吹き抜ける夜の海風は鋭さを伴って、星峰凜の肌をなでていた。首もとの隙間から入る冷たい風に、思わず身震いしている。
濃紺のコート姿は夜の闇と同化している。すでに2月になっていて、連日肌を刺すような気温の低さが続いていた。
午前0時を過ぎた頃。曇った夜空はどこか濁って見える。未成年がひとりで出歩いてよい時間帯ではないが、ここまで誰にも見咎められることなくやって来られた。
星蹟島海浜公園。昼間は風光明媚で有名な場所とはいえ、こんな夜中に訪れる人物は自分くらいだろう。ふと、そういえば以前、ここでセイラと惺の抱き合っている写真が撮られたんだよなぁ、と他人事のように思い出す。その写真のせいで訪れた修羅場も、いまとなっては素敵な思い出だ。
思い出――?
自分にそんなもの必要なのか。
絶壁の柵に手をかけ、下を眺める。
暗くてよくわからない。うなるような海風と、激しい波の音だけが奈落の底から響いてくる。
落ちたら高い確率で死ねそうだ。
「星峰くん?」
驚いた凜が振り向く。
やや離れたところにある街灯が、細長い影を地面に投げている。影の持ち主は意外な人物だった。
「……東雲先生?」
ベージュ色のコートを身にまとった美術教師、東雲友梨子だった。真っ赤なマフラーと焦げ茶色の手袋をしている。
「なにしてるの、こんなところで? しかも、こんな時間に?」
それは東雲先生も一緒では――という疑問が浮かんでくるが、のどが凍りついて声が出なかった。
「……星峰くん?」
「散歩――そう、散歩です」
東雲は信じられないという眼差しを向けてくる。凜自身も、この言い訳は苦しいと感じた。
じゃあ、なぜ自分はこんなところにいるんだろう。
「せ、先生こそ……どうして?」
「――――」
東雲がにやりと笑う。唐突に現れた彼女の異質な微笑みに、凜は違和感を覚えた。
「――死なないの?」
声の質感も違った。同じ声のはずなのに、どう聞いても別人としか思えない。そもそも、内容がおかしい。
「――――ぇ」
「そこから落ちたら、楽になれるかもよ」
「――――な――なに、を?」
「くく……ふふ……あはははははっ!」
――この嗤い声。
どこかで聞き覚えが――?
「まだ気づかないのか」
東雲はマフラーと手袋と眼鏡を外し、髪留めでまとめていたすみれ色の髪を下ろし、どこかからか取り出した紐で髪を結わえ直す。
そして顔の「皮」全体を、まるで美容パックのようにべろんと剥がした。顔の輪郭が変わり、印象が大きく変化する。
「――――っ!?」
射抜くような眼光を宿す藍色の瞳で、「彼女」は凜を見据えた。その瞳の温度は周囲の気温よりはるかに低く、刃のように鋭い。
それは凜にとって、数年前までは見慣れた瞳。
「――か――か、かす――み――さん!?」
東雲友梨子――否、海堂霞が、静かに笑いながらゆっくりと凜に歩み寄る。
「いちおうこう言っておくか。――久しぶりだな、凜」
「――っ――!?」
「もっと早く気づいてもよかったはずだが……いや、むしろ気づいてほしかったんだがな。最低限の変装しかしてないのに。わたしの弟子と聞いてあきれるぞ」
「ぁ――あぁ――っ!?」
「このまま死ぬというのなら止めない。が、まだ死ぬ勇気がないのなら――」
再びにやりと笑う霞。妖艶で凄絶で、凜はどういうわけか視線を外せなかった。
「――一から鍛え直してやる」