Finale

「……やっぱこれじゃあ釣れないよなぁ」
 
 様々な瓦礫が大量に浮かぶ海面に釣り竿を向けていた男が、ぼそりとつぶやいた。
 かつてレイジと霞が戦闘を繰り広げた、南裾浦港近辺の堤防。海にまっすぐ延びた埠頭の先端。
 斑鳩聖が折りたたみ式の簡素な椅子に座り、釣り竿を握っていた。餌やポイントを変えて何度か試みたが、まったく釣れる気配がない。魚どころか、周囲はあらゆる生物の気配がなかった。
 
「はぁ。この島で釣れた試しがないんだよね。絶対におかし――」
 
 斑鳩の言葉が途切れた。
 足もとに置いてあったタブレット端末が、警告音のようなものを発生させている。ディスプレイを見た斑鳩は、眉根を寄せた。
 
「来たか。……これはちょっとまずいかもね」
 
 ――異様な「気配」を感じたのは、そのときだった。
 
「――っ!」
 
 もしもこの場にほかの誰かがいれば、斑鳩の動揺した姿が見られただろう。
 空気を変質させるほどの圧倒的なプレッシャー。
 しかし周囲を見渡してみても、誰も存在してない。存在してないはずなのに、圧倒的な「なにか」が近くにいる。そんな強烈な違和感と矛盾に襲われていた。
 やがて、不意に――

《はじめまして、煌武聖陽》

 声のような「もの」が、斑鳩に届いた。耳を通して聞こえてきたのではない。脳に直接声が送られているような不可思議な感覚。
 きょろきょろとするが、やはり周囲には誰もいない。
 
《そんなに驚かないでよ。アタシを呼んだのはあなたでしょうに》
 
 老若男女の声を無数に重ね合わせたかのような、不気味な電子音声。もちろん性別も年齢もいっさい不明だ。
 斑鳩はすぐに「声」の主が誰なのかピンときた。その瞬間、彼の頬を冷や汗が伝う。
 
「まさか……アヌビスさんですか?」

《はじめまして。あなたから連絡がくるとは思ってもなかったわね》

「はは……僕だって、まさかあなたが本当に現れてくれるなんて思ってなかったですよ……あれ、僕のこと知ってるんですか?」

《あなた、自分で思ってるよりも有名人よ。〈神の遺伝子〉を世界にばらまいた、世界でも有数の極悪人》
 
 この人だけには言われたくないなと思う斑鳩だったが、もちろん口には出せない。
 
《アタシにだけは言われたくないって顔してるわね》

「そ、そんなことは……えっと、それよりどこにいるんですか? 姿が見えないとしゃべりにくいんですけど」

《アタシ、シャイなの》

「そ……そうですか」
 
 アヌビス――名前なのかコードネームなのか不明だが、昔からこう呼ばれている正体不明の暗殺者。
 暗殺者というカテゴリーでは、おそらく世界最凶最悪の存在だろう。どういうわけか昔から世界的に有名で、その存在はもはや都市伝説レベルにまで昇華されている。
 いわく、人類すべてが敵になっても勝てる、だとか。
 いわく、人類が登場したと同時に誕生した「人類最古の悪の遺産」だとか。
 いわく、数千年前から代々受け継がれてきた暗殺者の血脈、だとか。
 斑鳩がかつて絶対に敵対してはならない人物のひとりとして数えた存在だが、その「素顔」を見た者はいないとされている。

 ――こ、ここまで怖いとは思わなかったっ!

 殺気や害意などは感じない。代わりに存在するのは、不気味で超越的なプレッシャーのみ。基本的にどんなことがあっても動じず、平常心を失わない斑鳩でも、今回ばかりは素に戻って怯えていた。
 黒月夜のアジトにSFGが襲撃した際、斑鳩がその場にいなかったのは、アヌビスに連絡をとるためだった。アジトの設備ではどうにもならないほど、特殊な通信端末が必要だったためだ。
 
《で、なんの用かしら》

「……た、助けてほしいんです」
 
 恐怖を押し殺し、なんとか言葉を紡ぐ。
 
《あなたを?》

「いえ。僕の『妹』たちを」

《それはつまり、ついさっき星核炉〈アクエリアス〉から潜水艦で脱出したあの子たちのこと?》
 
 光の世界から帰還した惺、セイラ、凜、悠の4人。彼らは潜水艦に乗り込み、すでに〈アクエリアス〉を脱出していた。
 
「なんで知ってるんですか……? いえ、わかっているなら話は早い。いま、SFGの増援部隊がこの星蹟島に向かって飛んでます。かの組織なら、あの潜水艦に気づくのも時間の問題でしょう。逃げられるわけがありません」
 
 先ほどのタブレット端末が発した警告音は、SFGの接近を知らせるものだった。ゾディアーク・エネルギーの本社が事態収拾のために、SFGの増員を送ってくることは斑鳩も早い段階から予見していた。
 しかし接近しているSFGの量がまずい。数十機の機体に、一個中隊レベルの人員が搭乗しているのは間違いなかった。
 
