4-3

 現在、アーク・レビンソンはドックで整備中。それが終わり次第、フォンエルディアの空へと旅立つ予定だ。
 クリスがやって来た初日の夜は、たいそうな食事でもてなされた。様々な料理のすべてを作ったのがアルマだと知り、料理が苦手なクリスは唖然とする。
 
「紅茶淹れたよー」
 
 夕食後のまったりとした時間。ティーセットを持ったアルマがやってくる。カップに紅茶を注ぎ、それぞれに配った。
 
「めずらしい香りだね。こんなのあったかい?」
 
 カップに鼻を近づけながらアマンダが言う。ギリアムも香りを嗅いで「ほほう」と感心した。
 
「クリスさんからもらったの!」
「リーゼラムっていうんです。まだ市場には本格的に流通してない、新しい品種だそうですよ」

 クリスの母は無類の紅茶好きである。その母から、お近づきの印としてレビンソン家に渡すよう言われていた。
 砂糖をくれと言ってきたギリアムに、アルマがシュガーポットを差し出す。彼は甘党なのか、砂糖を大盛りで2杯入れる。
 
「惺くんもお砂糖いる?」
 
 惺は小さくうなずいた。アルマが動く前にシュガーポットを自分で取り、砂糖を2杯、紅茶に入れる。それを見ていたアマンダが、不思議そうな表情でクリスに囁く。
 
「この子、目が不自由なんだよな?」
「そのはずですが……」
 
 ここに来てからなんとなく観察しているが、惺の動きに視覚障碍者特有の行動は見られない。段差や障害物も認識しているようで、危なっかしいところはなかった。むしろ歩き方は訓練された役者のように美しく、クリスは感心したほどだ。
 
「まあいい。よくわからないが、とりあえず様子見だな」
 
 アマンダの楽観的なところはクリスにとって好ましかった。レイリアもそうだったが、通常なら気味悪がってもおかしくないのに気にしない。ギリアムやアルマにも似た気質があり、底抜けに明るいのはレビンソン一家の特性のようだ。
 ――と。
 紅茶をひと口飲んだギリアムが、盛大に吹き出した。
 
「アルマ! これ塩だ!」
 
 アルマは「ふえぇぇっ」と慌てながら、シュガーポットの中身をぺろっと舐めた。
 
「ほんとだぁっ!? ごめんなさい間違えたぁっ!」
 
 あれ、と思ってクリスは惺を見る。彼も同じシュガーポットの中身を紅茶に入れていた。だが彼は、何事もなく紅茶をすすっている。
 
「惺っ!? ちょっと待ってストップ!」
 
 それでようやく止まる惺。無表情だが、ぽかんとしているようにも見える。
 
「惺……あなた、なんともないの?」
 
 こくり。
 惺からカップを受け取り、ひと口すすってみる。
 
「しょっぱっ!? あなた、なんでこれを飲めるの?」
 
 やはり無言。やや首をかしげているようにも見えるが、無表情のため感情を読めない。
 またアマンダが囁いてきた。
 
「味がわからなかったとか?」
「……それは」
 
 しゃべれなくて目が不自由。さらに味がわからない。しかし補助なしで行動でき、絵を描いていて、ヴァイオリンも弾ける――そんな不可解な現象が、現実にありえるだろうか。
 とにかく、蒼一に会ったら聞かないといけないことが増えたわね、とクリスは思う。

◇     ◇     ◇

 
 レビンソン家の2階にある客室。向かいのベッドの上に座ってじっとしている惺を、クリスはじっと見つめていた。
 この子はいったい、何者だろう――あらためて思う。蒼一をそのまま幼くしたような容姿は、間違いなく血縁関係を肯定している。この子がどういう環境で生き抜いてきたのかも直接見ており、それなりには知っているつもりだ。
 しかしそれでもいまいちつかめない。おぼろげで独特の存在感を放ち、姿形はあるのに、まるで魂の本体が肉体に存在していないような奇妙な感覚を受ける。
 触れれば消えてしまいそうな存在――ふと日本語に「儚い」という言葉があったわねと思い出す。まさに惺を表す言葉だろう。
 あのヴァイオリンの音色も現実離れしていた。世界中すべてのヴァイオリニストが目標とする「音」をスタートラインにして、さらなる高みへ到達しようとしているような。悠の至高のピアノと合わせたらどんなことになるのか、想像するだけで気を失いそうだ。
 そういえば――と。
 クリスは壁際のソファの上に置かれていた、惺のリュックを見た。相変わらずスケッチブックがはみ出ている。
 
