シディアス総本部に併設された医療施設の一室。惺はぼんやりとした意識の中、ベッドに横たわっていた。先ほどまで誰か白衣を着た人が何人かいた気がするが、よく覚えていない。そもそもそれが本当に「先ほど」のことだったのか、定かではなかった。
 そんなとき、部屋の外から複数人の気配を感じる。
 
「――あなたたちはここで待っていてください。大丈夫ですから――」
 
 やがて、ドアが開いてひとりだけ入ってきた。ゆっくりと歩み寄ってきているであろうその人物に、惺はぼんやりと視線を向ける。
 見えないのに、惺の心がにわかにざわついた。
 
「目を覚ましたって聞きました。……惺くんは、わたしのこと覚えていますか?」

 惺の耳にその声は直接届いてない。それでもその女性の、優しさに満ちた心の有り様を感じとる。
 大好きだった人とよく似た気配を、忘れるわけがなかった。
 クリスの母――アデリア・レオンハルト。蒼一がエクスウォード紛争に従事しているとき、惺は彼女のお世話になっていた。いつも太陽のように優しい雰囲気を醸していたのは、惺の「記憶」に深く刻まれている。
惺が上体を起こそうとするが、うまく動けない。

「そのままでいいですよ。無理はしないで――」

 アデリアは近くに置いてあったパイプ椅子を引き寄せ、そこに座る――という気配を惺は感じた。

「あなたが南極のあの場所で気を失ってから、すでに2ヶ月が経過しています。年が明けて、いまは2月です。フォンエルディアでは夏真っ盛りですね」

 感情に乏しい惺の顔に、驚愕が満ちる。そしてあのときの出来事がありありと浮かんできて、惺の呼吸が激しく乱れる。

「落ち着いて。一部始終を見ていたセイラさんが、すべて教えてくれました。あの子はすでに目を覚ましていて、元気ですよ」

 アデリアは語ってくれた。
 まず、氷河の上でパワードトルーパーと激戦を繰り広げたシディアスの騎士たち。星櫃が暴走した時点ですでに勝敗は決していた。少なくない犠牲は出たが、それでも勝利を収めた。そのときユーベルの神がかりめいた直感が働いて、ヴィクター研究所を含む氷底湖が「大崩壊」を起こす直前、騎士たちを戦場から退避させていた。
 一連の話を聞き終わったあと、惺が哀しい眼差しでアデリアを見る。その眼差しの意味を、アデリアはすぐに悟った。
 惺がもっとも知りたい事実。

「クリスは――」

 彼女の息が一瞬だけ詰まる。

「あの子の『時間』は停止しています。南極のあの場所で、血まみれの状態でいまも浮かんだままです」

 意味がわからなくて、惺は首を傾げた。

「そのままの意味ですよ。せめて家に連れて帰りたかったけど、なにをどうしてもあの子に触れられないんです。蒼一さんがいれば、なにかわかったのかもしれないけど――」

 膨大な光の彼方に消えた父。
 そのきっかけとなったのは――
 惺は頭を抱え、無言のうなり声をあげる。するとアデリアがすぐに立ち上がり、惺の手を優しく握った。

「蒼一さんはどこを捜しても見つかりませんでした。アヌビスも消えたまま行方不明。……それに、クリスをあんな状態にしたと思われる星櫃も、いまでは不気味な沈黙を保ったまま。セイラさんは、わたしのせいだと嘆いておられましたが……」

 惺は全力を振り絞って上体を起こした。ベッドから無理やり下りようとするが、アデリアに止められる。

「惺くん、落ち着いて」 

 そして抱きしめられる。
 抱きしめられる理由がわからない。しかもアデリアから伝わってくるのは、惺に対する感謝の念。自分の娘を斬った人間に対し、どうしてそんな感情を抱くことができるのか。不可解な現実が惺の不安をかき立てる。
 
「クリスは子どもの頃から優しかった。シディアスの騎士に向かないくらいに……でも、そんなあの子があなたを恨むわけないし、怒ることもないでしょう。母親のわたしが、娘を見習わなくてどうするのですか!」

 自分の頬を流れているのが涙だと、惺ははじめて気づいた。
 
「わたしはあの子の母としてあなたを恨みませんし、これからも愛し続けるでしょう。……クリスが最後に言ったのでしょう? どうか、あなたは幸せになって。あの子がつないだ未来への道を、どうか前向きに歩んで……それがあの子の願いで、わたしの願いでもある」
 
