真城邸のリビングルームは本当に広い。だから10人以上が集まっても、まるで狭さを感じさせない。
わたしはキッチンに立ち、ジャガイモを洗っている。エプロンを着用するのは、詩桜里に栄養ドリンクを作ったとき以来だ。
隣でタマネギを切っているのは真奈海だった。いつも愛用しているという黄色いエプロン姿はさまになっている。休日はいつも家族のために料理を作っているそうで、包丁使いは慣れていた。
それにしても、と言いながら、真奈海はキッチンを見渡す。
「ほんっとにキッチン広いなぁ……ここだけでうちの居間の倍近くあるんですけど。どうなってるの?」
やっぱり本気で家の交換を提案しようかしら、などとつぶやいている真奈海。
キッチンの設備はほぼプロ仕様な完璧なものだった。トラットリアHOSHIMINEのキッチンと比べても遜色ないほどだと、かつて凜が言っていた。
今日の夕食は、この家でごちそうになることが最初から決まっていた。今日はメンバー全員が集まる最初の機会。それを記念した晩餐会だ。料理長は惺。わたしと真奈海はその手伝い。
ブルーのクールなエプロンを身につけた惺は、キッチン真ん中のテーブルで魚をさばいていた。おどろくほど見事な手さばきに、真奈海がひゅう、と唇を鳴らした。
「真城っち。わりとマジでうちにお婿に来ない?」
家の交換だけでは物足りなくなったらしい。
「誰と結婚すればいい? 結衣ちゃん? 翠ちゃん? それとも豊崎か?」
笑みを浮かべつつちらりと見やりながら、爽やかに答える惺。この男はいちいちかっこいい。
真奈海が本気で照れる。話を振ったのに照れるなよと、惺は澄ましたように笑う。
「待て惺。わたしの許可を得ずにお婿にいくのは許さない。というより、まずわたしを嫁にもらってくれ」
惺は返事をする代わりに口笛を吹いた。きれいなメロディーだった。
「ねえ、真城っち。さりげにプロポーズされてるよ。いいの、返事しないで?」
「気にしないでいい。いつもの妄想だ」
後ろ足で蹴り上げようとしたが、惺は軽やかにかわした。
そんなことをしながら、調理を進めていった。
「……楽しいなぁ」
「真奈海?」
「あ、ごめん。口に出ちゃった」
にへへ、とはにかむ真奈海。
「楽しいというのは、この状況が?」
「うん。大勢でさ、特に意味のない会話で盛りあがったり、はしゃいだりするのって楽しいよね!」
カウンター越しに、リビングのほうへ目を向ける。
ピアノのなめらかな音色が流れてきた。リビングの一角にグランドピアノが置いてあり、「The World End」のキーボード担当、木崎英里子の指が鍵盤の上で踊っている。学園以外でグランドピアノに触れる機会がないらしく、かなり興奮しているようだ。そしてかつてバンドの演奏を聴いたときよりも、明らかに演奏技術が向上している。英里子の隣には悠が立っていて、演奏面でのアドバイスをしていた。
リビングのほぼ中央、豪華な革張りのソファでは、紗夜華と美緒、奈々が雑談に花を咲かせている。
キッチン前の大テーブルには凜、椿姫、光太がいて、なにやら話している。光太が緊張しながら椿姫に話しかけていて、その様子を凜がにやにやしながら眺めていた。椿姫は笑っている。暗い話ではなさそうだ。
リビングの隅には巨大なオーディオシステムが組んであり(アンプからスピーカーから、どれもこれも古い機種だが、あとで調べたら総額1000万円を超えていた!)、それを見ながら、オーディオマニアの父を持つ愛衣と、音響機器に目のないという雫が「嘘っ……このアンプ、マークレビンソン!?」「このスピーカー、うちにあるパパの車よりも高いんじゃ……」などと騒いでいる。
どこを切りとっても、素敵な時間が流れていた。
……ああ、たしかに。
真奈海の言うとおり、楽しい。
いや、それ以上の言葉で表現できない極上の震えを感じていた。数年前のわたしが、この状況を想像できただろうか。
「――――」
世界でも指折りの大罪を有する暗殺者として捕まり、投獄され、一生そこから出られないものだと思っていた。
それなのにここで、日常を謳歌することを許されているのは――いつだったか、ランニングをしていた惺と偶然出会ったときも、同じようなことを考えた。
今回は、それ以上の気持ちの高鳴りが――
「んん? ……えっ!? ちょっ、セイラ!?」
「……なんだ?」
「ど、どどどどうして泣いてるの!?」
「…………なに?」
頬をなでると、たしかに濡れていた。手が濡れていたわけではない。
「……なんでもない。タマネギが目にしみただけだ」
「タマネギを切ってたのはあたし! それもだいぶ前に終わってるし! ……ちょっとこっち来て!」
真奈海に引っ張られ、リビングからは見られない物陰に。惺はちらっと一瞥をくれたが、なにも聞かなかったし見なかったというふうに装ってくれたようだ。
真奈海のハンカチで涙を拭かれた。
「もうっ。セイラが泣くっていったいどうしたの? びっくりだよ」
「……思い出し笑いならぬ、思い出し泣き?」
「そんな言葉聞いたことないし。まあ、詳しくは訊かないけどさ」
「真奈海は優しいな」
真奈海を抱き寄せた。
「えっ――ちょっ!」
「すまない真奈海。もう少しこのままで」
「うわ……その台詞、リアルではじめて聞いた」
人のぬくもりは、なにごとにも代えがたい。それを知ることができたわたしは、「人間」になれたのだろうか――?
