翌日の朝、アーク・レビンソンの貨物室に一同が集まっていた。
 一同の前には石棺が置かれている。古ぼけた灰色の棺。装飾や文字はなにも刻まれてなく、無機質な印象を与えてくる。例の木箱を暴き、中から出てきたものだ。木箱を引き渡す予定の人物たちはすでに死亡したと考えられるため、ギリアムもついに荷物を曝くのを認めた。
 石棺を見ながら蒼一がうなる。

「アンセム・カインヴァーンが言っていたことは本当だったようだな。どこでこんな代物を手に入れたのか知らないが」

 蒼一の言いたいことを理解したのはクリスだけだった。
 
「じゃあ、これが?」
「そう。星櫃だよ」
「ということは、墜落した飛行空艇の乗組員は――」
「ああ。間違いなくステラ・レーギアの残党か、それの関係者だろう」

 レビンソン家の面々が、一様に渋い顔をする。
 ステラ・レーギアは壊滅したと報道されているが、実は正しくない。幹部の数名が逃亡し、いまもどこかに身を隠して再興を企てているという情報があった。

「逃げてる幹部にアンセムのようなカリスマ性はない。だからどんどん人が離れているという噂だよ。だからアンセムが秘密裏のルートで持ち出し、そのまま行方不明になっていたこれを、のどから手が出るほど欲しかったんだろうな」
「星櫃って、神話に出てくるあの星櫃ですよね?」

 以前、日本で悠に聞かせたおとぎ話を思い出す。あのおとぎ話は、フォンエルディアで育った人間なら誰でも知っている神話を下地にしている。星が誕生してから人類が繁栄するまでを描いた創世神話で、その中で星櫃は重要な役目を果たしていた。
 遠い過去の記憶をたぐるようにしながら、ギリアムが言う。

「あれか。『すべての願いを叶える希望の箱』……だったか? 女神様だか星女様だか忘れたが、その人が悪しき存在を討ち滅ぼす力が欲しいと星櫃に願って、人類に星術が備わった……とかなんとか」

 それを受けたのはアマンダだった。

「あたしの生まれ故郷では、『この世すべての災厄を封じ込めた絶望の箱』って言い伝えられていたよ。子どもの頃『悪いことしたら星櫃に呪われるんだからね』って、死んだばあさんによく脅された」

 真逆の表現に「どういうことだ」と顔を見合わせる夫婦。そこに蒼一が説明する。
 
「ふたりの言ってることはどちらも正しいよ。実際、原典となった書物には、どちらとも受け取れる記述があるんだ。地域によって言い伝えに差があるのは仕方ないな……クリス、こっちへ」

 クリスと蒼一は少し離れた場所まで移動する。
 
「それで蒼一は、これが本物だと言うんですか? 神話に登場するようなアイテムですよ」
「わざわざアヌビスが、偽物を探しまわってるとは思えない」
「……本物だとして、これにはどんな効果があって、アヌビスはそれを手に入れてなにをしようとしているの?」
「それがわかれば苦労はしない。が、ろくでもないことに使おうとしているのはたしかだろうな」

 困ったものだよ、と言いたげに肩をすくめる。

「これをこのまま、ここに置いておくわけには――」
「もちろん。実は昨夜のうちにユーベルに連絡して、シディアスにこれを引き取ってもらうことにしたんだ。ギリアムとアマンダの了承もすでに得ているよ。今日の午後にはシディアスの飛行空艇に引き渡せるはずだ」
 
 クリスが胸をなで下ろしたそのとき、貨物室に惺がふらりとやってきた。彼は昨夜の一件以来、ずっと眠ったままのシルバーワン――セイラのそばから離れようとしなかった。

「どうしたの? セイラは?」

 クリスの質問になにも反応することなく、惺は星櫃のもとへふらふらと歩いて行く。目に見えないなにかに操られているかのように、ぼんやりとした動きで。
 そして星櫃に触れる。
 次の瞬間、惺は倒れた。

◇     ◇     ◇


 午後。星櫃をシディアスの飛行空艇に引き渡したあと、アーク・レビンソンは空へと舞い上がっていた。機体の調整と物資の補充のため、レザフォリアの〈アーク・レビンソン〉本社に向かっている。  
 茜色の陽光が照らす室内のふたつのベッドには、それぞれ惺とセイラが眠っていた。クリスと蒼一は壁に備えつけられたテーブルの前に座り、ふたりを見守るように眺めている。テーブルに置かれたリーゼラムは冷めかけていた。

「別に熱があるわけでもないのに、惺はどうしたの?」
「星櫃に触れた瞬間だったな。……この子の『能力』と関係があるのかもしれない」
「能力?」
「さすがに、惺に不思議な能力が備わっていることは気づいたんじゃないか」
「……はい。しゃべれなくて、目が見えなくて、たぶん味覚もない。そんな状況なのに、ちゃんとコミュニケーションがとれる」
「惜しいな」
「はい?」
「口が利けない、それから視覚と味覚がないだけではないんだ」
「えっと……どういうことですか?」

