8-6

 数秒とも数時間とも思える時間が過ぎ、クリスは目を開けた。ふと、仰臥しながら倒れていることに気づく。
 空が見える。燃えるような茜色をした空。

「……………………………………え?」
  
 氷河の下にいたはずなのに、空が見えるわけがなかった。勢いよく上体を起こし、異常さを認識する。

「――っ!?」

 天井がなかった。
 周囲を囲む氷の壁も、一定以上の高さから完全に消滅している。それだけでなく、床に敷かれていた鉄板や光る湖の大部分も失われている。まるでクレーターの底にいるような状態。
 呆然としながらクリスは立ち上がり、隣で倒れていたセイラを見る。完全に気を失っていた。

「セイラ!」
 
 彼女はすぐに飛び起きた。そして、周囲の状況を見て目を丸くする。

「……蒼一と……アヌビスは?」

 クリスは言葉に詰まる。周囲に蒼一の気配はない。対峙していたアヌビスの姿も消えている。
 根拠もなにもないのに、クリスは悟っていた。
 あの凄まじい閃光は、蒼一の生命力のすべて。
 おそらく、最後の手段。
 つまり。

 
 蒼一はもう、この世界にはいない。

 
 涙目になったクリスが、救いを求めるように周囲を見渡す。
 クリスとセイラから十数メートル離れた場所に、機械の台座がかろうじて残っていた。周囲は崩壊しかかっているのに、台座の上の星櫃は無事に見える。先ほどまで無尽蔵な闇と光を生み出していたそれは現在、完全に沈黙していた。
 その近くに、惺が倒れていた。

「惺!」

 クリスの声とほぼ同時に、惺が立ち上がる。彼は父親の面影を探すようにあたりを見まわしながら、やがて頭を抱えて無音で絶叫した。

「                                   !?」

 
 無音で叫ぶ姿は痛々しく、あまりにも哀しい。同時に惺の全身からほとばしる闇色の魔力が、強風に乗ってクリスたちの肌を突き刺すようになでた。

「惺、落ち着いて!? もう終わったの!」

 駆け寄ろうとするクリスを、セイラが止めた。

「様子がおかしい。危険すぎる」 
「惺――いったいどうしたの!?」

 もちろんなにが起こったのか、惺は直接「見て」いない。しかし閃光が弾けた瞬間に、蒼一がアヌビスとともに消滅したのは、どういうわけか認識していた。
 星櫃が「覚醒」したのは自分のせい。
 取り返しのつかない結果になってしまた事実が、バラバラになっていた惺の心をさらに粉々に打ち砕いていた。
 惺は足もとに転がっていたカラド・ヴェイヌスを拾い、切っ先をクリスたちに向ける。
 惺の瞳は最初からずっと昏い。宿るのは哀しみと嘆き。
 そして強い殺意。

「あ、惺……っ」

 逡巡するクリスの前に、セイラが出た。

「わたしが止める――っ」

 直後、体勢をやや低くしながら疾走。セイラの拳銃は腰のホルスターに入っている。――が、それは抜かない。
 絶対に殺さずに制圧する――かつて暗殺者だったセイラが、そんな決意を深紅の瞳に秘める。
 彼我との距離が3メートルにまで迫ったとき、セイラは跳んだ。
 頭上で一回転してから、惺の背後に着地――した瞬間、右足を軸にしてまわし蹴りを放つ。遠心力が加わった強烈な蹴りが、惺の側頭部に吸い込まれていった。
 対する惺は上体を低くし、それをやり過ごす。
 風が鳴る。振り抜かれたセイラの長い左足が、惺の頭上を通る瞬間、軌道を下へ変えた。
 迫り来る足を認識した惺が、後ろに飛び退いて回避。
 ――しかし、一瞬だけ遅かった。かかとが惺の頭をなでるように入る。かすっただけなのに、凄まじい衝撃が惺を襲う。
 惺の体勢が崩れる。
 この瞬間、セイラには勝ち筋が見えた。体勢を直される前にさらに肉薄し、間合いを詰める。間合い内から逃れられる前に、首根っことカラド・ヴェイヌスを握る右手首をつかんで倒せることができれば制圧完了だ。殺さない程度に締めあげ、意識を奪うことくらい、セイラにとっては造作もない。
 一瞬でそこまでのイメージを作りあげ、セイラが動く――

   
 惺とセイラの戦いを視界に収めながら、クリスはずっと考えていた。 
 惺を制圧したとして、その先になにがあるのだろう。仮に気絶させたとして、再び目を覚ましたとき、惺は正常に戻っているのだろうか。
 クリスの直感が、それだけでは根本的な解決はできないと告げてくる。最近はずっとまともになったが、セイラのマインドコントロールもまだ完全には解除できてないらしい。だから惺も、簡単にアヌビスの「呪縛」から逃れられるとは思えなかった。地中深くで複雑に絡み合う木の根のように、惺の心に闇が根ざしているような気がする。
 蒼一から託されたのは自分だ。惺を絶対に救い出したい。
 ――見ると、セイラのほうが押している。さすがに物心ついた頃から暗殺者として育てられている彼女の動きに瑕疵は見られない。
 しかし、めまぐるしい勢いで思考をめぐらすクリスに、予想だにしない光景が飛び込んできた。