 自分の涙がこんなにも熱いのだということも、惺ははじめて思い知る。

◇     ◇     ◇


 惺が日本へ帰国することに決まる。目覚めてから約2週間が経過し、体も動くようになっていた。そのあいだ、惺はシディアスの事情聴取を受ける。筆談という形だったが、惺は自分の「罪」を覚えている限りすべて告白した。
 アヌビスに連れまわされて行った非合法な行為の数々。だが、惺が法で裁かれることはないという。現場は世界各地にまたがり、しかも物証はほとんどなく、最重要人物であるアヌビスは行方不明。そもそも惺はフォンエルディアでも日本でも、まだ法で裁かれるような年齢でもない。アデリアかユーベルが裏に手をまわしたのかもしれないが、惺に知るよしはない。

 退院日当日。朝早くにシディアスの医療施設を出て、車で空港へ向かう。
 気がかりなことがひとつだけあった。
 シディアスに保護されて以降、セイラと会ってない。惺は何度か面会を望んだが、なぜか彼女に拒絶され続けていた。帰国する前に、せめて一度でもいいから会いたかった――そんなふうにもやもやとする惺を乗せて、車はひたすら進んでいく。

 空港は人でごった返していた。エルドラード南部の外れにある国際空港。惺にとってはすでに何度も利用したことのあるなじみの空港だ。
 ふたりのシディアスの騎士に挟まれながら、広大なロビーを歩く。
 ティアース・ハルメリアとアーシャ・フォセット。上官の忘れ形見である息子を、ふたりは自ら見送りたいと志願していた。
 あの日、研究所内で虫と死闘を繰り広げていたティアースたちは、事前に退避していて全員が無事だった。あのような事態になることを予想していたのかわからないが、大崩壊の前に突然、蒼一から退却命令が出されていた。
 ――不意に。
 惺が立ち止まり、右に伸びる通路を見つめる。ロープが張られ、「関係者以外立ち入り禁止」の看板が掲げられている先。 
 ティアースの「どうした?」という声は惺に届かない。
 ――いる。
 考えるよりも先に、惺は通路へ駆け出した。
 ティアースとアーシャがぎょっとする速度で、惺の背は遠ざかっていく。

 長い通路を抜け、階段を駆けのぼる。それからいくつかの分かれ道を迷うことなく進んだ。
 やがて扉を抜けた先。空港施設の屋上部。フェンスの向こうで飛び立つ飛行空艇や航空機を眺めるようにしながら、彼女は佇んでいた。銀髪が風にそよいでいる。 
 彼女――セイラが振り向く。深紅の瞳に浮かぶのは驚愕と、一抹の動揺。
 セイラの周囲を囲んでいた人物たちも似たような反応を見せ、にわかに騒ぎ出した。やがて、惺を追ってきたティアースとアーシャが現れる。
 セイラの周囲にいたのはほとんどがシディアスの騎士だったが、ひとりはアデリアだった。彼女だけが惺の登場に対し、驚く気配を見せてない。
 一同に対し、アデリアが「見守ってあげて」と言ったことで、喧噪はすぐに収まる。
 惺がセイラが近づいていく。
 
