夕食を済ませ、ソファでのんびりの紅茶を飲んでいたとき、どたどたと騒がしい足音が廊下から聞こえてきた。やがてドアを勢いよく開け、詩桜里が顔を出す。もともと切れ長の瞳が、さらにつり上がっている。
「早かったな。彼氏の浮気を知ったときのような顔してどうした?」
「セイラ! あんた今日はどういうつもりよ!」
詩桜里がまくし立てる。つばが飛ぶことなどお構いなしに。ハンドバッグを向かいにあるソファに放り投げた。
「どういうつもりもなにも、友人の家に行くと昼頃にメールしただろう。住所もちゃんと記載していた」
詩桜里のもとを離れて出かける場合、わたしは居場所を逐一知らせる必要があった。紗夜華の家で勉強会をやることになった直後にはもう詩桜里に知らせていたから、わたしが責められるいわれはない。
「ひ、昼頃はちょうど忙しくて……詳しく確認してなかったの!」
だめな言いわけのテンプレだった。
たしかに、詩桜里からは「了解」とひと言返事があっただけで、なにも言及はなかった。実家の住所を知らないはずはないのに、もっと反応があるかと思っていたが。そもそも、家でわたしと直接会うまで、わたしが実家に行くことを知らなかったようだ。
「そんなことはわたしの知ったことではない。なあ、そんないい加減なことでいいのか?もしもわたしがよからぬことを考え、おまえに嘘の居場所を教えていたらどうするつもりだ」
わたしもただではすまないが、詩桜里だって始末書どころの騒ぎでは収まらないはずだ。
「はあ? いまさらあなたを疑うものですか!」
「…………」
少し照れてしまったのは、詩桜里には内緒だ。
「とにかく心臓に悪かった! ほんとにね、あなたがいたときには、どうしようかと思ったわよ」
「わたしからもひとつ言わせてくれ」
「なによ」
「おまえは未成年の妹に、なんて破廉恥な話をしてるんだ?」
「――――っ!?」
「さすがのわたしも引いたぞ」
酔っ払って紗夜華に話したという内容は、それはひどいものだった。とても公共の電波に乗せられるような内容ではなく、わたしですら聞いたことのなかった男との赤裸々な性生活の数々。あれは未成年に聞かせていいものではない。さすがの真奈海も、最後は顔を真っ赤に染めて顔を伏せていた。
紗夜華も不思議なもので、ふつうなら憚れるような単語でも平気に口にし、「これはどういうことなの?」と次々と質問をぶつけていた。紗夜華の好奇心の強さ、未知なるものへの探究心は、本当にたいしたものだと思う。
ただ、もしも凜があの場にいたら――と、ふと考える。
「だって、だってだってだってっ! 記憶にないんだから仕方ないじゃない!」
「酔っ払って記憶がなければなんでも許されると思うな。それなら警察はいらない。ICISの上級捜査官がなにを言っている」
「うぐっ!?」
「母上に報告したほうがいいか? 姉が妹に無用な性教育をしている、と」
「それだけは絶対やめてっ!? 母さん、怒ったら怖いなんてレベルじゃないのよ! わたし殺されちゃう!?」
「なら反省して、今後、深酒は控えることだな」
「はい……………………あれ? なんでわたしが説教されてるの?」
ああもう、と投げやりな態度で、詩桜里はスーツ姿のままソファに身を投げ出した。スーツにしわが寄るぞと思ったが、眉間にもしわが寄ってるし一緒かと、なにも言わないことにする。
詩桜里に紅茶を淹れてやる。癖が少なく、すっきりとした味わいのニルギリをベースにしたブレンドティーだ。無個性な味とも表現できるが、無性に飲みたくなるときがある。
「詩桜里、話がある」
詩桜里がひと口味わったところで切り出す。
「んー? なによぉ」
「真面目な話だ」
詩桜里は姿勢を正した。さすがに声のトーンで、冗談がないことを察したようだ。
「なによ、あらたまって」
「わたしが創樹院学園に編入した目的」
「またそれ? 前にわからないって言ったでしょ」
「順を追って整理しよう。たとえばいま、紗夜華がここに遊びにきたらどうする?」
「……え?」