《彼らも本気か。冗談みたいな増員を送ってきて……まあ、星核炉の中に入り込んだ一般人を放っておくわけないわよね。――くっくっく、必死すぎて笑っちゃう》

「……あなたはどこまで知っているんですか?」

《知ってることだけよ。――そうねぇ、少なくとも惺と悠ちゃんは「死なないことが確定」しているから心配ない。シルバーワン――セイラにもあれが「発現」していれば死にはしないわね……まあでも、あなたの妹、星峰凜ちゃんはどうかしら。いくら惺とセイラの戦闘能力があっても、あの数のSFGを相手にするのは不可能でしょう》

「…………?」
 
 惺とセイラのことをまるで直接知っているかのような口ぶり。さらに意味深な言葉が何度も出てくる。しかし詳しく訊ける雰囲気ではない。
 
《つまり、それをアタシにどうにかしてくれって?》

「……はい。おそらく、そんなことを頼めるのは世界広しといえども、あなたしかいないでしょう」

《もうあなたには関係ないでしょう。放っておけばいいのに》

「凜は僕の大切な『妹』です。あのくそったれな家族の中で、凜だけは違った。あの子は僕の希望だった。……でも僕は、彼女を守り切れなかった……だから、せめて今回だけは。惺くんや悠ちゃん、セイラ捜査官は、凜の大切な友人みたいですし」

《ふうん……あなたにしては感情的な理由ね》
 
 自覚はあった。
 自分はどうしてこんなことを頼んでいるのだろう。
 
《それで、報酬は?》

「僕の命を」
 
 これにはなんの躊躇もなく、斑鳩は即座に言い切る。この瞬間、斑鳩は死の覚悟をした。自分でも心底不思議だが、凜が助かるなら自分の命など安いものだと本気で思っている。
 
《……へえ》
 
 それからしばらく、アヌビスの返事はなかった。
 恐ろしいまでの沈黙。
 やがて――
 
《もしも「金ならいくらでも払います!」とかクソつまんないこと言うようなら、その首、即座に落としてたけど》

「……いやまあ、どっちみち死ぬんですけど」

《決めた。あなたの命はアタシがもらう》

「……はい」

《アタシのもとに来なさい》

「…………え?」

《あなたの頭脳は、ここで失うのは惜しい。たぶん、現世人類の中ではトップスリーに入るくらい知能が高いんじゃない? せっかくだからこき使ってあげるわ》
 
 斑鳩はうまい言葉を返せなかった。
 
《さあどうする? それともここで死ぬ? だったらあなたの死体を撒き餌にして、大物釣り上げてあげるけど。なんか釣れたら魚拓にして、あなたの墓前に添えるわ》
 
 どこかで聞いた台詞。
 斑鳩はつい笑ってしまった。
 そしてまたしても覚悟する。
 
「――わかりました」
 
 躊躇はない。
 この瞬間、ついに悟った。
 ああ、僕はこの「人」と出会う運命だったのだ――と。
 
《契約成立。じゃあまずは、アタシの仕事を取りかかるとしますか。ついでに、ゾディアーク・エネルギーが、今後もしばらくは惺たちに手出しできないようにもしてあげる。初回限定サービスよ。うふふ》

「そ、そんなことできるんですか?」

《簡単よ。だってゾディアーク・エネルギーはそもそも……まあいいか。――じゃ、ちょっと行ってくるわね。SFGの連中と遊ぶのは久しぶりだから、ちょっと楽しみ。うふふ……あはは――あははははははっ――!》
 
 不気味な笑いの余韻だけを残しながら、アヌビスの気配が完全に消えた。
 沈黙が降りる。

「――――――――ぁぁぁぁあああっ!」

 たっぷり数十秒後、一気に脱力した斑鳩がコンクリートの地面に転がる。
 
「マ、マジで死ぬかと思ったっ! なんだあの人……人? いや、そもそも本当に人なのか?」

 世界最凶クラスの影響力を有するゾディアーク・エネルギーを、どうやって抑えつけるのだろう。

「……まあ、僕の知ったことではないよね」

 言いながらおもむろに起き上がり、ゆっくりと空を見上げた。
 
「――姐さん、黒月夜は楽しかったよ。先に逝ったみんなも気のいいやつらばかりだった」
 
 冥福を祈るように、まぶたを伏せる。
 まぶたを開け、海を見つめた。
 
「凜、きみには幸せになってほしい。それが僕の唯一の願いだ。たぶんもう会うこともないだろうけど」
 
 斑鳩は振り返り、おもむろに歩き出した。
 ざざん、と埠頭のコンクリートに波が打ちつける。

 ――次の瞬間。
 斑鳩聖は、完全に姿を消した。

◇     ◇     ◇


「なんでおまえは生きているんだ?」
「いやー、ひどい目にあったが致命傷はさけてたみたいでな。おまえもたいしたものだが、俺の悪運も捨てたもんじゃないぜ。はっはっは……ああだだだっ!?」
 