「ねえ惺、スケッチブック見せてもらっていい?」
 
 こくり。
 ソファに移動し、スケッチブックを手に取った。
  
「――っ!?」
 
 モノクロの絵が、クリスの目に飛び込んできた。
 惺がヴァイオリンを弾いていた、あの崖からの眺望を描いたものだとわかる。驚くほど精緻な線で描かれ、一瞬、陰影の強いモノクロ写真ではないかと疑うほど。ところがすぐにそうではないと気づく。
 まるでネガフィルムのように「反転」した色合い。岩肌も地面や森林も、空も光も影もすべて、鉛筆の黒一色で塗られている。線の強弱のみですべてを表現する技術は圧倒的だが、根本的なおかしさをはらんでいた。
 惺に断りを入れて、リュックの中を見せてもらう。
 最低限の着替えのほかに、絵の具や筆、パレットなどひととおりの画材がそろっていた。だが絵の具は新品で、筆もパレットも一度も使われた形跡がない。
 スケッチブックをめくり、前のページを見てみる。そこにはどこかの空港のロビーと思われる風景が描かれていた。ロビーを行き交う人影が無数に描かれているが、やはり全体的に黒く塗られている。景色はわりと細かいのに、人物だけはぼんやりしていた。
 さらに何枚か前のページ。見覚えのある邸宅が描かれている。クリスの実家だ。ただしこの絵は先の2枚の絵に比べて線が曖昧だった。
 さらに何枚か前のページ。数秒ほど眺めて、中央に鎮座する黒い物体がピアノだと気づく。それを弾く人物のような姿も見られるが、まるで心霊写真のように存在が曖昧だ。

 ――これってもしかして……悠?

 なんとなくそう思うが、惺には尋ねない。奇妙な焦燥感にかられながら、クリスはさらにページをめくっていく。
 どんどん曖昧で抽象的になっていく絵。それが壊れた映写機のように再生された。
 最後のページ――というより、最初のページ。そこに描かれていたのは、もはやモチーフがなんなのかわからない抽象的な線の連なりだった。
 
「惺……これは――」
 
 クリスの瞳が不安で揺れていても、惺は揺るがない。何事もないように平然としてそこに存在していた。
 
「――あなたには、この世界がどう『見え』てるの?」

 もちろん惺は答えない。
 そのとき部屋に入ってきたアルマが、元気よく告げてくる。
 
「クリスさん、お風呂沸いたよ!」
「――――」
「……クリスさん、どうしたの?」
「あ……ごめん、なんでもないのよ。お風呂?」
「うん! みんなで一緒に入ろ!」

 クリスはきょとんとした。
 
「み、みんなって……えっと、わたしとアルマと惺?」 
「うん! 大丈夫だよ、うちのお風呂広いの! ……クリスさん?」
「いえ、その……」

 クリスはちらっと惺を見る。まだ子どもとはいえ、惺――異性と入浴するのにやや抵抗があった。基本的に、クリスは男に免疫がない。
 しかしよく考えたら、惺をひとりで入浴させるわけにはいかないだろう。日本とフォンエルディアは入浴方法が違う。惺ならひとりでもなんとかなりそうだが、さすがに少なくとも初回は誰かが付き添うべきだと思う。ちなみに「ギリアムに頼めばいいじゃん」などという発想は、なぜか思いつかなかった。
 クリスはアルマをちらっと見る。アルマは惺と同じ11歳。そろそろ異性を意識する頃だと思うが、アルマは気にしないようだ。

 ――ま、まあ、大丈夫……かな?

