Extrication 26

 自分を抱きしめるようにしながら、凜は泣きじゃくっている。仕草や声の質感はもう、女性のそれだった。
 それを見つめながら、霞は嗤っている。
 
「まさかおまえが凜をひん剥くとは思ってなかったぞ! これは傑作だ」
 
 惺は自分の上着を、凜にかける。
 
「……ごめんな」
 
 凜の反応はない。ただ力なく嗚咽するのみ。
 
「しかし困ったな。もうこれでは、凜は使い物にならない。どうしてくれよう」
「海堂霞! いい加減にしろ!」
 
 セイラの瞳が怒気と殺気で彩られる。
 だが霞はそれを、軽やかに受け流した。
 
「ふん。ふたりとも想像を絶する――ろくでもない経験をしてきたのはなんとなくわかるが、それでも凜は手に負えないんじゃないか。こんな人間未満、どうするんだ? 今後、『表の世界』で暮らすのは難しいだろう」
「ふざけるな。あなたに凜のなにがわかる!」
 
 惺がいきり立つ。
 
「少なくともおまえたちよりは知ってるさ。そいつのどうしようもない家族のことも。凜が処女を失ったのは、初潮が来る前だったこともすべて。初体験があれじゃ、性を嫌悪するわけだ」
「――っ。けど、それでも! あなたには任せておけない!」
「なら、おまえが凜を救うとでも言うのか? 白馬に乗った王子さま気取りか」
「違う! 俺は凜の親友として、対等でありたいと思っているだけだ――自分を救えるのは、自分だけだ!」
「ほう――」
 
 おもしろい、と言外に含ませながら、霞は刀を構えた。
 身構えるセイラを惺が制止した。静観してくれ、と視線に含ませて。
 惺が、いまだかつてない激情をあらわにしていた。
 セイラは思わず、後ろに一歩退く。
 
「そんな気配も出せるのか。つくづくおもしろい男だよ、きみは」
 
 惺は左手をかざした。
 手のひらの先に収束されていく光が、ひとつの武器を形づくる。
 クォータースタッフではない。
 ひと振りの日本刀だった。白塗りの太刀拵。柄頭や鍔、鐺などの部分は金色の装飾が施されている。
 なにより特徴的なのが、その圧倒的な存在感。
 ひと目で霞は、それが名刀を超越した神のひと振りだと気づき、体が震えた。
 銘は「蒼牙護神聖」。
 惺がわざわざこの場所まで避難してきたのは、この刀を回収するためだった。真城家に代々伝わる伝家の宝刀。日本どころか世界でも類を見ないほど完成された究極の刀剣のひとつ。父・蒼一の形見だ。
 やや低姿勢で、惺は蒼牙護神聖を構える。
 惺が先に動いた。
 足を強く踏み出すのと抜刀を同時に行う。
 刀身がその名を体現するかのように、月明かりを反射して青白く幻想的に煌めいた。 
 爆発的な一足飛びで距離を詰めた惺は、加速の力を込めた横薙ぎを繰り出す。 
 対する霞は器用にそれを受け流し、返す刀で怜悧な一撃を加える。
 神速で次々と繰り出される剣戟の応酬に、周囲の空気が混ざり合い、激しく踊り出した。
 いまだかつてない興奮を覚える霞は、口もとがにやけるのを禁じられなかった。おそらくは、いままで相対した敵の中でも最高クラスの強さを、惺から感じている。
 2本の日本刀を中心地とした嵐が吹き荒れる。離れたところにいたセイラも、空気の鳴動が感じられた。
 