 笑いが傷に障ったのか、雨龍・バルフォア・レイジは顔を歪めて腹を押さえた。
 とある病院の個室。薄いブルーの入院着をまとったレイジが、ベッドの上に座っている。傍らに置かれた点滴がレイジにつながれていた。それを見ながら、性格を矯正させる薬でも混ぜてやろうかと、セイラは先ほどから本気で検討していた。
 
「海堂霞は死んだよ」
「ああ、聞いているぜ」
「彼女と一緒に戦ったのか?」
 
 レイジは鼻で笑った。
 
「最初のうちだけだ。すぐにあの女、SFGの大軍を俺に押しつけて、さっさと逃亡しやがった。さすがの俺もな、気味の悪い仮面たちに囲まれて、『あ、死んだ』って思ったぜ」
「……そんな状況で、ほんとよく生き残ったな」
「もうだめだと思ったとき、SFGのやつらが急に焼き切れたようにバラバラになってよ」

 まさにSF映画みたいだったぜ、とレイジはつけ加える。

「どういうことだ?」
「上空から無数のレーザー光線が降り注いできてな。ついでに爆弾のようなものも大量に落ちてきて大爆発の嵐。もうひどいったらなかったぜ。ま、結局俺もそれに吹っ飛ばされて頭ぶつけて、そのまま気を失ったんだが」
「……いったい誰が?」
「知らん。でも気を失う前にちらっと見えたんだ。夜空を飛ぶヴォルテックのような機影を。んで、その上に立っていた人間もな。顔まではわからなかったが」
「ヴォルテックの上に……人間」
 
 どこかで見たような光景を思い浮かべるセイラ。しかしその光景は、レイジのひと言でさえぎられる。
 
「しかし、おまえさんほどその格好が似合わない人間もいないよな」
    
 同じ入院患者という扱いのため、セイラも入院着をまとってパイプ椅子に座っていた。たしかに、レイジの言うとおりだと思う。
 潜水艦で本土に帰還後、セイラたちは即座にICISに保護された。そしてこの病院へ直行。4人とも命に別状はなかったが、極度の疲労が見られるために全員入院という運びになった。
 それから約1週間が経過していた。セイラは比較的元気になるのが早く、すでに病院内を出歩いている。詩桜里から、同じ病院にレイジも収容されていると聞いて、こうして冷やかしに来た次第だった。
 
「いろいろあったようだが、目的は達成できたようだな」
「ああ。おかげさまでな」
「感謝してるのなら、体でお礼をしてくれてもいいんだぜ?」
「……使い物になるのか?」
 
 セイラは細めた目で、レイジの股間のあたりを凝視した。
 
「なんてこと言うんだ! むしろ強烈な生命の危機を感じて、子孫を残そうとビンビンだぜ!」
「看護師にでも頼んだらどうだ?」
「ん? ……なるほど、そういう手もあるな。日々の仕事に疲れているけど性欲は持て余しているナースに、俺の股間の特大注射を――」
 
 そのとき、脱力した様子の詩桜里が病室に入ってくる。彼女は片手にタブレット端末を持っていた。
 
「なんて会話してるのよ。外まで聞こえているんですけど!」
「ちょうどよかった。詩桜里、この男の主治医を呼んでくれ」
「呼んでどうするの?」
「去勢手術を頼めば、やってくれそうではないか? 言い出したわたしがいけないんだが、看護師たちの貞操が危ない」
「それは名案ね。いいわ。呼んでくる」
 
 退室しようとする詩桜里を、レイジが全力で止めた。
 
「ふざけんじゃねえ! 俺は盛りのついた猫か!?」
「猫に失礼だ。謝れ」
「同感ね」
「おまえら……ぐぁっ、また傷が!?」
「……ま、ここまで元気なら問題なさそうね」 
「そうだな。で、詩桜里はなんの用だ? お見舞いという雰囲気ではないみたいだが」
「あなたにいくつか報告があるの」
 
 詩桜里は真面目な雰囲気をまとった。仕事モードだ。
 
「ひとつ。本部からの情報なんだけど、Z・Eの本社から星蹟島に向けて、無数の機体が飛び立ったって通報があったの。あなたや惺くんが、黒月夜のアジトから凜くんを連れて脱出したのとほぼ同じ時間帯にね」
「SFGの増援か? ……しかしだとしたら、どうしてわたしたちはそれと接触してないんだ?」
 
 もし接触していたとしたら、無事では済まなかっただろう。
 
「これはまだ未確定の情報なんだけど……墜とされたみたい」
「SFGの機体が? いったいどうして」
 
 詩桜里は首を横に振った。
 
「わからないの。すべての機影が同時刻に、星蹟島から十数キロの距離で完全に消滅したらしいんだけど、詳しくは」

 そもそも、現時点で自分たちが無事なのもおかしな話だ。ゾディアーク・エネルギーが、星核炉に立ち入った部外者を放っておくはずがない。
 ところがそんなセイラの疑問を、詩桜里の次の台詞が氷解させた。