「……どうしてここに?」

 答える代わりに、惺の視線がやや下に向いた。セイラの腰のあたり。ちょうどそのあたりで、セイラの両手首に無骨な手枷がはめられている。
 
「わたしは元暗殺者……極悪人だ。だから自首という扱いにしてもらった」

 惺は息をのんだ。
  
「わたしはこれから、法の裁きを受ける」

 呆然としながら立ち尽くす惺に、セイラは静かに言葉を紡いでいく。
   
「おまえと会うと覚悟が鈍りそうだったから、会うのを断っていた……でも最後に、この国を発つ惺を見送りたかった。この人が、無理な願いを聞いてくれたんだ」
 
 セイラがアデリアをちらっと見やると、彼女は優しい微笑みを返してきた。

「わたしは、殺した人の数だけ死刑になるべき存在だ。……もしくは、この手で殺めた人間の悲鳴と絶望と恐怖と血の海に溺れながら、永遠に苦しまないといけない」

 惺は勢いよく首を横に振った。
 
「なにも間違いじゃない。ただフォンエルディアに死刑制度はない……だからわたしが太陽の下を歩くのは、今日が最後だと思う」

 そしてセイラは、生まれてはじめて笑う。
 虚無と諦観に満ちた笑み。それがセイラの心情を如実に表している。
 
「さようなら惺。元気で――たぶん、もう会うこともない」
 
 すべてを振り払うようにセイラが歩き出した。
 手枷の鎖がじゃらじゃらと音を立てるのが、すれ違いざま惺の耳に届く。同時に、身が裂けるような切ない想いが風となって届く――
 思わず、惺は手を伸ばした。セイラの服の裾をつかみ体を引き寄せる。よろけたセイラの体を、惺が背後から全力で抱きしめた。
 セイラの呼吸が止まる。 
 ――唐突に。惺の優しいぬくもりがセイラの中で「光」に変換される。それが奔流となり、セイラの全身を駆けめぐった。
 そして惺の優しい情感が「声」となり、なぜか鮮やかに伝わってくる。 

 
 またみんなで……いつか、アルマたちと一緒に旅をしよう。


 喜びや楽しみ。日常と幸福。クリスや蒼一、レビンソン一家と過ごした日々が呼び起こされる。 

 
 ぼくは忘れない。セイラのこと……もちろん、父さんや、クリスのことも――

 
 希望。
 きっと、セイラがどこかで求めていたもの。

 ――大好きだよ、セイラ。

 
 この先、どんな困難が待ち受けていても大丈夫――なんの根拠なく、そう確信できるほどの希望がまさにこの瞬間、セイラの中で芽生えた。 
 涙が滂沱として流れ出す。

 かつてシルバーワンと呼ばれていた少女。
 セイラの魂はこの瞬間、完全に救われていた。

◇     ◇     ◇

    
 フォンエルディアから日本の成田空港まで、直行便で7時間ほど。日本時間で夕方になる前に、惺は祖国に降り立っていた。付き添いであるティアースとアーシャは、上官の故郷にはじめて足を踏み入れる。
 髪の長いきれいな女性が、空港のロビーで出迎えてくれた。彼女が日本における惺の身元引受人らしい。どういう立場の人か簡単に説明を受けたが、あまり頭に入ってこなかった。
 ロビーでティアースとアーシャと別れる。惺は深々と頭を下げた。
 その後、惺を乗せた女性の車が発進する。目的地は真城の邸宅がある星蹟島――千葉県犬吠埼の沖合数キロの海上に浮かぶ離島だ。
 成田空港から2時間ほど高速道路を走れば星蹟島にたどり着く。本土とは巨大な橋で接続されており、車で直接渡ることができる。
 やがて、海岸沿いにある飲食店の前をゆっくりと通り過ぎた。看板に「トラットリアHOSHIMINE」と書かれている。時刻は夕食どき。繁盛しているようで、店内は混雑していた。
 飲食店は真城家と昔から付き合いのある家族が営んでいた。蒼一がいないあいだ、よく悠がお世話になっていた星峰家。車椅子に乗っていた頃、惺も訪れたことがある。店舗の裏手にある一軒家が星峰家の住居となっており、その前で車が止まる。

「ちょっとここで待っててくれる?」

 女性が言い、車を降りた。彼女はそのまま星峰家の玄関に向かう。
 数分後、女性が戻ってくる。困ったような表情をしていた。

「悠さん、あなたの家に戻ってるって……惺くんも行ってみる?」

 こくり。
 再び車が動き出した。

「星峰のお母さんが、あなたのお父さんのことを悠ちゃんに伝えたらしいの。でも――」

 それから先は言いにくいらしい。女性の戸惑った感情が伝わってくる。 
 星峰家から見て真城家は目と鼻の先だった。だから5分と立たずに車は停止する。バスやトラックが3台は余裕ですれ違いできそうな、巨大な鉄柵の門の前。門の向こうは石造りの橋があり、それが数十メートルほど伸びる先に小島がある。星蹟島本島と比べれば孫のような大きさであるが、一般的な学校の敷地よりはるかに広大なその小島は、すべてが真城家の所有だった。
 車を降りてから、惺は女性に「ひとりで行きたい」と伝えた。
  
