Extrication 31

 感じたこともない感触を全身に浴びながら、凜の意識は消えようとしていた。
 凜本人には、肉の壁の中を進んでいるという認識はない。
 凜はその中で捕食されることも消化されることもないまま、なにかの意思に導かれるように、ひたすら「奥」へ向けて進んでいく。
 ふと、懐かしい存在を感じた。
 凜は目を開けた。
 まばゆい光の満ちる世界が、そこに広がっていた。
 その最奥に、見慣れた金髪が揺らめいている。
 声を出そうとするが、凜の口から漏れた空気は音にならず、光に吸収された。
 現実と夢の境界線の狭間で、凜の意識は薄らいでいく。
 無意識に手を伸ばした。一度は手放した存在に向かって。もう一度触れることが許させるのなら、自分は死んでもいいと、凜は思った。
 金髪が徐々に近づいてきて、やがて完全に悠の姿を認めた。
 凜はまた声をあげようとした。
 だが、できなかった。
 まるで聞こえざる声に起こされたかのように、悠のまぶたが開く。
 彼女の双眸が、凜を見据えた。
 
「――――っ!?」
 
 凜は戦慄した。
 悠の瞳には、もう光は残されてなかった。
 周囲の光すら完全に飲み込んでしまいそうなほどの闇が、悠の瞳を支配している。

◇     ◇     ◇

 
 鮮烈な光の世界を、惺は歩いていた。
 地面はない。曖昧ななにかの上。まるで雲の上を歩いているようだと、惺は思った。
 
「――っ!」
 
 そして気づいた。茫洋とした空間に霧散しようとした意識が、一気に収束していく。
 
「ここは……?」
 
 自分はたしか、肉片がこびりついた建物の中を進んでいたはずだった。セイラと一緒に、襲いかかってくる肉の触手と戦いながら。やがて中を進むにつれて、触手の攻撃が薄くなっていたのに疑問を感じていた頃だ。
 目の前で唐突に、閃光が弾けたのは。
 それからいまに至るまでの記憶は曖昧だ。どれだけ時間が経過しているのかもわからない。
 近くにいたはずのセイラの姿が見えない。何度叫んで呼んでも、返事はなかった。 
 目をつむり、意識を集中させる。
 遠いのか近いのか、時間的な隔たりがあるのかないのかもわからない「場所」で、セイラの気配を感じた。
 ――そのとき、また閃光が弾けた。
 
「…………?」
 
 惺が目を開けると、純白のドレスを着た後ろ姿が視界に飛び込んでくる。
 まるで現実感がなかった。
 
「セ、セイラ?」
 
 セイラが振り向く。
 
「惺……待っていたよ」
 
 純白のそれは、ウェディングドレスだった。
 
「な、なにをやっているんだ……コスプレ?」 
「ずっと夢見ていた。惺のお嫁さんになることを」
 
 少女のようにはにかむセイラは、まるで別人のようだ。
 
「お、おい」
「さあ惺。永遠の愛を誓い合おう」
 
 また閃光が弾けた。
 惺が再び目を開けると、あまりの光景に仰け反った。
 白い雲のようなものが巨大なベッドを形作り、その上にセイラが寝そべっている。
 透過性の高いネグリジェをはだけさせて。
 惺は頭を抱えた。
 
「さあ惺。新婚初夜だ」
「……セイラ」
「緊張してるのか? おまえも可愛いところがある」
 
 惺は自分の頬をつねった。
 痛みを感じる。
 
「来るんだ惺。今夜は寝かせないぞ」
「……それはできない」
「緊張してるのか。ふふ、いいさ。年上のわたしがリードしてあげよう」
「そうじゃない。俺はきみを抱けない」
「な…………なんだと?」
「いままで黙ってたことがあるんだ。俺は……実はゲイなんだ」
 