「それからこれがいちばん不思議なんだけど、Z・Eから日本政府に秘密裏に連絡が行ったみたい。『真城悠に関するあらゆる権利を放棄する』って。あと、星核炉に入り込んだあなたたちのこともね」
「ふん。あいつらにどんな権利が? どこまでも上から目線で腹が立つな……しかし、なんでまたそんな都合のいいことになるんだ?」
「そんなの、わたしだって知りたいわよ」
「……まあいい。それについてはいくら考えても仕方ないだろう。ほかにもなにかあるのか?」
「これを見て」
 
 タブレットをセイラに渡した。画面には、膨大な数値や記号の羅列。まったく意味を成さない大量の情報。
 それをしばらく眺めていた彼女は、やがて声をあげた。
 
「暗号のようだな。しかも、信じがたいほど強固な代物だ」
「やっぱり一発で見抜くのね。それ、うちの解析班が解読しようと試みたけど、まったく手に負えなかったの。ほら、堀江美代子のパソコンに暗号化されたファイルが残されていたでしょう? あれよりもはるかに難しいってさ」
「そんな代物どこで見つけた?」
「ICISのデータベースが外部からのハッキングを受けて、直接そのデータが送りつけられてきたの。あ、実は送られた情報はそれだけじゃなくてね。これを見て」
 
 詩桜里はセイラの手にあるタブレットを操作し、別のデータを表示させた。
 
「……これは」
「これもいちおう暗号化されてたけど、こっちはそんなに難解じゃなかったみたい。解析班の話では、誰か特定の人間の遺伝子情報だって」
 
 一瞬、セイラの動きが止まった。

「特定の人物。この状況で推測されるのは、ひとりしかいないな」
「ええ。おそらく真城悠さんの遺伝子情報じゃないかってわたしは考えている。いま同定を進めているところよ。……そしてそうなると、最初の暗号化されたデータの正体も見当がつくわよね」
「〈神の遺伝子〉」

 詩桜里は神妙にうなずいた。

「そっちのほうは解析お願いできるかしら。たぶん、あなたにしかできないだろうから」
「了解した。しかし、〈神の遺伝子〉と悠の遺伝子情報を手に入れられて、なおかつICISのデータベースにハッキングできる人物……ひとりしか心当たりがないのだが」
「ええ、聞いたわ。斑鳩聖――いえ、本名、煌武聖陽。凜くんの兄。彼で間違いないでしょうね」
「彼の消息は? そういえば、黒月夜のアジトにはいなかったように思える」
「不明。全力で捜査に当たっているけど、完全に手がかりなし」
 
 この期に及んであの男が〈神の遺伝子〉と悠の遺伝子情報を送ってきた理由など、本人に直接訊かないと知りようがないな、とセイラは思う。

「それと、海堂霞について追加の情報があるの。彼女の遺体は我々が回収して、念のため検視解剖したのは知ってるわよね?」
「ああ。それが?」
「彼女、末期の癌だったそうよ」
「な、なに?」
「最初は乳癌だったみたいだけど、死亡時点で全身に転移してたって。あの状態だと余命は1年もなかったはずだろうって、監察医が言ってたわ」

 少なくとも海堂霞と煌武聖陽は、〈神の遺伝子〉を用いてなんらかの実験をしようとしていたのは間違いない。セレスティアル号の事件に始まり、堀江美代子の不審死事件、そして今回の〈アクエリアス〉の暴走を含む一連の出来事――それらはすべて1本の線で繋がっている。
 〈神の遺伝子〉は、生物の遺伝子情報を根本から書き換える。それはつまり、やりようによっては癌のような難病すら「書き換える」可能性があるのでは――

「……セイラ?」
「ああ、すまない。なんでもない」

 海堂霞も含め、黒月夜のほぼ全員の死亡が確認された。唯一の生き残りであり、すべてを知っているであろう煌武聖陽は行方不明。つまり彼らの真の目的など、いまここでどれだけ考えても答えにはたどり着かないだろうと、セイラはあらためて悟る。
 世の中わからないことだらけだな、とセイラは小さくつぶやいた。
 
「そうそう、これも重要な話なんだけど」
「なんだ?」
「惺くんと悠さんに対する日本政府の処遇」
 
 セイラは表情を硬くした。ふたりとも事情はどうであれ、政府に追われていたことにほかならない。特に惺は逃亡する際、結果的に数々の違法行為をしてしまっていた。
 Z・Eが悠をあきらめたのは朗報だが、日本政府まで同じようにすると考えるのは楽観的すぎる。異種化という現象を研究するのに、悠が絶対必要な最重要人物なのはいまでも変わらないからだ。
 セイラの予想に反し、詩桜里がやわらかい笑顔を伴って説明する。
 
「日本政府は今後いっさい、惺くんと悠さんには手出しできない。ふたりが生涯を終えるそのときまで、その身の安全を保証する。ついでに、惺くんやあなたの数々の違法行為も不問に付されることになったわ」
 
 セイラも笑った。
 
「……そうか、取り引きか」
 
 斑鳩から送られてきたふたつのデータは、政府がのどから手が出るほど欲しがっていたものだ。片方はまだ解読してないとはいえ、それらは現在ICISの手中にあると断言していい。さらに建前上では中立を保っているICISも、実質的にはセイラたちの味方といえる。
 詩桜里は「はぁぁ」と、大きくため息をついた。
 