 そういえば自分が11歳の頃はどうだっただろうと考えて、記憶をたどる。
 
「――――っ!」
 
 誘拐され監禁された記憶があまりにも強く、そのあたりの記憶がすっぽりと抜けていて愕然とした。
 
「クリスさん、変な顔してるよ?」
「な、なんでもない。大丈夫、うん。みんなで入りましょう」
「わーい!」
 
 惺がクリスとアルマを、無感情な眼差しで交互に見ていた。

◇     ◇     ◇

 
 
 さっそく着替えの準備をして、1階のバスルームへ。
 バスルームに入るなり、躊躇なく服を脱ぐアルマ。惺もおもむろに服を脱ぎ出す。クリスも覚悟を決めて続いた。

 ――心配しすぎだったかな。

 この中でもっとも異性を「意識」しているのは、明らかに自分だ。ふと、脳内で「これだから男性経験がない処女は。かっわいい~♪」と、亡き親友の声で再生される。
 
「クリスさん、今度は怖い顔してるよ?」
「なんでもないのよなんでもないから気にしないで大丈夫だからっ」

 もう一度覚悟を決めて、クリスも服を脱ぎ始める。

「――あっ!」
 
 クリスがちょうど下着を脱いだとき、アルマが声をあげた。
 
「クリスさん、おっぱい大きい!」
「っ!」
「んふふ~、わたし知ってるよ! 着痩せするってやつ!」
 
 自分が着痩せするタイプだとは知っていた。というより、以前レイリアにも同じことを言われたことがある。
 惺の視線が一点を見つめている。クリスの胸に無感情の眼差しを向けている。思わず腕で隠す。惺はすでに全裸で、前を隠そうともしてない。目の行き場に困った。
 
「惺くんも、大きいおっぱい好き? 男の子だなぁ。うふふ」
「と、とにかく入りましょう」
 
 石造りの瀟洒なバスタブは大きく、3人で入ってもまだ余裕があった。
 ミルク色の湯の中で、クリスは足を伸ばす。風呂の中で、こんなにまったりとした気持ちになるのは久しぶりな気がした。

「この入浴剤、変わった香りだね」  
「うん! お肌すべすべになるんだよ」
「へえ……」
 
 アルマの年齢なら、まだなにもしなくてもすべすべだろう。羨ましい限り――と思ったところで、わたしだってまだまだ肌の潤いも張りも失ってない、と強く思い直す。
 
「クリスさん、今度はおもしろい顔してる!」
「…………」
 
 昔から自分はポーカーフェイスだと思っているのに、どうしてアルマはこうも的確に読んでくるんだろう。もしかしてわたしって――などと思っているうちに、アルマの視線は隣へ向いていた。
 
「惺くんも肌きれいだなぁ」
「……そうね」
 
 惺はバスタブの隅にちょこんと座っている。無表情ではあるが、心なしか「ほっ」としているようにも見える。
 たしかに惺の体はきれいだった。その瞳を体現するかのように透き通った肌。小柄で華奢ではあるが、余分な肉は一切なく、全体的に引き締まっている。
 クリスはあらためて惺を見る。端正な顔は小さく、手足の長さも絶妙。アマンダが言っていたとおり、あと数年もすれば、父親と同じようにさぞ見栄えのする青年へと成長するだろう。
 
「惺くん、そんな端っこにいないで、こっちにおいでよ」
 
 アルマに手を引っ張られ、惺の体がよろける。その体をクリスが受け止めた。華奢な体がクリスの腕の中に収まり、本当に男の子の肌かと疑問を抱くような、なめらかな感触を覚える。
 
「わぁっ!? ごめんなさい!」
「大丈夫よ。…………惺?」
 
 惺の眼差しは、目の前のふたつのふくらみに吸い込まれていた。
 そのとき、惺の抜けるように透明な光彩が、なぜか怪しく光ったように見えた。
 ――唐突に。

 惺の手が、クリスの胸を「もにゅっ」とつかんだ。

 
「――――っっっっ!?」
 
 ふたつの手で、ふたつのふくらみを揉まれる。惺はまるでそれが大事な使命だというように、一心不乱に揉みしだく。
 容赦はない。しかし激しい動きの中にもなぜか優しさがあり、その動きは巧み。クリスは腰が抜けそうになる。
 
