Extrication 18

 森の中を、悠を背負った凜が走っていく。
 この場所が星蹟島であることには地形からなんとなく気づいていた。築山の下、月明かりに照らされた街並みには、どことなく見覚えがある。地震以後、凜が外に出たのははじめてだ。
 しかし眼下の廃れた街並みを気にしている余裕など、いまの凜にはない。
 逃げる。
 どこまでも逃げる。
 
「はぁ……はぁ……!」
 
 途中、つまづきそうになってもすぐに体勢を立て直して走る。背負った悠が目覚める気配はなかった。
 どうしてこんなに必死なのだろうと、凜は心の片隅で思っていた。
 自分は悠に死ねと命令したようなものだ。なのになぜ、ここまで必死に守ろうとしているんだろう。
 凜の直感は告げていた。「やつら」の手に悠が落ちた場合、もうどんな希望もすべて打ち砕かれるだろう、と。
 惺とセイラの面影が脳裏によぎる。なぜあのとき、自分は惺に電話したんだろう。
 答えはすぐにわかった。
 あのふたりに、どうにかしてほしかったんだ。
 救ってほしかったんだ。
 悠を。
 そして、自分自身を。
 
「……っ」
 
 とがった木の枝で傷ついても、構う余裕などない。
 とにかく走る。
 背中の悠は、びっくりするほど軽かった。伝わってくる体温は冷たく、いまにも消えてしまいそうな存在感。この事態を招いた責任のほとんどは自分にあると、ごちゃごちゃになっていながらも、凜の理性は思い知っている。
 開けた場所に出た。
 
 ――まずい。
 
 鈴井の警告が頭をよぎる。身を隠さなくてはだめだと一瞬で判断し、近くの木立に隠れようとする。
 ――まさにそのときだった。
 上空から降り注ぐ膨大な光に、凜の目がくらんだ。もちろん月明かりなどではない。
 
「――ぁ――っ!?」
 
 頭上に浮かぶ巨大な機体に、凜は心から戦慄した。空中でホバリングし、こちらに強烈な照明を向けている。
 吹きすさぶ暴風。巨体が飛んでいるのに、風以外の音がほとんどしてなかった。
 流線型のクジラのような胴体は漆黒に塗られている。小さな両翼と計4つのティルトローター――シルエットは自衛隊のアルゲンタヴィスとよく似ているが、細部の装備や機構が異なっている。しかし、それは凜が知るよしもないことだった。
 空中で側部ハッチが開き、なにかが飛び出す。
 人間だった。5人の人間が、開けた地面に降り立つ。
 まるで悪魔が降臨したかのように――
 凜は言葉を失った。目の前に現れた謎の集団は、たしかに人間のシルエットをしている。
 だが、その異様な姿。
 漆黒の装束に身を包んだ謎の集団。「人」であるはずなのに、それとは別の異質な存在感を醸している。
 形容は異様。気配は異質。
 喜怒哀楽のすべてが混ざったような不気味な白塗りの仮面が、漆黒の中で浮き彫りになっていた。背丈の差異もごく小さい。5人全員がまるでコピーしたかのように、寸分の狂いのない姿だった。彼らがSFGの精鋭であることを、当然凜は知らない。
 仮面の瞳は、ずっと凜をとらえて離さない。
 そして――
 SFGの面々が全員、姿勢を低くして一気に凜に近づいてくる。
 十数メートルはあった距離を一瞬で詰められ、凜の心臓は止まりそうになった。
 いちばん接近してきたひとりの腕が、最小の動作で振りかぶる。
 拳が、凜のみぞおちにめり込んだ。
 
「がはっ――!?」
 
 内蔵が破裂したのではないかと思うほど熾烈な一撃を受けて、凜は悠と一緒に背後に吹っ飛んだ。
 悠の体温が、凜の背中から消えた。
 すぐに顔を上げた凜が、目の前で倒れている悠を視認する。
 
「ゆぅ――――ぐぅっ」
 
 悠を呼ぼうとするが、みぞおちの衝撃が抜け切れてなく、うまく言葉が紡げない。
 SFGのひとりが悠に近づき、彼女を肩に抱えながら振り返って歩き出した。その先には、いつの間にか地上に降りていたアルゲンタヴィスの姿が見える。
 
「待て――ゆ、悠――っ!?」
 
 SFGの連中は聞き取れないほど小声で話し、やがて凜に意識を向けた。
 ひとりがゆっくりと凜に近づいてくる。まるで足音はない。
 凜の鼻先で止まった。
 その人物は懐から拳銃を取り出し、無言で凜の頭に標準を定める。
 
「……う……うぁ……」
 
 凜にはもう、逃げるような気力など残されてない。たとえ残っていたとしても、目の前の人物たちが見逃してくれるとは露ほどにも思わなかった。
 絶望が凜の心に満ちる。
 死の気配が、そこまで近づいていた。


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