「苦労したんだからね。フォスター捜査官やわたしが裏の裏とかそのまた裏とかに手をまわして、やっと上を説得して……さらに政府まで納得させたのだから」
「いったい何人の政府関係者と寝たんだ?」
「どうしてそういうこと言うの!?」
「冗談だ。……感謝しているよ、詩桜里」
「ど……どういたしまして」
 
 真正面からセイラに感謝されることが慣れてないのか、詩桜里は照れた。
 ああ、そういえばと、セイラは部屋の住民を見る。 
 この部屋の住人――レイジは豪快に寝ていた。
 
「やれやれ。やけに静かだと思っていたらこのざまか」
「学生時代の態度が手に取るようにわかるわよね。要するにあれでしょ。興味のない授業は寝て過ごすタイプ」
「しかし、それでもテストは高得点を取れるタイプだな」
 
 忌々しい、と口にする詩桜里。
 
「……ふむ。寝ているあいだに去勢手術を」
「手配するわ。費用は経費で落としましょ」
 
 不穏な会話を感じとったのか、レイジは目を覚ました。
 
「あん? ……なんだ、難しい話は終わったか?」
 
 おもむろに椅子から立ち上がるセイラ。
 ――そして、レイジを抱き寄せた。
 
「おおぉぅっ!?」
 
 口を半開きにして驚くレイジ。詩桜里も同じような様子だった。
 
「おまえには本当に感謝している。あのときレイジがSFGを引きつけてくれてなかったら、きっと追いつかれていただろう。……おまえが無事で本当によかった」
 
 レイジを離したセイラが、今度は詩桜里を抱き寄せた。
 
「あらためて言う。詩桜里、ありがとう。いろいろあったが、最後はわたしの味方をしてくれたな。おまえは上司としても同居人としても、最高だ」
 
 涙を浮かべる詩桜里。
 
「ああ、言葉というものはもどかしいな……気持ちの半分も伝えられない」
 
 恍惚の表情で詩桜里を見つめるセイラ。


 ――そして、詩桜里の唇を奪った。

 
「んんっ!?」
 
 舌を入れられ、口の中を蹂躙される。
 
「んんっ~~~~!? あむぅっ、んぁ、んんっ、あんっ、んんんんっっっ――――ぷはぁっ!?」
 
 数十秒後、やっと解放された彼女の顔は、髪と同種の色で染められていた。
 
「それじゃあ、わたしはこれで」
 
 セイラは颯爽と退室していった。生気に満ちた肌をつやつやさせながら。 
 呆然としながら立ち尽くしていた詩桜里の視線が、病室の住人と交わった。なぜかとてつもない羞恥心に見舞われ、詩桜里はすぐに視線を外す。
 
「すげーもん見させてもらった。……照れてる詩桜里ちゃんも可愛いなぁ」
「う、うるさい!」
「なあ、頼みがあるんだが」
 
 どうせろくでもないことだと思いながら、詩桜里は胡乱げな眼差しを向ける。
 
「セイラのおっぱいの感触が気持ちよくて、ついでにいまのキスシーンがあまりにも強烈に色っぽくて、つい勃っちまった。慰めてくれないか? 口でいいぜ」
 
 想像以上にろくでもない頼みだった。
 
「し、詩桜里ちゃん? …………………………………………パイプ椅子なんか持ち上げてどうしたの?」

◇     ◇     ◇


「……ねえ、いま悲鳴聞こえなかった?」
「気のせいじゃないか」
 
 同じ病院の別の個室。凜がベッドにいて、傍らではパイプ椅子に座った惺が、手際よくリンゴの皮を剥いていた。お見舞いの品だというリンゴ。惺も入院していて、立場としては凜と同じだが細かいことは気にしないらしい。
 
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとう」
 
 リンゴはきれいなウサギを形作っていた。
 食べるのはもったいないな、などと少し思いながら、凜はリンゴを口にした。
 美味しい。久しぶりにちゃんと味のするものを食べた気がして、言葉にできない幸福感に包まれる。思わず涙腺が緩みそうになった。
 そんな気持ちを感じとったのか、惺が凜を静かに見つめる。きれいな翠碧色の瞳には優しさが宿っていた。
 妙に恥ずかしくなり、凜は話題を逸らした。

「ねえ……惺」
「ん?」
「あの世界……なに?」

 悠が囚われていたあの不思議な光の世界を指しているのだと、惺はすぐに悟る。

「俺にもわからない。少なくとも、この現実世界とは別の世界だというのは間違いないだろうけど」
「……そんなことってある? なんでそんなものが星核炉の中に…………いや、そもそも、星核炉ってなに? ただ、って言っちゃあれだけど、ただエネルギーを電力に変える施設だよね?」

 本質的な質問だった。しばらく言葉を探すような素振りをしてから、惺が口を開く。

「質問を返すようで悪いけど、凜は、星核炉がどうやってエネルギーを生み出しているのか聞いたことある?」
「……え? えっと、たしか……地球内部に由来する膨大な熱エネルギー……だっけ? それをなんらかの技術で取り出して、電力に変換してるって……」