「え……でも……大丈夫?」

 こくり。
 惺はペンとメモ帳を取り出してさらさらと書いた。
  
『大丈夫です。ありがとうございました。詩桜里さん』
 
 ぺこりと頭を下げてから、リュックを背負う。巨大な門の横に小さな通用口があり、惺はそこをくぐった。
 門の向こう側で振り返り、女性――柊詩桜里に再度頭を下げてから踵を返す。
 石造りの橋を渡る音を響かせながら、惺は進んでいく。
 悠の待っているその場所へ。もはや唯一の家族となってしまったあの子のもとへ。
 家と呼ぶより邸宅、あるいは城と呼んだほうがしっくりとくる立派な建物が、徐々に近づいてくる。
 橋を渡りきったとき、それは聴こえてきた。
 地球の裏側にいても聴こえてきそうなほど、澄みきったピアノの旋律。

 ――――っ!?
 
 惺の耳が、かすかな音を拾っていた。 
 ずっと聴いてみたいと思っていた鳴奏。近くの砂浜に押し寄せる波の音よりも明確に、きれいな旋律はたしかに惺の耳に届いていた。
 やや足早になりながら、惺は立派な面構えの玄関を開けた。すると、ホテルのような瀟洒で広大なロビーが出迎える。
 惺がリュックを置いた途端、ピアノの音が止まった。
 リビングルームにつながるドアが開き、ひとりの少女が顔を出す。
 鮮やかな金髪。くりっとした大きな碧眼。雪のように白い肌。純白のブラウスに、薄いブルーのスカートを爽やかに着こなしている。どことなくクリスの面影を思わせる服装――だが、当然惺には見えてない。
 
「惺! おかえりなさい!」
 
 満面の笑みを浮かべながら双子の妹――真城悠が小走りで駆けてきて、惺に抱きついた。彼女から花のような香りが漂ってきて、惺の鼻孔をくすぐる。

 ――――っ!?

 再び驚いた。
 鼻がかすかな香りを感じている。
 悠が体を離して言う。

「今日帰ってくるって聞いて、待ってたんだよ! ……もう、そんなに驚いた顔してどうしたの?」

 なんでもないと言うように、惺は首を振る。   

「ねえねえ惺、聞いて。お父さんに何度も電話してるんだけど、全然出てくれないの。メールも返事がないし――――あれ、お父さんは一緒じゃないの?」

 そこまで聞いて、惺は違和感を覚える。蒼一のことは、すでに聞かされているはず。
 惺は悠の瞳をしばらく見つめ、やっと気づいた。ここまで送ってくれたあの人が言いにくそうにしている理由もやっとわかった。


 悠の瞳は、光を失っていた。

  
「……惺? どうして泣きそうな顔してるの?」

 たぶん、受け入れられなかったんだ。
 説明しないと。
 自分が。
 自分のせいだから。
 惺は再びペンとメモ帳を取り出す。

『悠、聞いて』  

 言わないといけない。
 真実を。
 震える指でその事実を書き出す。
 
『父さんは、死んじゃった』

◇     ◇     ◇

 
 惺はソファに寝転がり、無気力のまま天井を見つめていた。
 広大なリビングルーム。壁際にはテレビと古風なオーディオセットが組まれている。リビングとつながる一室にはグランドピアノが置いてあった。
 つい先ほどまで悠が弾いていたピアノ。しかしいま、室内の空気には旋律の残滓すら残されてない。
 
 ――嘘でしょ!? お父さんが死んじゃったって――ねえ惺、嘘って言ってよっ!? わたし信じないから!
 
 残っているのは悠の悲鳴だった。彼女の心の慟哭も、惺の中でずっと反響を繰り返している。そのまま悠は泣きながら出て行ってしまった。
 悠は星峰の家に「避難」したらしい。星峰の母親が先ほど、悠の様子を教えに来てくれた。情緒不安定になってずっと泣いている、とのこと。とりあえず落ち着くまでは預かってくれるそうだ。
 惺くんもうちにいらっしゃいと誘われたが、丁寧に断った。
 いったいどんな顔で悠と顔を合わせればいいのだろう。
 父のことだけじゃない。悠はクリスのことも慕っていたのは聞いていた。クリスがいまどんな状況になっているのか、自分ですらはっきりと理解できてない。悠に説明することなど不可能だった。
 怖かった。すべてを話して嫌われるのが。父のことを少し話しただけでもこの状況なのに、それ以上のことを話して悠は耐えられるのか。
 そもそも自分も耐えられるのだろうか。
 そしてこんな自分に、生きている価値などあるのだろうか。

