Brave02-2

「――で、人の顔を見るなり急に笑い出すとはどういう了見だ。理由によってはさすがのわたしでも怒るぞ」
「ご、ごめんなさい……だって」
 
 オフィスチェアに座り、詩桜里はさっきからずっと口もとを手で隠している。
 
「室長、笑わないって言ったじゃないですか」
「無理! セイラの顔見たら、もう我慢できなくて……ぷっ」
「おい、いい加減に理由を話せ」
「あなたの報告書がいけないのよ」
「報告書?」
「それに書いてあったじゃない。転校初日のホームルームで、男子生徒にキスしたって」
「ああ、その件か。まったく、どこでも話題になるな。で、それのどこがおかしいんだ?懇切丁寧に、真実を記しただけだぞ」
「全部まるごとおかしいわよ! だって、よりにもよってあなたがキスなんて、いったい誰が想像すると思う? しかもたしか、『その男子生徒を押し倒して、わたしの熱烈な感情を体を通じて伝えようとしたが、逃げられて未遂に終わった』とか! もう信じられない!」
「ふむ……たしかにわたしとしては生まれてはじめて、理性よりも感情で体が動いた結果と言えるかもしれないな」
「でしょう? 普段のあなたの言動や態度からはどう考えても想像できないでしょう? いったい、どうしてそんな年頃の乙女のような行動になったのかしら……いえ、ある意味、年頃の乙女より過激だけど」
「それは、わたしがちょっと過激な年頃の乙女だからでは?」
 
 今度は詩桜里だけでなく、リスティまでも吹き出した。
 
「リスティ、おまえもか」
「ご、ごめんなさい!」
「謝らないでもいいわよ、リスティ。いまのは誰でも笑うわ。セイラ、あなたが言う冗談にしては上出来よ」
「さすがに不愉快だ。そろそろ帰っていいか?」
「そう怖い顔しないで。まだ本題を話してないわ」
「なら、さっさと話せ」
「上司に向かってその口の利き方……は、いまさら言っても仕方ないわね」
 
 詩桜里が紅茶に口をつける。
 
「ああ、やっぱりいいわねリーゼラムは。この上品かつ濃厚な香り――は、ひとまず置いてくとして。さて、質問よセイラ。堀江美代子という名前に聞き覚えは?」
「このあいだ潜入した、某製薬会社の研究員の名前だな」
 
〈神の遺伝子〉が保管されていた宝物庫。そこにひとりだけいた女性研究員。
 
「すごい……ほんとに即答した」
「だから言ったでしょ。セイラの記憶力は並じゃないって」
「その研究員がどうかしたか?」
「リスティ、例の写真を」
「……はい」
 
 リスティから封筒を手渡された。
 
「リスティ、顔色が悪いぞ」
「それは……その中の写真を見ればわかります」
 
 封筒から写真を取り出す。かなりの量が束になっていた。
 
「――ほう」
 
 写真には、凄絶な光景が映し出されていた。
 大量の血が、写真のほぼ全域を赤黒く染めている。テーブルやソファ、テレビが写っていることから、どこかの室内だと推測できる。家具はもちろん、壁や天井、窓際のカーテンに至るまで、おびただしい血液で彩られていた。
 血だけではない。
 敷かれた絨毯の上や壁には、赤黒い肉片らしき物体が散逸されている。ソファの上に無造作に転がっているのは人の手首だろう。なんの部位なのかわかるのはそれくらいで、ほかの肉片は原形をとどめていない。
 目の前に置かれたリーゼラムの香りをかき消すほどに、生々しい血のにおいが脳裏によみがえった。
 ほかの写真は別の角度から同じ部屋を撮影したものだ。間取りから推測するに、アパート、あるいはマンションの一室。
 そして、すべての写真に写っている大量の黒い斑点のようなものは、ハエなどの羽虫だろう。ベランダに続く窓は開いている。
 
「なるほどな」
 
 リスティの顔色が悪いのも納得できた。
  
「そんな写真見せられて、よく眉のひとつも動かさずにいられるわね。さすがにわたしでも直視できないわよ」
「幸か不幸か、この手の光景は見慣れているからな」
「わたし、しばらく肉料理は食べられないです……」
 
 リスティが口を手で覆う。
 
「同感ね」
「先ほどの会話から察するに、この写真に写っている遺体――と表現していいのか微妙なところだが、それが堀江美代子のものなのだな?」
「そういうこと――リスティ、事件の概要と、例の資料をセイラに」
 