 
「惺には五感すべてが存在してない」


 時間が止まったような錯覚に見舞われる。
 
「…………え、ちょ、ちょっと待ってください。つまり、聴覚と嗅覚と触覚もないってこと?」
「そのとおりだ」
「で、でも、話しかけてもちゃんと反応しますよ? 筆談もできるし、ヴァイオリンも弾けるし絵も描ける。五感すべてが存在しないのなら、そんなこと不可能じゃ?」
 
 リーゼラムをひと口飲んでから、蒼一が語る。
 
「当然ながら、人間は五感を用いて世界を知覚してる。五感を通じて外の情報を脳に取り込み、自分を取り巻く世界を、『世界』として認識しているんだ。人間以外の動物も、似たようなものだ。ここまではわかるな?」
「は、はい」
「だが惺は、それとは五感とは別の特殊能力――限りなく研ぎ澄まされた第六感的なもので世界を認識しているようなんだ」
「第六感……?」
「わたしは超感覚的知覚――〈ワールド・リアライズ〉と呼んでいる」

 はじめて聞く単語に、クリスは首を傾げる。
 
「それは……星術とは違うんですか? しかも『認識しているようなんだ』って」
「星術とはまったく別の概念だよ。正直なところ、惺がどういう質感を伴って世界を認識しているのか、わたしたちには完璧には理解できないだろう」

 蒼一は手もとのカップに視線を移す。

「たとえば惺は、リーゼラムとダージリンの区別を『見て』、あるいは『飲んで』、『嗅いで』判断することはできない。でも本質的なところで、ふたつが違う種類であることを『識る』ことができる。ただし、別々のものだと認識はしているだろうが、具体的にどう違うのかはわかってないはずだ」
「…………?」
「味覚も嗅覚もないからな。たとえば砂糖と塩もそうだ。別々のものだと認識していても、『甘い』と『しょっぱい』の区別ができない」

 以前、惺が塩の入ったリーゼラムを飲んでいたのを思い出す。

「まあ、言葉で説明するのは難しい概念だな。シディアスの騎士だったクリスは、一般人より認識能力が高いだろう。とりあえず、それの延長線上にある能力だと考えて差し支えない」
 
 クリスは惺を見つめた。もともと不思議だと感じていた少年が、さらに謎を増していく。

「いまはこうして出歩けるようになったが、最初はほぼ植物状態だったのは知ってるな。徐々に意識を取り戻していったことも」
「ええ……」
「五感が存在しない以上、惺には外部からのあらゆる刺激がないのと同じだ」

 それは果たして「生きている」と表現してよいのか、クリスにはわからなかった。
  
「だから惺には、自分が『生きている』と認識させないといけなかった。しかし惺には言語も文字も通じない。そもそも声も届かない。『自分』と『他者』という認識があるのかも怪しかった。赤ん坊の頃からふつうに育っていれば自然と身につく、人としてのあらゆる概念や本能や常識が、惺にはなかったんだ」
 
 のどの渇きを感じたクリスが、リーゼラムを口にする。
 あまり味がしなかった。
 
「もう済んだことだし、説明がややこしいからどんなリハビリだったかは省かせてもらう。――とにかくその後、意識の覚醒した惺に〈ワールド・リアライズ〉が発現していたことに気づいたんだ」
「気づいた?」
「目に見えるなにかが起こったのではなくて、そういう仮説でも立てないと、惺の状態を説明できなかった。いわゆる帰納法だよ」

 その結論に至るまで、自分が想像し得ない苦労があったのだと、クリスは蒼一の表情から読みとった。
 
「〈ワールド・リアライズ〉のおかげで、徐々に『世界』のことを認識するようになってきて、やがて歩けるようになった。肉体の感覚を養うにはぴったりだったから、試しにバレエをやらせてみた。効果は抜群だったよ」

 以前ドックの外で見たシーンを思い出し、やっと納得がいった。
 
「ヴァイオリンも?」
「『音』という概念を教えるためにな。放っておいてもめきめき上達していったよ。ここまで話したら、なぜ惺が絵を描いているのかも、なんとなく察しがつくだろう」
「ええ。でも、あの絵は――」
「見たことがあるのなら話は早い。試しに紙とペンを与えてみたら、教えるまでもなく自分から描くようになった。あれが惺の視ている『世界』だよ」
 
 しばらく言葉が出なかった。
 五感を失いながらも世界を認識している少年。クリスもこれまでいろいろな経験をしてきたが、さすがにそんな存在が実在するなど、予想の範疇を大きく超えている。
 
「惺は……その、いつか治るの?」
 
 治る、という言葉が適切かどうかわからない。
 
「わたしはそう信じている。実際、惺の脳や肉体にはなんの異常もないんだ。なにかきっかけがあれば、五感を取り戻すのではないかと考えている……クリス」
 
 蒼一の鳶色の瞳が、クリスを真正面から見据える。瞳の色合いは深く、独特の引力を秘めていた。
 
「今回の旅、クリスに頼んで本当によかったと思っている。感謝してるよ」
「いえ、わたしはなにも」
「それでいいんだ。クリスは空気のように自然体でそこにいてくれる。きみと出会ってから、惺の表情がやわらかくなった気がするんだ。今後とも惺をよろしく頼む」
「……はい」


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