◇     ◇     ◇

 
 それから1時間以上、ソファの上に寝そべってぼんやりとしていた。
 やがて、惺は空腹という感覚を生まれてはじめて抱く。もしかしたらこれまでにも抱いたことがあるのかもしれないが、よく覚えていない。
 冷蔵庫の中になにもなかったため、出かけることにする。
 トラットリアHOSHIMINEに徒歩で向かった。
 実際に入店して真っ先に出迎えてくれたのは陽気な喧噪。そのときはもうピークの時間が過ぎていたのか、それなり空いている。 
 ウエイトレス姿の若い女性が、惺を見て驚いた。
 
「惺くん!?」

 惺はぺこりと頭を下げた。 
 星峰家の長女、星峰小夜子。高校生で、バイトとして店の手伝いをしている。惺とも面識があるが、ちゃんとした「対面」は今回がはじめてだった。
 食事しに来たことを伝えると、すぐにテーブルに案内してくれた。
 
『悠はどうしてますか』
 
 小夜子が哀しそうな顔をする。
 
「わたしの部屋にこもってるの。奈々がついているけど、ずっと泣いてるって」
 
 奈々は小夜子の妹の名前だ。年齢は惺や悠のひとつ下。近所に住んでいることもあり、悠とは姉妹のように仲がよい。
 
「……ねえ、惺くん。蒼一さん、ほんとに亡くなったの?」
 
 惺がこくりとうなずくと、小夜子は息をのんだ。
 その後、惺から注文を聞き、小夜子は去っていく。目じりに涙を浮かべながら。
 しばらく経ったあと、料理が運ばれてきた。クアットロ・スタジョーニとアクアパッツア。4種の具材を使用したピザと、魚介を煮込んだスープ。
 様々な具材が芳醇な香りを醸している。彩り豊かな「色」はまだよく見えないが、香りだけでも食欲をそそる。
 食べてみた。

 ――――っ!?
 
 はじめて味を感じる。
 美味しかった。   
 あまりに美味しすぎて、涙が出てきた。
 ピーク時間を過ぎているとはいえ、周囲は喧噪に包まれている。家族連れやカップルたちが楽しそうに、あるいは幸せそうに会話に華を咲かしている。
 
 その中で、惺は独りだった。

◇     ◇     ◇

 
 数日が過ぎた。 
 小夜子がほとんど毎日様子を見に来てくれるが、悠は帰ってこない。帰るつもりがないと言っているらしい。惺くんもうちに来てと誘われるが、どんな顔してそれを受け入れればいいのだろう。
 寂しさを紛らわすため、久しぶりにヴァイオリンを弾いてみた。
 心地よい旋律が空気を震わす。自分が知りうるすべての感情をその鳴奏に乗せる。
 音が生き物のようにうねり、空間を支配した。

 ――自分のヴァイオリンの音を、ずっと聴きたいと思っていた。

 いま、それは叶っている。耳どころか全身を通じて、音楽の神髄を噛みしめている。こんなに幸せなことだとは思わなかった。

 ――家族の団欒に耳を傾けたいと願っていた。

 それはできない。広大な邸宅にひとり。家族はいない。
 父はこの世から消えた。
 悠は家を出た。近くにいるはずなのに、こんなにも遠くに感じるのはなぜだろう。
 そして家族のように愛してくれた女性は、自分のせいで――
 すべてを崩壊させたのは自分だ。
 悠のピアノを、ちゃんと聴きたかった。そして悠のピアノと自分のヴァイオリンを、一緒にクリスに聴かせてあげたかった。
 しかしもう、それは永遠に叶わぬ夢。
 哀しいヴァイオリンの鳴奏が、邸宅内部に響きわたる。寂しさは紛れることなく、むしろどんどん加速していく。

◇     ◇     ◇


 朝方。空がゆっくりと瑠璃色に染まっている頃。
 惺は目を覚ました。
 目の奥がちりちりとしていて、脳が焼けるように熱い。
 浮遊感を覚えながら、ベッドから降りた。
 ふらふらと歩き、邸宅を出る。
 裸足で。
 そのまま歩いた。
 3月の半ば。季節は春。真城邸の裏手には緑地が広がっていた。様々な草木が生い茂るその先は小高い丘になっており、海に突き出すような形で崖を形成している。
 どこからか入り込んだ猫が2匹、草の上で身を寄せ合って眠っていた。
 地面は冷たいはずなのに、妙な温かさを感じる。時折踏む草はやわらかく、小石の感触は痛さよりも心地よさのほうが強い。
 遠くで救急車のサイレンが聞こえる。犬の鳴き声や、新聞配達のバイクが通り過ぎた音も、かすかに聞こえた。
 日常がそこにあった。
 