 リスティからファイルを手渡される。
 
「これは堀江美代子さんに関する資料です。事件については口頭で説明します」
「わかった。資料を読みながら聞こう」
「はい――まず、現場は東京都八王子市にある、被害者堀江美代子さんの自宅マンションです。事件が発覚したのは、おとといの午後1時20分頃。第一発見者は被害者の上司と、マンション管理人の男性2名です。被害者が定時になっても出勤せず、連絡も取れなかったため、不審に思った上司が管理人の立ち会いのもと、彼女の部屋を訪れたところで事件が発覚しました」
 
 第一発見者のふたりは気の毒だったと思う。部屋の内部がこんなことになっているなんて、夢にも思わなかっただろう。
 
「被害者は堀江美代子で間違いないんだな?」
「はい。DNA検査の結果、100パーセント本人であると断定されています――死亡推定時刻は、遺体がそのような状態なので正確には不明。ですが、事件発覚の前日――3日前の夜11時半頃に、被害者本人が勤務先から帰宅したのを、マンションの玄関ホールに設置された防犯カメラがとらえています。さらに、午後11時56分、被害者が友人に向けてLINEを送信した記録が残っていました。そのことから、被害者は友人にLINEを送信してから発見されるまでの約13時間のあいだに死亡したと考えられています」
「死亡推定時刻の幅が広いのは仕方ないか」 
「そして、この事件のもっとも不可解な点が、被害者の死因なんです」
「セイラ、人体がその写真のように、原形をとどめないほどになる要因はなにがあるかしら」
 
 紅茶をひと口飲んでから、わたしは答えた。
 
「もっとも説得力があるのは、やはり爆弾だろうな」
「そうね。でも、この事件で爆弾は使われていないことはすでに確定している」
「そうだろうな。写真に写っている家具や内装はほぼ無傷……いや、天井のライトは割れているか」
 
 天井を映した写真。リビングにある照明が、叩き割られたように破壊されている。
 照明だけがこの部屋の内装で唯一破損しているものだ。ただし、それでも爆弾が使われたことはないと断言できる。爆発が起こったのなら、部屋の内部はもっと破壊されているはず。しかし、そんな痕跡は見当たらない。あくまでも人体のみが徹底的に破壊されている。
 
「部屋のどこからも爆薬の反応は出ていません。それにマンションに住むほかの住民も、爆発音などなかったと証言しています」
「たしかに不可解な事件だな」
「死因も死亡推定時刻も不明。なので警察も殺人、自殺、事故……それも正確には判断できない状況のようです。とは言っても、状況から殺人の線が濃厚だと考えているようですが」
「詩桜里に質問だが、この案件がうちにまわってきた理由はなんだ?」
「被害者の名前に、うちの本部にあるオペレーションシステムが反応したのよ。警察のデータベースには随時接続しているから」
「わたしが潜入した研究所の研究員が謎の死を遂げた……か」
「そういうこと。ついでにあなたは、生前の被害者と面識があるという重要なポジションにいる」
「それだけではないだろ?」
「まあね。どんなに不可解だろうと、こういう事件の管轄は警察。うちがわざわざ出るような事件ではない。――のだけれど、どうもそうは言っていられない状況のようね。うちの上層部もなにかに危機感を抱いていたような感じだったわ」
「なにかに危機感、とは?」
 
 詩桜里は首を横に振った。
 
「そこまでは知らされなかった」
「上級捜査官の詩桜里にまで知らされない情報か。きな臭いな」
「まあ、ろくでもないものなのはたしかでしょうね……そうだわ、もうひとつ、これらと関連すると思われる情報があるの」
「なんだ?」
「あなたが奪取に成功した〈神の遺伝子〉についてよ。あれは当たり。本物だったそうよ」
「そうか。いままでダミーの情報で踊らされていたからな。それはなによりだ」
 
 堀江美代子の勤務先である例の製薬会社より以前に、〈神の遺伝子〉奪取を目的とした3件の潜入を、この日本国内で遂行した。しかしそこで入手したものは、あたかも本物のように巧妙に偽装されたダミーだった。
 
「ただね……」
 
 詩桜里の表情が曇る。
 
「幸先の悪い表情だな」
「〈神の遺伝子〉は間違いなく本物だった。けど、細胞核が抜かれていて、すでに不活性化されていたとのこと。要するに残っていたのは、使い道のないごく小さな細胞ってことね。――それであなたには、この事件の真相を追ってもらうことになった。上層部からの命令よ」
「了解した」
「あの、これは補足なんですけど、この件はしばらく警察と合同捜査になると思われます」
「そうなのか? てっきりICISに丸投げされたのかと思っていたが」
「はい。真相に近づいていけば、我々ICISに一任されると思いますが、それまでは警察と協力しろと」
「協力……ね」
 