  
 動作もタイミングも一点の曇りなく、セイラがイメージしたとおりの動線を、確実にトレースしていた。
 ではなぜ、自分は惺の股下に寝転がっているのだろうか。
 鮮やかな茜色の空を背景に、惺がセイラを見下ろしている。否、睥睨といっても過言ではない。無色透明を体現するほどきれいだった瞳は濁り、険しい眼差しを向けている。
 常人離れした身体能力を誇るセイラが反応できない速度で惺は動き、結果的に彼女をねじ伏せていた。
 カラド・ヴェイヌスの刃が陽光に光る。逆手で持ったそれを、セイラの首に突きつけた。
 ――不意に、なにかを感じた惺がセイラの上から飛び退く。
 一条の衝撃波が、惺が立っていた場所めがけて飛んでくる。だがそれは対象を見つけられず通り過ぎ、やがて霧散した。
 惺の瞳が、衝撃波を撃ち出した人物に向く。
 涙を浮かべたクリスが、セイント・ヴァルステンを構えていた。

「惺――あなたが戦い続ける理由なんてもうない!」

 惺の中でなにかが蠢いた。カラド・ヴェイヌスを握る手が震え、もう片方の手で頭を掻きむしる。 
 クリスの悲哀と慈愛に満ちた感情が、剥き出しのまま流れ込んでくる。
 優しかった。
 温かかった。
 ずっと触れていたかった。
 しかし惺はもう知ってしまっている。この世界を構成する感情が、それだけではないことを。むしろ負の感情のほうが多く、あまねく世界に満ちている。
 救いようのない世界だと、骨の髄まで染みていた。あらゆる感情が渦巻く惺の心は、すでに崩壊していた。 
 惺の背後でセイラが起き上がる。惺の意識はクリスに向いていて、隙だらけだ。しかしなぜかうまく詰め切れない得体の知れない感覚があり、セイラは動くことができない。
 そんなセイラに、クリスが視線で語りかける。

 ――わたしに任せて。

 通じたのか、セイラは小さくうなずく。
 わずかに微笑んだあと、クリスが踏み出す。
 鋭くなめらかに、二対の刃が奔った。
 青白い刃と黒光りする刃が、まるで詠うようなリズムで何度も激突する。ときには優しく、ときには激しく。片方は悲愁と憐憫を刃に乗せ、もう片方は底知れぬ絶望をまとわせながら。
 クリスの動きに先ほどまでの逡巡はない。流水のようななめらかさがありながら、所作のひとつひとつに確固たる意志を感じさせている。
 惺の動きは舞踏のように美しく、徹底的な武の理と天性の勘を感じさせる。そして瀑布のような激しい感情が、動きの随所に垣間見られた。
 吹き荒れる剣戟の嵐が自然の風を寄せつけない。むしろ中心地となり、周囲に暴風を吐き出している。
 この華奢な体のどこにそんな力が秘められているのかと思うほど、惺の一撃は重い。端正な面貌にも鬼気迫る気配があり、この年齢でいったいどんな業を背負えばそんな顔になるのだろう。
 いや――惺が背負ってしまった業の正体を、クリスはすでに知っている。
 でも惺には、そんな顔してほしくなかった。
 いつの日か、心の底から笑ってほしいと願っていた。
 ――不意に。あまりにも唐突に。
 クリスの脳裏に、目の前で絶命した親友が呼び起こされた。今際のきわにあらゆる幸せを濃縮したような微笑みを浮かべた親友であり姉のような存在、レイリア・レビンソン。 
 ――そうか。だからレイリアは――っ!
 
 なぜかこのとき、天啓を受けたように真実を悟る。アヌビスに連れ去られる前に、惺の内部で小さく芽吹いていたはずの「希望」。それを再び呼び起こすにはどうしたらいいだろう。 
 カラド・ヴェイヌスの刀身は、持ち主本人の絶望を体現しているかのように昏く、陽光すら吸収するほどに濁っている。それがクリスの命を刈り取ろうと迫る。
 
 ――もしかしたらわたしは、惺の笑顔を直接見ることができないかもしれない。
 けど、それでもいい。彼の鮮やかで幸福な未来につながれば。

 そんな思いが、クリスの行動を決めた。 
 惺がカラド・ヴェイヌスを振りかぶる。
 対するクリスも、それを受け――

 なかった。

 セイント・ヴァルステンを遠くへ放り投げる。

「――っ!?」

 セイラが背後で驚愕に目を見開く。
 直後、クリスは両手を広げて惺に無防備を晒した。
 そして――

  
 殺気をまとったカラド・ヴェイヌスが、クリスの体を袈裟懸けに斬った。

 
 返り血が惺を染めあげる。
 斬り下ろした動作のまま、惺は止まっていた。クリスの動きがあまりにも予想外だったのだろう。呆然と立ち尽くしている。
 痛みが走るより速く、クリスはカラド・ヴェイヌスの刀身を握った。手のひらから血が吹き出ても意に介さない。そのまま念じる。〈イセリアライズ〉によって霊化された暗黒の小太刀は、光の粒子となって消滅した。
 手から得物が消え去っても惺は呆然として動けない。そんな彼を、クリスは全身全霊をもって抱きしめた。
 血塗られた抱擁。
 血の生温かさが伝わってくるよりも速く鮮烈に、クリスの体温が惺を包み込む。
 ゆっくりと顔を上げる惺の瞳に、クリスの優しい笑顔が飛び込んできた。その衝撃が惺の全身を駆けめぐる。