「ありえないことはないだろう。妹がひとり暮らしいている姉の家に遊びに来ただけだ」
正確にはひとり暮らしではないが。
「そうだけど」
「紗夜華が遊びに来て、わたしと鉢合わせしたらどう説明する? なぜ自分の同級生が姉と一緒に暮らしているのか。真実を隠して納得できるよう説明するのは、至難の業だと誰でも考える」
「……そうね。続けて」
「いま思えば不思議な任務だ。学園に編入する明確な理由が、いまだに明かされていない。しかも、わたしの観察役であるおまえの家族がいる学園にだぞ。今日の出来事も踏まえても、いろいろとリスクが大きすぎないか? 上層部がこんな簡単な事実を見落とすわけがない」
詩桜里は黙って思案している。
「いままで気づかなかったが、今日の出来事で確信した。いままでの任務にはなかった特異点が、この任務には存在している」
「特異点?」
「ひと言で表すなら『遊び』だよ。いままでの任務にはきちんとした目的があって、決まりごとや条件も複雑で細かかった」
「それがないってこと?」
「そうだ。ただ編入して、学生としての日々を送っているだけ。むしろ、『遊び』の要素しかないな。わたしがここにいるだけでも、決して安くはないはずの金が動いているにもかかわらず、だ」
やはり詩桜里は黙って聞いている。
「さらに言うならわたしの過去。わたしはかつて暗殺者として活動し、何人もの人間をこの手で殺めてきた。いま思い出すと発狂しそうだよ。わたしは……殺した人間の数だけ死刑になってもおかしくない大罪を背負っている」
「――――」
「そんなわたしが、どうして平和な学園生活を送っていられるんだ。なぜそんなことが許されている? この先になにが待ち構えている?」
「……そろそろ話してもいいのかしらね……」
遠い目をして天井を見つめながら、詩桜里が言った。いままでほとんど見たこともないほど、真剣な口調で。
「なんだと?」
「いつか話したわよね。『あなたの次の任務は、星蹟島にある私立学校、創樹院学園へ編入し、ひとりの学生として楽しい日常生活を送ること』って」
「それがなんだ?」
「いままで黙っていたけど、これには続きがあってね。『セイラ・ファム・アルテイシアの、日常生活への感化。及びそれに付随する思想の矯正。そして真城惺との再会。以上ふたつを主目的とする』」
「おい――」
「待って。言いたいことはわかるから。なんでいままで黙っていたのかでしょ? 上から口止めされいたのよ、きつくね」
「いまになって暴露したのはなぜだ?」
「真相を話す条件がいくつかあってね。日々の生活態度とか、ほかにもいろいろ。まあとにかく条件がクリアされて、ようやく話せることになったわけ。隠していてごめんなさいね」
「それはわかったが、惺との再会とはなんだ? ICISがわざわざあいつを名指ししたのか?」
「そのとおりよ」
「腑に落ちない。たしかにあいつは特殊な生まれと経験をしているが、惺はまだ未成年の一般人だろう? それがどうして――」
「ごめんなさい。惺くんに関してはなにも知らされてないの。でも本当のことよ? 信じられないと思うけど……ほら、なんとなくだけど、惺くんって、わたしの想像も及ばないような使命とか宿命を背負っているんじゃないかしら」
「……詩桜里がそんな運命論を言い出すとはな。もっと即物的かと思っていたが」
「惺くんは父親と一緒で一種の天才でしょう。彼と接した時間は微々たるものだけどね、そういうことを思わせる未知の存在感や才能があったのは間違いない」
それには同意する。惺がこの先、何事もなく一般人のように平穏に暮らしていけるとは思っていない。学園では隠しているようだが、そもそも惺には常人が想像できない領域での「才能」がある。あの才能を「世界」が放っておくはずもなかった。
わたしと惺が再会することで、なにが起こるのだろう? もしくは、もう目に見えないところでなにか起こっているのだろうか。
――いや、もしかしたら。
これから先、なにかが起こるのかもしれない。