「わっ……わぁっ……!」
 
 アルマは真っ赤にした顔を、両手で覆って隠していた。もちろん、指の隙間からしっかりと見ている。
 
「ま、待ってっ! ――あき――あんっ――こらっ――ぁんっ!?」
 
 やがて、惺の指先が先端の「突起」をとらえようとした瞬間。シディアスの騎士としてこれまで培ってきたすべての身体能力を駆使して、クリスは惺から逃れた。
 バスタブから転がるように抜け出し、すぐ隣のシャワールームまで避難。バスタブに背を向け、膝を抱えてがくがく震える。
 
「はぁ――はぁ――!?」
 
 体の芯が焼けるように熱い。数秒前まで入っていた湯よりも、はるかに高温に感じる。ここまで高鳴る心臓の鼓動を感じたのは久しぶりだった。

 ――揉まれた。
 ――異性に。
 ――胸を。
 
「あれ……惺くん?」
 
 アルマの声が一瞬聞こえてくるが、クリスの脳内ですぐに遠ざかっていく。

 ――まだ誰にも触られたことがないのにっ。

 いや、もちろん自分で触ったことはあるにはあるが、それとは比べものにならない未知の感覚。
 
「え、ぁ、惺くん……んぁっ、わたしのおっぱいも触りたいの? まだそんなに大きくないよ?」
 
 ――嫁入り前なのに。……もしかしてわたし、もうお嫁にいけない?
 
「んんっ……はぁ……あれぇ、なんか変なっ、気分……惺くぅんっ、んぁっ!」
 
 ――これはもう責任をとってもらうしかないのではいやでも惺はまだ11歳ですぐ結婚できるわけではあれでも日本とフォンエルディアでは男女の結婚できる年齢が違ったようなこれって既成事実でも結婚前にこんなふしだらなことでもまあ三十路前に結婚できるなら母さんも喜ぶかな父さんはどう思うだろ――
 
 ――って、結婚ってなにっ!?
 
 体中に沸騰した血液が循環していくのと同時にクリスの思考も加速し、変な方向へ進んでいく。思考回路のネジも数十本は抜けていた。
 しかし突然クリスの意識が現実に帰還。恐る恐る振り向いた。

「…………………………え?」
「んんんぁっ……はぁ……おなか、ジンジンするよぉっ……あぁんっ! すごいよぉっっっ!」
 
 バスルームに響きわたる幼い嬌声。
 あまりにも重大な事案が発生していた。
 
「惺ぁぁぁああっ!? ちょっと待ってストォォォォップ!?」
 
 熱を帯びていた体が、一瞬で冷めた。

◇     ◇     ◇

 
「いい? 女の子の体に触るのはまだ早い! もうあんなことしちゃだめ絶対! 絶対の絶対にだめっ!」
 
 ベッドの上で正座する少年に対し、仁王立ちしたクリスは鋭い口調で言い放った。
『ごめんなさい』と書かれたメモ帳を掲げながら、頭を下げている惺。彼の顔には相変わらず表情が浮かんでない。だが心なしか、気のせいかもしれないが、しょんぼりしているような気配が伝わってきた。
 なんであんなことしたの? と尋ねても、惺は不思議そうに首を傾げるばかりだった。
 クリスは、自分の後ろに立つもうひとりの被害者に目を向ける。
 アルマがクリスの陰に隠れるようにして立っていた。頬を赤らめ、期待なのか好奇心なのかわからない、あるいはその両方を含んだ熱い眼差しを、ちらちらと惺に投げている。姉や母と同じハシバミ色をした瞳に、ハートマークを浮かべながら。
 もしかして自分の判断ミスで、目覚めさせてはいけないものを目覚めさせてしまったのではないか。
 
「ねえアルマ、聞いて」
「…………」
「今日のことは、アルマのためにも惺のためにも忘れたほうがいいと思うの…………ねえ、聞いてる?」
「……ふぁい」

 恍惚した表情でそれだけつぶやくが、意識のすべてが惺に向いているようだ。
 クリスはしばらく途方に暮れた。


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