「もう――いいから。戦わなくていいから……惺」

 それだけ言って、クリスの体が後ろに大きく傾く。
 セイラが駆け寄り手を伸ばす。完全に倒れる寸前、抱き留めた。

「ど……どうしてっ!?」
「わたし……不器用だから……これくらいしか思いつかなくて」

 はは、と笑うクリスの口もとから、ごぽっ、と血が流れ出している。内臓まで達しているであろう裂傷が、クリスの上半身を斜めに走っていた。

「ねえセイラ、聞いて……あなたの罪は、決して許されることはないかもしれない――」
「――っ」
「でもね、あなたは幸せになってもいいの。だって……人間なんだから」

 冷たい氷の床を、クリスの熱い血が染めていく。沈みかける大陽の最後の光を受けて、血がさらに紅く鮮やかに輝いている。

「セイラ――惺をお願いね」
「クリスっ!」

 そのとき、それまで立ち尽くしていた惺の膝が折れる。両手で頭を抱えながら震え、揺れる瞳でクリスを見た。
 セイラは、惺の瞳から濁りや暗黒が消えかかっていることに気づく。

「惺――そこにいるの――? ごめんね、もう目がかすんで――」

 鮮血で染まった手をおもむろに伸ばすクリス。惺が恐る恐るそれをつかむ。

「大丈夫よ。あなたはきっと幸せになれる――これからも――っ――つらいことはあるかもしれない。で――でも、惺なら乗り越えられる――これよりつらいことなんか、きっとないから」

 クリスの手の力がゆっくりと、しかし確実に弱まっていった。
 それでもクリスは笑っている。無理して笑顔を作っているわけではない。本気で、心の底から微笑んでいた。
 かつて、レイリアが最後に見せた笑顔。もしも彼女が絶望に沈んだまま死んでいったら、クリスの心は一生癒えないような深手を負っていただろう。レイリアはきっと、無意識にそれを悟ったのだ。
 残された親友には「絶望」ではなく「希望」を託したい。これからも笑っていてほしい――そう思って、レイリアは最後に笑った。
 クリスもいま、同じ気持ちだった。
 惺を救ったあの子どもたちもきっとそうだったのだろう――そして救ってくれてありがとうと、クリスは深く感謝した。

「本当は――あなたとセイラ――アルマや悠が――大人になった姿を見たかったけど――はは――無理かな。それが心残りだけど――」

 優しく微笑む。
 絶望や失望を完全に消し去り、明るい希望だけを紡げるように。
 ここまで美しい人間の表情を、惺もセイラも見たことはなかった。

「生きて――惺。最後まで……あなたに、幸福で素敵な未来が――訪れますように――――」

 それがクリスティーナ・レオンハルトの最後の言葉だっ――

 
「死なせないっっっっっっ!」

 
 セイラが叫ぶ。いまだかつて見たこともないほど、悲痛な形相で。
 クリスの肉体を抱きしめながら、セイラの脳が信じられない速度で回転している。
 甚大な裂傷。出血多量による多臓器不全。冷たくなっていく体温――それらをどうにかしなければ、クリスは間もなく死を迎える。
 時間がない。 
だからセイラは、一縷の望みをかけて星櫃を見た。


 せめて、時間が止まってくれれば――!

 
「おまえが希望の箱でも絶望の箱でもどっちでもいいっ! この人を――この女性を救ってくれっ! お願いだっっっ!」 

 かつて暗殺者として、無慈悲に冷酷に無数の命を殺めてきたセイラ。そんな彼女が、たったひとりの人間の救済を、全身全霊を込めて懇願した。生まれてはじめて、たぎる激情を叫んだ。
 
 そして――

 なんの前触れなく、星櫃がぼんやりとした光を放つ。その光は先ほどのものとは打って変わって優しく、温かい輝きを放っていた。
 その光は冷たい空気の中を浮遊し、やがてクリスのところまでやってきて彼女の全身を包み込む。
 ――その瞬間、近くにいた惺とセイラの体が、数メートルほど吹っ飛ばされた。

「――っ!?」

 唐突にセイラの意識が遠のいていく。惺は吹っ飛ばされた衝撃ですでに気を失っているのか、ぴくりとも動かない。
 霞んでいく視界の中で、セイラはたしかに見た。


 光に包まれていたクリスの肉体が、空中で「完全に停止」しているのを。

  
 ――セイラの「願い」は、しかと聞き届けられていた。


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