 丘を抜け、崖に差しかかる。
 巨大な樹が1本、崖の先端に屹立していた。雄大な佇まいを持つその樹は、悠然とした存在感を放っている。
 その樹の前で、力なく跪いた。
 父を消滅させる直接的な原因を作り、さらに愛する者をこの手で斬った。
 その代償かわからないが、自分は「世界」を取り戻しつつある。世界を認識すればするほど、比類なき幸福を感じてしまう自分がいる。
 クリスの時間は停止してしまった。だから彼女は寒いも温かいも痛いも楽しいも嬉しいも哀しいも、すべて感じない。自分が彼女から、それらを永遠に奪ってしまった。
 それはもう、殺したのと一緒だ。
 そんなことをした自分が生きていていいわけがない。たとえクリス本人に赦されているのだとしても、なにより自分で自分を赦せない。  
 惺の右手周辺に、ぼんやりと発生した光の粒子が収束。それがやがて細長い形状を形成する。
 蒼牙護神聖。消滅した父が残した唯一の品。
 それを首筋に当てる。
 
「…………っ!」
 
 つぅ、と血が流れる。
 痛かった。
 生きている証拠だ。
 ただ生きているだけで、常に心が震えるほどの幸福に満たされる。痛みを感じることすら幸福だ。
 しかし幸福や希望を感じれば感じるほどに、絶望の色が濃くなっていく。
 もう終わりにしたい。
 楽になりたい。
 蒼牙護神聖に力を込める。

 ――その瞬間だった。
 惺の周囲がすべて光に包まれる。
 

 茫洋とする光の世界に、クリスが立っていた。


 彼女は笑っていた。自分を斬った相手に優しい笑顔を向けている。幸福を祈るように静かに微笑んでいる。
 幼児のように泣き崩れる惺を、クリスは優しく抱きしめる。たしかなぬくもりを感じた。
 
 ――あなたは生きて。そして、幸せになってもいいんだよ。
 
 そう言われた気がした。
 その瞬間、惺を光が包み込む。

     
 そして惺は、はじめて世界を「認識」した。

 
〈ワールド・リアライズ〉ではなく、五感のすべてで。
 力が抜け、蒼牙護神聖を地面に落とす。

 止めどなく流れる涙は切なさの味がした。
 ――世界はいろいろな感情の味に満たされている。
 
 突風が、惺の絶望を吹き飛ばすように吹いた。ほどよい温度の風が惺の全身をなでると同時に、潮の香りが鼻腔をくすぐる。
 ――世界は様々な香りで満たされている。
 
 静かに響く波の音を背景に、カモメが飛んで気持ちよさそうに鳴いている。
 ――世界は心地よい音に満たされている。
 
 背後で大陽が顔を出し、生まれたばかりのやわらかい陽光が惺を照らす。
 ――世界はぬくもりで満たされている。
 
 樹の新緑の葉が陽光を受けて光り輝く。その背後で空の蒼と海の碧が混ざり合っている。海が宝石を散らしたように煌めいている。
 ――世界はまばゆい光に満たされている。
 
 それらが惺の中で、無限大の希望へと変換された。
 世界のすべてが、光が闇が音がぬくもりが冷たさが風の匂いが涙の味が――まるで誕生したばかりの惺を祝福するように、まばゆい輝きを放っている。


「――――――――――――――――うわああああああああああああああああぁぁぁっっっっっっっっっっっ!」

 
 惺の慟哭は一種の「産声」だった。
 その魂の咆吼が世界を震わせる。
  
 自分はいま、この世界で生きている。
 生きているのを五感のすべてで実感している。
 クリスが信じ、蒼一が教えてくれた美しい世界は、偽りなどではなかった。

 死ねない。
 死ぬわけにはいかない。
 この世界で生きていたいと、切に願ってしまった。
























 
 はじめて識る世界は、なによりも美しかった――













― 完 ―


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