「海堂霞さん。たしかにあなたは強い――!」
 
 打ち合う剣戟の音を背景に、惺が言葉を紡ぐ。目にもとまらぬ斬撃を繰り出しながらとは思えないほど、穏やかな響きだった。
 
「俺は決して、自分を過大評価しない。もちろんあなたを過小評価するわけでもない――」
 
 均衡を保っていた斬撃の嵐が、急に崩れ去る。猛り狂う颶風が、一気に霞へと襲いかかった。

「それでも俺は、あなたよりも――!」

 一瞬だけ生じた、霞の隙。
 針の先ほどのそれに、惺は渾身の一撃を放った。
 
「――っ!?」
 
 ここまで驚愕する霞の表情は、誰も見たことがないだろう。
 鈍い音とともに、霞の刀が折れる。
 無防備になった霞の体に、惺はさらに刃を奔らせた。
 しかし彼女の体に当たる刹那、惺は刃を返した。
 全力の峰打ちが、霞の体を大きく吹っ飛ばした。
 彼女の体が波打ち際まで転がっていく。
 沈黙が訪れた。
 穏やかな波の音が聞き取れるほどの静寂が、月と星々が織りなす夜空の光に照らされている。
 
「……なぜとどめを刺さなかった……?」
 
 つぶやくように言ったあと、霞がよろめきながら立ち上がる。しかし数瞬前まであった圧倒的な力強さは、もう彼女には残されていない。
 惺は無言を返した。
 
「そうか……気づいていたか」
 
 ――瞬間、霞の全身からおびただしい量の血が吹き出た。もちろん、惺の攻撃が原因ではない。
 霞の体が、再び地面に吸い寄せられるかのように傾いた。
 
「か――霞さん!」
 
 いままで放心状態だった凜が唐突に飛び出し、倒れかかる霞を受け止めた。
 
「あ――ああ――っ!?」
「そんな顔をするな、凜。……SFGの化け物どもと戦って、無傷なわけがないだろう」
 
 SFGがなんなのか凜にはわからなかったが、黒月夜のアジトを襲い、悠を連れ去ったあの連中を指していることだけは悟った。
 惺とセイラが近づいてきて、霞を見下ろした。勝利した喜びなどなく、寂寞とした思いが、ふたりの心に渦巻いている。
 
「真城惺……やはりおまえは天才だよ……『剣聖』と謳われた、ユーベル・レオンハルトの剣に……通じるものがあった」
「……剣聖と戦ったことが?」
 
 セイラが訊く。
 
「若い頃に一度だけ……このわたしですら……まるで歯が立たなかった」
 
 剣聖ユーベル・レオンハルト。シディアスを束ねる総長にして、個人としては世界最高の戦闘力を有すると言われている偉大な英雄。かつて斑鳩が、絶対に敵対してはいけないひとりとして数えた人物だ。
 
「霞さん! もうしゃべらないで!」
「……わたしの役割は終わった」
 
 それがなにを意味するのか、凜はすぐに悟った。
 
「そんなっ」
「おまえの友人たちは、わたしが想像していたよりもはるかに……ぐっ!?」
 
 霞が血の塊を吐き、凜の顔を鮮やかに染めた。
 ああ――と。
 凜はすぐに理解した。理解せざるを得なかった。
 もう手遅れだと。
 
「大切な友人だと思うのなら、そのふたりを殺せ……それができるようなら、おまえは立派にわたしの後継者となっただろうな」
 
 戦いが始まる前、霞が凜につぶやいた言葉。
 
「霞……さん」
 
 凜の瞳には、わずかだが光が戻っていた。それを映す霞の瞳からは、逆に光が失われつつある。
 
「もういい。黒月夜はもう、この世にないにも等しい。……そうか……凜、おまえは、どうなりたい?」
 
 思いがけない質問に、凜は答えられなかった。
 
「おまえはもう自由だ。やり直したいというのなら、その翼を広げたいというのなら、もう止めはしない」
「……っ」
「最後の老婆心だ……友人を信じてみろ。自分を信じてみろ。自分の矮小さや不完全さを認めて、這い上がれ!」
「――――っ!」
「ふふ……最後がおまえの腕の中とは……叙情的だが……悪くない」
 
 霞の手が、凜の頬に伸びていく。
 だが、それが届くことはなかった。
 
「霞さん……? 霞さんっ!?」
 
 海堂霞は、その波乱な人生に幕を閉じる。
 最後に見せた彼女の表情は、穏やかなものだった。
 こぼれ落ちる凜の涙が、霞の頬を哀しく濡らす。


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