 この業界で「協力」という言葉が使われるのは、必ず裏がある場合だ。
 
「ま、はっきり言ってしまえば、最初は警察の人員と機動力を利用させてもらって、それ以降、真相に迫るのはうちだけ、ってことね。その頃警察はもう蚊帳の外」
 
 シニカルな笑みをたたえながら、詩桜里がしれっと言う。
 
「とりあえず最初は合同捜査というのは、警察のメンツに配慮してのことか」
「そう。最初からうちが全部のお株を奪ったら、警察のお偉方もいい顔はしないでしょ。それは今後の協力体制に支障をきたす恐れがあるからね」
「大人の世界はこれだから厄介だな」
「あら、あなたも厄介な世界の歯車のひとつに、もう組み込まれているわよ」
「わかっているさ。……学園との兼ね合いと優先順位は?」
「この事件のほうを優先して。ただし、あなたの立場上、学園のほうも放っておくわけにはいかないから登校はしてね。けど、この事件の捜査で必要な場合は休んでも構わないわ。そのときはあらかじめわたしかリスティに言って」
 
 しばらく忙しくなりそうだ。
 
「学園の散策は、しばらくおあずけかもな」
「散策? ……ああ、あなたが放課後にクラスメイトを拉致して、学園を案内させているっていうあれのことね」
「人聞きの悪いことを言うな。ちゃんと合意の上だ」
「ふふ……けど、あの子が散策に参加しているなんてね」
「誰か知っているのか?」
 
 惺と凜はいまのところ皆勤賞。悠と真奈海は1回ずつ参加している。
 
「真城惺くんとは面識があるのよ。彼が日本へ帰国したとき、代理の身元引受人だったのは、わたしだったから」
 
 当時の惺は、法的に難しい立場にいたはずだ。だから国際組織であるICISが、惺の身柄を保護していたのは聞いていた。もっとも、ピンポイントで詩桜里と面識があるとは思っていなかったが。

「そんな大事なことをなぜいままで黙っていた? わたしとあいつの関係は知ってるだろうに」 
「まあ、こちらにもいろいろと事情がね……惺くん、元気にしてた?」
「まあな。だがあいつは、なぜわたしのこの熱い気持ちを受け入れてくれないんだ」
「そりゃあねえ……あなたが急に現れて、彼もびっくりしているんでしょう。でも、いきなりキスはないわ」
「ふむ。押し倒したのも一方的だったな。今後は気をつけよう……そうだ詩桜里。柊紗夜華とはおまえの妹だな?」
 
 一瞬考えるような間隙を置いてから、詩桜里は笑みを作った。
 
「ええ。そうよ」
「これもそうだ。なぜ黙っていた?」
「あなたのことだから、いずれ気づくと思って、あえて言わなかったのよ。……けど、さすがにもう直接接触しているとは思わなかったわね。学年は一緒でもクラスは違うから、学園の生徒数も考慮すると、接点はほとんどないと考えていたけど」
 
 紗夜華と図書館の談話室でお茶会を開いたことは、当然報告書に記してある。わたしが詩桜里に提出する報告書は、その日に誰と会ってどのような会話をしたかを、ある程度詳しく記さないといけない決まりだ。
 
「紗夜華、元気にしてた?」
 
 いまさっき、惺のことを問いかけてきたそれと同じトーンだった。
 
「ああ。しかしおまえたちは姉妹だろ。連絡をとり合ったりしないのか?」
「あまりね。そういえば最後に会ったのいつだったかしら……ああ、たしか今年のお正月ね」
「仲が悪いのか?」
「そんなことないわよ。けど特別仲よしってわけでもないわね。歳もけっこう離れているし、性格も好みもだいぶ違うし……あ、紅茶が好きなのは一緒だけど」
「この島はおまえの故郷だろう? 会おうと思えば会えるだろうに」
「まあそうなんだけど、わたしは仕事が忙しいし、あの子もわたしにそんな興味がないみたいだしね。わざわざ会う必要もないのかなって」
「…………。まあ、好きにすればいいさ。家族の問題だからな」
「そうするわ。……でも、あの子が誰かをお茶会に誘うなんてね。ちょっとびっくり」
 
 それに対しては、なにも言わなかった。
 
「あのぉ」
 
 いままで黙って聞いていたリスティが、口を開いた。
 
「いま、創樹院学園の学園長代理をされているのが、室長のお母さまでしたよね?」
「そうよ。だからセイラの編入の際にはいろいろと便宜を図ってもらったわ」
「それで、室長の妹さんも同学園に現在在学中……なんか、世間は狭いってほんとですね」
「そうね。世界は広いけど、世間は狭い。わたしも大人になってはじめて気づいたことね」