 セイラの表情が凍った。
 
「そういえば、レイジさんはいい男だったな」
 
 セイラの体がぷるぷると震える。
 
「だからごめん。セイラには興奮しないんだ」
 
 惺の真横を、エネルギー弾がかすめた。
 いつの間にかセイラはいつものジャケット姿に戻っていて、星装銃を構えていた。憤怒の感情をあふれさせながら。
 
「わたしが……まさか、レイジに負けるだと……! あのエロ親父に、このわたしが!?」
 
 エネルギー弾がかすめる。
 身を隠さないと、と思った惺の近くに、都合よく壁が現れた。白い雲でこしらえたような壁。惺はその物陰に隠れた。やはり現実感がない。
 
「出てこい惺! わたしが引導を渡してやる!」
「……まずった」
 
 つかの間、惺は考える。
 そして、壁に手をかざした。
 すると壁の一部が分離して、人の形を成した。それは瞬く間に惺と寸分違わない分身へと変貌する。どうやらこの世界は、夢と同じように思考や願望が具現化するらしい。でも痛みがあるから夢ではないだろう。まったく意味がわからないが、そこはいま考えるだけ無駄。
 行ってくれ、と惺が念じると、分身は物陰から出て、セイラと対峙した。
 
「この変態ゲイ野郎!」
 
 罵声を浴びせながら、セイラは星装銃の引き金を引いた。
 膨大なエネルギーが、惺の分身の上半身を消滅させた。残った下半身も、すぐに光の粒子となって散る。
 これまでの人生でもそう感じたことのない悪寒を、惺は全身で感じた。自分自身が殺される場面というのは、ここまで恐ろしいのかと。
 セイラの星装銃が、手からこぼれ落ちる。
  
「あ……ああっ……ああああぁぁっ!?」
 
 わなわなと震えるセイラの膝がくずおれ、やがてか弱い少女のように嘆いた。
 惺はセイラに近づいた。
 
「殺して……殺してしまった……惺を……わたしがっ!?」
「セイラ」
「…………。…………あ、惺?」
「俺は生きてる」
 
 セイラが惺の体にすがり、恥も外聞も捨てて泣きじゃくる。
 そんなセイラに惺は言った。
 
「歯を食いしばって」
 
 平手でセイラの頬を打つ。
 数秒ほど、時間が止まる。
 
「痛いじゃないか! なにをする!」 
「目が覚めたか?」
「…………? ここは?」
 
 きょろきょろと当たりを見まわし、再び惺を向くセイラ。
 
「なんだここは!?」
「よかった。いつものセイラだ」
「お、おまえがゲイだとは知らなかった!」
「それは冗談だよ。決まっているだろ」
「冗談? 冗談だと! なんでそんなことを!」
「なんか様子がおかしかったから、精神的ショックを与えれば正気に戻るかと思って。……失敗したけど」
「おまえっ……」
 
 怒りを爆発させたのは一瞬。セイラはすぐに邪念を振り払った。これ以上怒ったところで意味はない。
 
「それで、なんだこの世界は? わたしたちはあの建物を進んで……星核炉の中に足を踏み入れてなかったか?」
「わからない」
「夢なのか?」
「さっき叩かれて痛いって言ったじゃないか」
 
 セイラは頬をつねった。
 
「……痛いんだけど」
「痛いのは生きてる証拠。ふむ。夢じゃないのか。しかし、現実感がまるでないこの光景は――」
「そう。現実感が曖昧だ。それこそ夢との境界線にあるような――」
「……ここが星核炉の中だとすると、凜と悠も?」
「いる。間違いなく。かすかに気配は感じる」
「どうやって捜すんだ? こんな茫洋な世界で」
「この世界は夢と似ている。だから念じるんだ。ひとまず、凜の姿を明確に思い描くんだ」
「そ、その前にひとつ言わせてくれ」
「ん?」
「さっきのわたしの痴態は記憶から、可及的速やかに! 永久に抹消するように! 他言したら許さないからな!」
 
 頬を赤らめるセイラは新鮮だった。
 
「俺からもひとつ言わせてくれないか」
「……な、なんだ?」
「前から思ってたけど、きみはセックスアピールが下手すぎる」
 
 セイラの銀髪が怒りで逆立つのと、左腕を振り上げたのは同時だった。


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