 ゾディアーク・エネルギーの秘密主義により、星核炉の内部構造は完全にブラックボックスと化している。しかしそれでも、一般的にこうではないかと噂されている説明があった。それが凜の言ったことだ。
 地球内部は大きく分けて4つの階層に分けられる。表層面である「地殻」。その下は岩石から成る「マントル」。そのさらに下は中心部分に当たる液体の「外核」と固体の「内核」――このふたつは合わせて〈コア〉と呼称されている。そして地殻から中心に向かうにつれて、内部は高温・高圧・高密度になっていく。
 ゾディアーク・エネルギーはこの〈コア〉から、膨大な熱エネルギーを取り出す未知の技術を確立していると噂されていた。これなら「星核炉」という名称の由来も説明できる。しかしいったいどのような技術を用いているのか、世界中の名だたる科学者たちがどんなに頭をひねっても、いまだに解明できないらしい。

「それが全部嘘だったとしたら?」
「…………え?」

 凜はぽかんとした。

「星核炉が世間一般で噂されているような『科学的』な構造だったら、悠はなんで星核炉に取り込まれた? あの子がちらっと言ってたけど、星核炉は悠を求めていたらしい。でも、どうしてそんな『非科学的』なことが起こるんだ? あの不思議な世界のこともそうだ。――星核炉の正体は、きっとその謎の先にある」
「――惺は」
「ん?」
「惺は……もしかしてセイラも、星核炉の正体に心当たりがあるの?」

 惺は小さくうなずいた。彼にしては深刻で、神妙な表情をしながら。

「推測が正しければだけど……俺は以前、星核炉の正体を目の当たりにしたことがあるかもしれない。まったく別の、星核炉とは関係のない場所でね」
「えっ!?」
「でもまあ、その話は長くなるからまた今度な。退院してからにでもゆっくり話そう」
「……う、うん」
「それより、凜。さっきから気になっていたんだけど――」

 惺は凜の胸もとを指さした。
 
「わわっ!?」
 
 入院着がはだけて「下着」が少し見えていた。凜は慌ててそれを直す。
 
「いまさらなにを恥ずかしがっているんだ?」
「だ、だって……」

 凜はこれまで「男」として惺に接していた。だから、この期に及んでどう接していいのか、よくわからなくなっている。

「言っただろう。俺は最初から知っていたって。男と女では、根本的に気配の質が違うんだよ」
「それ……〈ワールド・リアライズ〉ってやつ?」  
「そういうこと。ちなみに、セイラは転校してきてから1週間くらいして気づいたみたいだ。『このわたしを1週間も欺くとは、凜もなかなかにやりおる』とか言ってたっけな」
「うぅ……」
「みんなにも説明しないとな。もっとも豊崎は当然最初から知っていたし、ほかのみんなも、途中から気づいていたみたいだけど」
「そ、そうなの? でも……光太のやつは知らないまま……っ」
 
 先日、あらためて光太の死を伝えられた凜は、ひと晩泣き明かしていた。
 
「川嶋も知ってたよ」
「ええっ!?」
「去年の秋くらいだったかな、『俺、最近凜のことが女の子に見えてしょうがないんだけどっ』って打ち明けられた。凜には悪いと思ったけど、説明したよ。さすがにびっくりしてたけど、最後は受け入れてたな」
「そ、そんな……あいつ、そんな素振りなんか……っ!」

 ついに涙腺が崩壊した。

「……うぁっ……ひっく……光太ぁっ……ごめんよぉ……っ」
「川嶋は最後まで優しかった。退院したら、みんなで弔おう」
「うん……っ……ぐずっ」
「はは。凜は思っていたよりずっと泣き虫だったな」
 
 ちょうどそのとき、入院着を颯爽と着こなしたセイラが現れる。
 
「どうした凜。惺に泣かされたのか?」
「違う……ぐすっ……セイラぁ……」
 
 やれやれと笑いながら、セイラが凜を抱きしめる。ふくよかな胸を借りて、凜は少女のように泣いた。
 それからセイラは、先ほど詩桜里に聞かされたいくつかの事実を語った。霞が末期の癌だったことに、凜は心底驚く。しかし最後に悠はもう自由だと言うと、凜はさらに嗚咽した。
 
「――凜。今回の件で、おまえが罪に問われることはないだろう。一瞬でも犯罪組織に身を置いていた事実はあるが、明確な犯罪行為に荷担したとするには物証が乏しい。黒月夜も壊滅したことだしな」
「…………」
「しかし、数年前の出来事は別だ。黒月夜に在籍していて、暗殺に手を染めていたという話はわたしも聞いた。こちらもすでに物証はないだろうし、年齢的な観点から処罰されることはないと思うが、事が事だ。状況が落ち着いたら、ICISから徹底的に事情聴取されるのは仕方がない」
「うん……わかってるよ」
 