 詩桜里にしては味なことを言う。詩桜里と惺に接点があったことも、その言葉を証明している。

「あ、ちなみに、わたしも創樹院学園のOGだから」
 
 初耳だった。
 
「びっくりさせようと思って黙っていたの。で、どう? びっくりした? わたしも数年前までは、あなたと同じ制服を着て、毎日のように通っていたのよ」
「む、ちょっと待て。数年前は言い過ぎではないか? 卒業してからの年数を考慮すると、もうすぐ10ね――」
「まだぎりぎり10年経ってないからっ!? だから数年前と言ってもセーフなの!」
 
 デスクの上に身を乗り出してきた。
 
「女性は25歳を過ぎると年齢を気にするというのは本当だったんだな。詩桜里、25歳を過ぎたのは何年前だ?」
「うるさい! ああもう、なんでこんな話になったのかしら! それでセイラ、資料には目を通したの!」
「ああ。滞りなく。一言一句たがわずに記憶したぞ。暗唱しようか?」
「いらない! さっさと行動してちょうだい!」
「そう怒るな。しわがさらに増えるぞ」
「最初からしわがあるような言い方しないでもらえるかしらっ!?」
 
 ふんっ、などと毒づきながら、詩桜里はチェアごと後ろに向いた。
 
「セイラ捜査官、あの、火に油を注ぐようなことは控えたほうがよろしいかと」
「先ほど笑われた仕返しだ。とても楽しい」
「は、はあ……」
「ところでリスティ、この資料を作成したのはきみか?」
「はい、そうです。どこか不備がありましたか?」
「いや。問題ない。むしろよくできている。上出来だ」
「あ、ありがとうございますっ!」
 
 堀江美代子についての資料は、賞賛に値する出来栄えだ。家族構成に始まり、生まれてからの来歴。現在の交友関係はもちろん、学生時代の友人や教師から見た、彼女の性格等も事細かに記されている。それら膨大な情報を短期間のうちに調べ、的確にまとめ上げたリスティの才能は非凡と言って差し支えない。二等事務官の肩書きも伊達ではないようだ。

「ところで、堀江美代子は独身なのか?」
 
 資料には、配偶者は無しと記載されていた。
 
「そのようです」
「現在、交際している男性もいないのだな」
「はい。それも確認できていません」
「そういえば彼女、妊娠していたようね」
 
 いつの間にかこちらを向いていた詩桜里が言った。
 
「機嫌は直ったのか?」
「蒸し返さないでよっ!? ――えっと、つまりセイラが言いたいのは、結婚もしてない、さらに交際している男性もいないのに、妊娠してたことが気になると」
「ああ」
「たしかにそれはわたしも気になったわね。あなたの記録映像を見る限り、彼女は間違いなく妊娠していた」
 
 記録映像とは、わたしが任務の際に装着することが義務づけられている、胸もとのカメラに収められた映像のこと。あのとき宝物庫内部では、一時的にリアルタイムでの映像送信はなかったが、録画だけはされていた。詩桜里はその映像をチェックする立場にいるから、生前の堀江美代子の姿を見たわけだ。
 
「酔っ払った勢いで行きずりの男と寝て妊娠した、などという線も、彼女の性格からは考えにくいか」
「さらりとすごいこと言うわね、あなた……」
 
 人間である以上、女性ひとりで妊娠することなんてありえない。しかし、リスティが調べた情報には、父親になりうる男性の存在がすっぽりと抜け落ちている。リスティが調べ損ねたとも考えにくいから、不可解さが深くなった。
 
「どうも奇妙なんです。資料にも記載しましたが、妊娠しているにもかかわらず、産婦人科を受診した記録がどこにもないんです。同僚もその点については詳しく知らないようで」
「ふむ。そのあたりもなにか関係ありそうだな。――よし」
「セイラ?」
「いまから現場に行ってくる。問題ないな?」
「ええ、それは構わないけど……現場は警察が徹底的に調べただろうから、新しい発見はないと思うけど」
「現場100回という言葉が、日本の警察にあったと記憶しているが」
「それ、ずいぶん昔の話よ。よく知っているわね? まあとにかく、現場はまだ警察が押さえているだろうから、リスティ、うちの捜査官が行く旨を伝えてもらえるかしら」
「はい。了解しました」
 
 例の写真をもう一度見つめる。最初に見たときから、妙な違和感をこの写真に覚えている。
 
「足りない、な」
「え、なにがですか?」
「いや、なんでもない。そのうちわかるだろう。警察からの資料はこの写真だけか?」
「はい。まだ事件が発生して間もないので、その写真を手に入れるだけで精いっぱいでした」
 
 紅茶を飲み干し、ソファから立ち上がる。
 
「そうそう、現場からは直帰して構わないからね。ただしあとで報告だけはして」
 
 わたしは紅茶の香りが漂うオフィスから、血の臭気の立ちこめるであろう現場のマンションへ向けて出発した。


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