Extrication 15

 眠っている悠の横顔を、凜は言葉にできない思いで見つめていた。
 薄暗くても、血色が悪くなったとひと目でわかる肌。自慢の金髪にも張りと艶がなくなって久しい。
 テーブルの上のトレイには、夕食のパンやスープが半分近く残されて置いてあった。ここ数日、悠の食欲は減少する一方で、こうやって食べ残すことが多くなっていた。
 凜はベッドの傍らに立ち、悠を見下ろしている。
 かけるべき言葉なんて、もうなかった。
 悠に犠牲になってくれと頼んだあの瞬間から、大嫌いと叫んでしまったあのときから、自分には慰めの言葉も気遣いも心配もすべて、彼女に向ける権利はなくなってしまったと思っている。
 斑鳩の星術によって感情や理性は抑制されているが、すべてを完全に抑えつけられるわけではない。完全に抑制してしまうと廃人同然になるためだ。そこがまた凜を苦悩させている。
 不意に悠が目を覚まし、凜に気づいた。
 体がどんな状態でも、どういうわけか悠の双眸は光を失ってない。なぜかまぶしくて、凜は悠から視線を逸らした。
 
「……凜……くん?」
「…………」
 
 凜の返事はなかった。
 しかし、沈黙がふたりのあいだを支配しようとしたそのとき――
 部屋の外がにわかに騒がしくなる。天井が揺れ、照明が明滅した。くぐもってよく聞こえないが、誰かの叫ぶ声も聞こえてくる。
 そして、銃声のような低い爆発音が、連続して響いてきた。
 ただごとではないと、凜は直感する。
 不安そうに瞳を揺らす悠。
 
「様子を見てくる」
 
 凜が振り返って行こうとすると、悠は凜のTシャツの裾をつかんできた。激しいデジャビュに、凜の凍りついた心にさざ波が立つ。
 
「い……行かないで」
「…………」
 
 そのとき、外の廊下を走る足音。凜は思わず身構えた。
 勢いよくドアが開け放たれる。
 武装した研究員、鈴井が息を切らして姿を現した。彼は基本的に事務方の人間だが、黒月夜の構成員として基本的な戦闘訓練は受けている。
 
「凜くん、ここにいたか! 真城悠を連れてここから脱出しなさい!」
「なにが」
「侵入者だ!」
「え」
「いいから早く! あいつら、ただ者じゃない!」
 
 凜は悠に向いた。

「悠、行くよ」
「う……うん」
 
 悠の腕をつかんで立たせる。悠の腕が記憶よりも細くなっていることに、凜の心に再びさざ波が発生した。
 
「凜くん、これを」
 
 鈴井が1丁の拳銃――「M9」という名称で有名なベレッタを凜に手渡す。
 悠の体が震えている。つかんだ腕を通じて凜に伝わってきた。
 
「銃器の扱いは、以前習ったことがあるんだよね? 自分の身は自分で守りなさい」
「霞さんは」
「わからない。妨害電波でも発生してるのか、連絡がとれないんだ――さ、行くよ」
 
 鈴井を先頭に、3人は部屋から抜け出した。
 錆で赤茶けた薄暗い廊下を、凜たちは進んでいく。どこからか響いてくる銃声が、よりいっそう激しくなっていた。
 
「悠を勝手に連れ出していいの」
「こういうときの指示は、あらかじめ海堂さんから出されているんだ。……くそっ。斑鳩さんが不在のこんなときにっ」
 
 斑鳩が数日間出かけることは、凜は本人から聞いて知っていた。ただし、どこに行くのかは聞いてない。
 やがて、凜の知らない鉄製の扉が目の前に現れる。アジトの内部、行動を許されている範囲の構造は凜も把握しているが、この扉の先は知らない。
 鈴井がゆっくりと扉を開ける。立てつけが悪いのか、ぎしぎしと嫌な音が鳴っていた。 扉の向こうの安全確認をしたあと、凜たちに入るよう鈴井がうながす。
   
「道なりに進むと出口がある。そこを出たら、建物からできるだけ離れて。視界の開けた場所には絶対に出ないで」
「鈴井さんは」
「僕はこれでも黒月夜から安くない給料をもらっているからね。そのぶん働かなくちゃ」
 
 鈴井はサブマシンガンを持ち上げながら笑った。
 ――だが、その刹那。
 笑顔が張りついたまま、鈴井が凍りついた。

 ごとん、と――
 鈴井の首だけが、油でべとべとした床に落ちる。

「――――っ!?」
 
 おびただしい量の血液を噴水のようにまき散らしながら、鈴井の体が後ろに倒れた。
 ――直感。
 凜は急いで扉を閉め、かんぬきを通した。
 
「はぁ――はぁ――っ!?」
 
 なにが起きたのか、まるでわからない。銃声もなにも聞こえなかったのに、どうして突然鈴井の首が落ちたのか。
 見当もつかなかった。
 わかるのは、ここで恐怖にうずくまっている暇なんかない、ということ。
 
「ゆ、悠!?」
 
 悠はいつの間にか壁に寄りかかって気を失っていた。体も精神も、もともと極度に疲弊している中、目の前で行われた斬首のシーンはあまりにも酷。悲鳴のひとつをあげる余裕もないほどの衝撃が、悠の意識を無理やり刈りとった。
 ドンッ、と。
 閉じた扉が向こうから叩かれている。誰かいるようだが、少なくとも味方ではないと凜は直感した。
 
「――っ!?」
 
 悠を背負い、拳銃を片手に、凜は出口に向かって駆けた。


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