 凜の覚悟はもう決まっていた。自分が暗殺者だった事実もすでに受け入れている。
 凜の瞳に覚悟が宿っているのを見て、セイラは微笑んだ。
 
「この際だ。わたしの秘密も凜に暴露しよう」
「秘密……? セイラがICISの捜査官っていうのはもう聞いたけど……その、過去に暗殺者だったことも」
「実はそれだけではないんだ。いまさら言うのは少々恥ずかしいんだがな。わたしの年齢の話だ」
「年齢?」
「実はわたしは、今年で21歳になる」
 
 ここまできょとんとする凜を、セイラと惺ははじめて見た。
 
「――――。……え…………でえええええええっ!?」
「驚きすぎだ」
「だ、だだだだってっ……え、ほんと!?」
 
 凜は惺を見た。
 
「ほんとだよ。去年、20歳になるはずのセイラが制服姿で編入してきたのは、なんの冗談かと思ったくらいだ」
「おい惺。その含みのある言い方はなんだ」
「別に。任務という大義名分のもとに、いい歳して女子高生のコスプレができるなんていいご身分だ、とか思ってないから」
「さすがのわたしでも怒るぞ」
 
 言い争いを始めるふたり。
 懐かしいやりとりに、凜の心がきゅうっと締めつけられる。
 日常がこんなに尊いものだと、凜はこの瞬間まで知らなかった。どうして人は、痛い目を見ないと大事なことに気づけないのだろう。
 
「凜……?」
 
 不意にセイラの眼差しを正面から受けて、凜の心臓は鼓動を速めた。
 
「な、なに?」
「いや、急に色っぽくなった気がして……胸もそこまで大きかったか?」
 
 凜の胸は、もうコルセットでは隠しきれないほど膨らんでいる。そのせいか生まれてはじめて、ブラジャーというものを着用していた。
 
「そ、それが、ここに来てから急に成長したような」
「急激なホルモンバランスの変化……? ふむ。人体は不思議だな」
「ど、どうしよう」
「どうもこうも、それが自然なんだ。このままずっと男だと言い張るのも悪いことではないと思う。しかし凜は、もう自分が女だと認めたんだろう?」
「う……うん」
「だから体も正直になったんだろう。……最初は戸惑うかもしれない。だが、おまえのまわりはお人好しばかりだからな。きっと見守ってくれるさ」
「セイラぁ……っ」
 
 セイラにすがりついて泣き続ける凜。
 
「やれやれ。凜は思った以上に泣き虫だったんだな」
「それ、もう俺が言ったから」
 
 惺とセイラが苦笑しているところで、ぱたぱたと足音が聞こえてくる。
 
「お兄ちゃん、あのね――って、あれ、惺さんとセイラ先輩? え……お兄ちゃん泣いてるの? ど、どうしたの!?」
 
 私服姿の奈々だった。
 
「奈々、またお兄ちゃんって呼んでるぞ」
「はぅあ!? そうだった! えっと……凜ちゃん」
 
 頬を染めながら言う奈々を見て、凜はさらに泣いた。体中の水分がすべて涙になっているのではないかと思えるほど激しく。
 星核炉から帰還後、病院に運び込まれてからしばらく凜は眠り続けた。極度の精神的・肉体的疲労が一気に押し寄せた結果だ。
 そして凜が目を覚ますと、病室には星峰の家族がいた。奈々、小夜子、智美と遼太郎。
 智美が真っ先に、凜の頬を引っぱたいた。だが次の瞬間には、智美は泣きながら凜を抱きしめる。「もうあなたは、大事な家族なんだから!」と言いながら。
 このときも凜は大きく泣いた。
 そして凜はそのとき、もう男として生活するのをやめると明言。すると「それなら、もうお兄ちゃんって呼ぶのはおかしいよね」と、奈々が気づく。立場的に凜は奈々の姉になるが、「お姉ちゃん」と呼ぶと、同じように呼んでいる小夜子と区別がつかない。だから奈々は、「凜ちゃん」と呼ぶことに決めた。
 凜はあらためて家族に受け入れられる。このときはじめて、本当の「家族」と出会った感覚に包まれた。
 
「奈々ぁ……っ……いままでごめんっ……気を……変な気を遣わせちゃって……うぁっ、ひっく」
「もういいってば……人のこと散々泣き虫だって言ってたけど、本当は凜ちゃんのほうが泣き虫だよね」
 
 短時間に同じような台詞を3回も聞いた惺が苦笑する。セイラと奈々も笑った。
 
「奈々ちゃん、凜になにか話があるんじゃ?」
「あ、そうだった! あのね、悠ちゃんが目覚めたって!」

◇     ◇     ◇


 窓から入り込んでくる爽やかな風を感じて、悠は大きく息を吸った。
 ベッドの上で上体を起こす。まだあまり動かないほうがいいと医師から言われていたが、全身で風を感じたかった。
 まさか、自分が再びこのような自然の風を感じられるとは思ってもなかった。
 一度は死を覚悟した。自分を犠牲にして、異種化の沈静化を――星核炉の暴走を止めようと決意した。
 星核炉の内部にもともと存在して「なにか」が、自分を求めているのだとぼんやりと感じていた。長いあいだひとりぼっちだった「子ども」が、「母親」を見つけたような不思議な寂寥感と安心感を、あの不可思議な光の世界でずっと感じていた気がする。
 もちろんその理由や原因など、どれだけ考えてもわからないだろう。
 