しばらく真奈海のぬくもりを全身で感じていた。
「……いちゃついているところ悪いんだけど、ちょっといいか」
後ろから声をかけられた。
「おまえも混ざるか? 真奈海の体は、思いのほかやわらかいぞ」
真奈海が「い、いやん、セイラのえっち」と体をくねらせる。
「遠慮しておくよ。それより悪いな豊崎。セイラの突発性寂しがり症候群に付き合ってもらって」
「あ、そういう病気なんだ。んで、真城っちの用事はなーに?」
「ちょっと外す。豊崎は申しわけないけど下準備を頼む。メモを書いたから、そのとおりやってもらえれば大丈夫」
「わかったー。でもどこ行くの?」
「悠に話がある」
わたしと真奈海は顔を見合わせた。
じゃあよろしく、と言いながらエプロンを外して、惺はキッチンから出て行った。
「……まさか、修羅場にはならないよね?」
「惺のことだ。大丈夫だろう」
「そっか。んじゃあ、あたしたちは下準備を――」
テーブルの上に置いてあったメモを読む真奈海。やがて小さく笑った。
「真城っちから指令。『セイラは豊崎の言うことをよく聞いて、余計なことはしないように』だって」
「わたしは子どもか?」
抗議しようと惺を探す。惺はいま、悠と連れだって廊下に出るところだった。
悠の表情は不満と、わずかな期待で満たされている。
テーブルの上に並べられた料理の数々に、誰かがごくりとのどを鳴らした。
どれからもいいにおいが立ちのぼっている。見事な色彩感覚で盛りつけられ、視覚的にも楽しめるものだ。
たとえば西洋風にアレンジされた肉じゃがなど、工夫と手間を凝らした一品料理。サラダに和えられている赤いソースは、ニンジンを使ったオリジナルのものらしい。
ワイングラスに満たされたジュースで乾杯をしてから、みんなが料理を口にする。
やがてこの場にいるほとんどの人間が、あまりの衝撃的な味わいに目を見開いた。もちろんわたしもそのひとりだ。
最初に口にしたのは例の西洋風肉じゃがだった。たとえるなら味の多重奏。さまざまな味わいが舌の上で広がる。素材や調味料の味がけんかしないよう、完璧に計算されているのにも瞠目する。
みんながそれぞれ顔を見合わせて、興奮しながら感想を言い合っていた。
トラットリアHOSHIMINEの料理の完成度にも驚かせられたが、ある意味、惺の料理はそれ以上かもしれない。
「真城っちに質問! いつもひとりで自炊してんだよね?」
「ああ」
「いつもこんな美味しい料理を食べてるの? ひとりで!?」
真奈海の質問に、惺は苦笑いしながら答えた。
「いや、さすがにいつもはもうちょっと手を抜くよ。今日はみんながいるから張り切った」
「結婚してください!」
奈々や美緒や椿姫の表情が驚きに満ちる。
悠は我関せず、淡々と料理を食べている――ように見えたが、フォークを持つ手がかすかに震えていた。
「奈々」
わたしの隣にいた凜が、さらに隣に座っている奈々に小声で話しかけた。
「おまえ、ここまで美味しい料理、ひとりでできるか?」
「む、無理だよぅ」
「馬鹿者! それでも料理店の娘か! だいたいな、好きな男より女子力低くてどうすんじゃい!」
「ちょっ!? 聞こえる、聞こえるから!?」
「奈々はうちの店のホールスタッフじゃなくて、キッチンを手伝ったほうがいいな。花嫁修業のために」
「は……花嫁……」
自分の花嫁姿を想像しているのか、ぼーっとする奈々。隣にいるであろう男は誰だろうか。
それを見て凜はけらけら笑っている。先ほどわたしと惺の前で見せた心の深淵は、微塵も感じさせない。見慣れたいつもの凜だった。
「ん? セイラ、なにか用?」
「……いや。なんでもない」
「そう?」
わたしに対する態度も、なにも変わらない。
「ああ、もしかして、昼間の話気にしてる?」
「む……気にしていたのは、わたしか」
「あれは誰が見ても俺が悪いんだから、セイラが気にすることじゃないよ」
どんなに気にしても俺は変わらないよ、という言外の意志を感じた。「なんの話?」と奈々が問い、凜は軽快に笑いながら「なんでもないよ」と答える。
たしかに気にしすぎはよくない。わたしにはわたしの考え方があって、凜には凜の考え方がある。そこは認めるしかないのだから。
それから思い思いの会話に花を咲かせながら、食事は進んでいった。
やがて、みんなが食べ終わろうとする頃。
席を立った惺が悠に話しかける。悠も立ち上がり、グランドピアノに向かっていく。惺は一度リビングから出て、数分で戻ってきた。
惺の手にはヴァイオリンが握られている。
一堂が注目する中、悠がピアノの前でスタンバイ。その横に惺が立ち、ヴァイオリンと弓を構える。
「今日、ここに集まってくれたみんなに対するささやかなお礼だ。少しの時間、耳を傾けてもらえると嬉しい」
悠の手が鍵盤にかかる。
そしてピアノとヴァイオリンが織りなす――おそらく、人類史上でも類を見ないレベルの「奇跡」が始まった。