちゃった。出て行く間際に言ったの。『もう我慢できない。あなたとは離婚よ!』って」
 
 俺はなにも返せなかった。
  
「お母さんが出て行ったあと、お父さんどうしたと思う? 淡々とした声でわたしに聞いてきたの。『わたしたちが離婚したら、おまえはどっちについてくる?』って」
 
 それは――
 
「信じられる? まだちゃんと話し合ってもないのに、もう離婚すること前提なの。……はは、今日きっと、仕事の帰りに市役所でも寄ってくるんじゃないの? 離婚届け取りにさ。それで、帰ってきたら涼しい顔してそれに記入するの。まるで事務仕事でもこなすみたいに」
 
 本当に、なにも返すことができなかった。
 
「なんで黙ってるの? お兄さんがなんでも話してくれって言ったんだよ」
「……ごめん」
「なに。想像以上に重い話だったから、引いちゃった?」
「軽々しく聞くようなことじゃなかった。ごめん」
「……それだけ?」
「え……」
「慰めたりしないの?」
「そんなこと、できるわけないだろ。俺にできるのは、ただ話を聞くだけ」
 
 綾瀬さんの家の問題は、当事者以外は誰だろうと、ただの傍観者に過ぎない。それ以上は、神さまでもない限り首を突っ込むのは野暮だ。
 
「ふーん。残念」
「なにが?」
「もしも手垢のついたような下手な言葉で慰めてきたら、このレモンティーを頭からぶっかけてやろうと思ってたのに」
「……恐れ入るよ」
「ねえ、わたしどうすればよかったの? 部活中は両親のことなんか忘れて、奈々みたいにまわりに気を配って、音楽に集中すればよかったの? そうすれば奈々や、みんなに愛想尽かされたりしなかった?」
「ちょっと待って」
「なによ」
「綾瀬さんは、みんなに愛想尽かされてると思ってる?」
「違うの……?」
「奈々以外の子はわからない。でも、奈々は――」
「お兄さんだってさっき見たでしょ! あんなに怒っている奈々はじめて見た!」
 
 それは俺も同じだと言おうとして、言葉を飲んだ。
 綾瀬さんの頬を、涙が伝ったから。
 
「もう終わり……奈々にもあんなこと言われて……見捨てられて……自分のこと、殺したい!」
「綾瀬さん、それは言っちゃいけない」
 
 こんな台詞を俺が言っていいものか、激しく疑問だった。けど、いまはそんなこと気にしている場合じゃない。
 
「じゃあ、なんとかしてよ!」
 
 幼い子どものように泣き散らす綾瀬さんの姿が、いつもより小さく見えた。
 
「わかった」
「…………ぇ?」
「どうにかしてみる」
 
 悠や惺、それにセイラや真奈海の顔が浮かぶ。こういうとき、頼りになる友達がいるというのはありがたいことかもしれない。
 綾瀬さんには、そういう人が奈々以外にはいないんだ。だから奈々にあそこまで言われてしまって、ここまで参ってしまっている。

「正直、ご両親のことはどうにもならないと思う。それはふたりの問題だから。でも、せめてバンドのことだけは……最低限、奈々とだけは、また笑い合えるようになってほしいんだ」
「そんなこと……できるの?」
「もちろん、綾瀬さんや俺ひとりだけではできないよ。でも、俺の周囲にはその、綾瀬さんがこの前言ったみたいに、おせっかいなやつらが多いからさ」
「…………」
「――たとえ世界が終わっても、わたしたちの歌は永遠に残りますように――それが『The World End』の由来だったっけ」
「奈々から聞いたの?」
「うん。ガールズバンドにしては勇ましい名前だなとか思ったけど、その理由を聞いて納得したよ。素敵だと思う」
「それが……なに?」
「ひとつだけ聞かせて。綾瀬さんはみんなに愛想尽かされたって言ったよね。なら、綾瀬さんもみんなに対してそう思ってる? 愛想尽かされたみんなに愛想尽かした? 自分のことが嫌いになったみんなのことを嫌いになった?」
「……っ……それは」
「違うよね。もしそうなら、綾瀬さんがそこまで泣くわけないから……はい」
 
 ポケットからハンカチを取り出し、綾瀬さんに渡した。
 
「…………あ……ありが……と……ぅ」
「みんなと仲直りしたい?」
「――っ!」
「重要なことだから、答えて」
「そんなの……そんなの当たり前でしょ!」
 
 心の奥底から出てきたような叫び。彼女の澄んだ声が、それが本心であると物語っていた。
 
「世界が終わる前に――わたしたちが終わっちゃうなんて――やだ――絶対に嫌っ!」
 
 綾瀬さんの頬を、再び熱い涙が流れた。


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