「……わたし……は」
 
 凜に言われる前から、自分は死を覚悟していた。寿命を告げられたのは何年も前で、現実は厳しく、最後は受け入れるしかなかった。星核炉の件についてはさすがに予想外だったが、それでも悠は受け入れた。
 完全に納得したと思っていた。自分はもう、死に向かって歩いているのだと。
 涙がこぼれそうになったところで、ノックの音が聞こえる。
 
「どうぞ」
 
 病室の扉が開き、入ってくる3人を見て悠は思わず笑ってしまった。
 
「な、なにその格好……みんな似合ってないよ……ふふ、あははは」
 
 悠の笑い声が、春の気配を感じさせる暖かい風と混じる。
 3人は驚愕と感動に震えた。
 もしかしたら、もう見られないと思っていた悠の笑顔。
 それが目の前にある事実。
 よろよろと歩く凜。
 悠はベッドの縁に座り直した。
 
「悠……悠……っ」
「凜くん、すごい顔してるよ。……泣いてたの?」
 
 凜は悠の胸に飛び込んだ。
 
「わたし、謝らなくちゃ……ずっと謝りたかった……悠に……わたし、わたしは!」
「わ、わたし? ……あれ、凜くん……その胸」
 
 悠はすぐに事情を察した。
 
「そっか……そうなんだ。凜くん……あ、そうか。もう凜くんって呼ぶのはおかしいかな」
「わたしのこと、呼んでくれるの? だって、わたし……悠のこと……あんなひどいこと言ったのに!?」
「もういいよ。こうして無事だったんだし」
「よくない! だって、悠の尊厳とか全部、わたしは否定した!」
「そうかもしれないね……でも」
「どうやったら償えるの? わたし、どうしたらいいの? ……わたしの一生を捧げたら、悠は許して……違う! そうじゃなくて……悠……っ」
「やだ」
 
 悠は笑ってそう言った。彼女にしてはめずらしく、いたずら心が表面に出ている。
 
「――――え」
「凜くんは頭いいんだから、自分で考えなさい」
「――っ」
「それに、凜くんの一生が償いなんかで犠牲になるなんて、それこそわたしが許さないから」
「でもっ、でもぉっ!?」
「……じゃあ、ひとつだけお願いを聞いて」
「聞く! なんでも聞くから!」

「一緒に、生きよう。この世界で――」

 凜は震えた。心の底から。

「ゆ――悠?」
「凜くんは自分のことを、全部ひっくるめて認められた?」
「そ、それは」
「時間はかかるかもしれない。ちゃんと全部を受け止めて、心の底から自分が自分だと認められるのは……もしかしたら、わたしが生きているうちには無理かもしれないけど」
「――――っ」
「でもね、それができたら、本当に美しいことだと思うの」
 
 優しく紡がれる言葉に、凜の心が包まれていく。
 
「それに凜くんはもうひとりじゃない。惺もセイラも、きっと手助けしてくれる。――ほら、みんなも」
 
 悠にうながされて凜が振り返った先。
 扉のところで勢揃いしていた、見知った顔たち。
 堰を切ったように泣いている星峰奈々。 
 すました顔をしているが、歓喜を隠せない様子の綾瀬美緒。
 涙を浮かべながらも、静かに微笑んでいる小日向椿姫。
 落ち着いてはいるが、あふれんばかりの激情で頬を濡らしている柊紗夜華。
 紗綾をその腕に抱きながら、優しい眼差しを凜に向けている豊崎真奈海。
 詩桜里もいる。智美たち星峰家の面々も顔を出していた。
 
「……きっと川嶋くんも、天国で見守ってくれてるよ」
 
 凜の慟哭を、悠の優しい眼差しが包む。
 
「凜はひとりでなんでも抱えすぎなんだよ。なんのために家族や友達がいると思っているんだ?」
 
 と、惺。
 
「惺がそれを言うのか、という疑問はあるし、いささか使い古された言いまわしだが――」
 
 セイラが続けた。
 
「星峰凜。きみはもう許されたと思う。海堂霞も似たようなことを言っていただろう。自分を信じて、友人も信じる。おまえには家族もいる。――いまこそ翼を広げるときだ」

 凜の涙は止まらない。

「ねえ凜くん。――ううん、違う――凜、って呼んでいい? ――ありがとう。わたしに残された時間は残り少ないけど……でも、それでも一緒に、わたしはあなたと、この世界で生きていきたい!」
 
 笑顔の花が咲いた。
 
「これからもよろしくね、凜!」















 この世界に生きている。

 優しくない世界。

 醜い世界。

 それでも、やっぱり美しいと思う。

 そして「わたし」は、これからもそんな世界で生き続ける。

 失敗しながらでもいい。

 ありのままのわたしで生き続けようと、生まれてはじめて思った。






 ああ――

 わたしは、やっと。






 わたしはやっと、「人間」になれた気がした――







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