屋上のフェンスから外の様子を眺めながら、わたしは考えていた。
ここからの眺望は絶好で、眼下にある街並みが一望できる。高台にある立地条件は伊達じゃないみたいで、遠くに見えるあの建物は、わたしが暮らしているマンションだ。
携帯の時刻表示で確認する。時刻は午後四時ちょっと前。あと数分で約束の時間になる。
予感したとおり、授業には集中できなかった。気がついたらいつの間にかお昼休みになっていて、さらに放課後になっていて、しばらく呆然とした。
授業でなにを教わったのか、さっぱりと覚えていない。先生たちにまた悪いことをしてしまった。しかも連日。……なんでこんなに不器用なんだろう、わたしは。
月城くんのことだけでも手一杯なのに、さらに追い打ちをかけたのが今朝の手紙。意味深な内容の手紙に、月城くんのことと混じって頭がこんがらがっていた。
わたしのそんな様子に、誰か気づいたかもしれない。手紙の事情を知っている木崎さんはもちろん、鋭そうな天宮くんは、確実になにかあると気づいたと思う。
天宮くんは放課後、生徒会の集まりがあるらしく、かなり忙しそうにしていた。木崎さんと石川さんは部活に励み、坂井くんはバイトがあるみたいで授業終了後早々に帰宅した。
みんなそれぞれ、やるべきことをやっている。
……わたしは……いま、なにをやっているんだろう。
空を見上げると、太陽がやけにまぶしく感じられた。もう日照の最盛時間は過ぎたけど、太陽はいまだ燦々と輝いていて気温はかなり高い。まだ春と言ってもいい季節だけど、じっとしていているだけでも汗ばんでしまう。今日は夏日を通り越して真夏日にも手が届きそうだ。
気温のせいなのか、心拍数が上がったような気がした。
……緊張しているのかな、わたし。
でも、どんな状況になっても、冷静になっていないと。
午後四時を知らせるチャイムが、高らかと響きわたった。
「――時間の十分前に来るなんて、見た目の印象どおりに真面目なんだね」
呼吸が止まった。高音と低音の調和が美しい男性の声。まばたきすることを忘れ、ゆっくりと振り返った。
見上げた先にあるのは階段室。その上で足を投げ出すように座るひとりの人物。
「つ、月……城……くん?」
月城秀一、その人だった。
「ど、どうして」
「手紙に書いてあったでしょ? 午後四時に屋上で待っているって」
あの手紙。綺麗な字が躍っていた薄い青色の手紙は、月城くんが? もしかして、わたしが来るよりも前にここにいたの? どうしていままで気がつかなかったの? どうしていまになるまで声をかけてくれなかったの?
いろんな想いが交錯する。想定外の状況に、思考回路が焼き切れそうになった。
月城くんが――わたしの初恋の相手が。
いま、目の前にいる。
月城くんは階段室の上から飛び降り、長い足をばねにして着地する。そして、わたしの正面に対峙した。
「そういえば、こうやってちゃんと話すのははじめてだね」
返事は浮かばなかった。
「あらためて自己紹介しようか」
月城くんの言葉を、ただ聞き流すことしかできなかった。
「俺の名前は月城秀一」
目の前に、あの月城秀一がいる。
その事実に――
「よろしく……」
そして、月城くんが優雅に微笑んだ。ぞっとするほど気高く、戦慄するほど美しく。それは、すべてを超越する高みからの睥睨だった。
「――プロのヴァイオリニスト、綾瀬由衣さん」
わたしの背筋に電撃が走った。気を失いそうになるほどの衝撃が襲う。目が飛び出すのではないかと思うほど、大きく目を見開いた。
「そんなに驚かないでよ。これであのときの俺の気持ちが、少しはわかったでしょ?」
月城くんの秘密を知っていたわたしに対する、痛烈な皮肉らしい。痛烈すぎて感覚が麻痺してしまう。
「な、なんで……」
プロのヴァイオリニスト。久々に聞いた言葉だ。あまたの試練を乗り越え、数多くのライバルを蹴落とし、やっと手に入れることができる輝かしい栄誉。毎年多くの人が目指し、狭き門をくぐり抜けながらやっとつかむことができる栄光。
綾瀬由衣――わたしは、プロのヴァイオリニストだ。
「ど、どこで、それを……?」
「とある人に調べてもらった。ああ、最初に言っておくけど天宮哲郎じゃないよ」
この学園でわたしがプロのヴァイオリニストであることを知っている人は、まず間違いなくひとりしかいない。あの人と共通の知人がいるという、この学園の学園長。そのつながりで、わたしはここ、天野宮学園を紹介してもらった。
学園長が生徒の秘密を漏らすことは、常識で考えればありえない。それなら月城くんは、自力でそれを調べあげたことになる。
「四年前、ヨーロッパのクラシック業界は、ひとつの大きな話題で騒然とした」
わたしの思案をよそに、月城くんは言葉を紡ぐ。
「あるとき、流星のように現れた新星のヴァイオリニストが、プロとしての産声をあげたことだ」
わたしは無意識のうちに拳を強く握っていた。
「そのヴァイオリニストはそれまでまったくの無名だったにもかかわらず、ふらりと出場したヴァイオリンコンクールで苦もなく優勝。その後も多くのコンクールで最優秀賞やそのほか数々の賞をかっさらい、瞬く間に期待のホープとしての注目を集めることになる」
月城くんの声は伝説のグラスハーモニカさながら、美しく響く。
「そのヴァイオリニストの名は――綾瀬由衣」
月城くんの鋭い視線がわたしを見据えた。
「つまり、きみだ」
月城くんの瞳を見返した。
「よく……調べられたね」
「でも、これだけじゃないんだよね。きみの秘密は」
どきっ、と心臓が――
「そんな稀有な才能の持ち主は、いままでどこで研鑽を積んできたのだろうか。広いように見えて実は狭いクラシック業界の中で、なぜ公になるまで話題にすらのぼらなかったのだろうか」
わたしはもう、月城くんから目を離せないでいた。彼の存在感に圧倒されている。たとえるならそう、クライマックスで名探偵に追い詰められている真犯人のような、そんな気分。
「弟子を取らないことで有名な世紀の大ヴァイオリニスト、ベルナルド・フォン・クラウザー氏が、きみの師匠だね?」
久しぶりにその名を耳にした気がする。
現代に生きる最高峰のヴァイオリニストとして、その名を世界中に轟かせている傑物。 実力、世界的評価ともに、クラウザー先生を超えるヴァイオリニストは、間違いなくこの地球上に存在しない。
そして、その魔法としか思えない驚異的な演奏技術と、全容が計り知れない豊かで奥深い表現力から、クラウザー先生は人々からこう呼ばれている。
畏怖と崇敬が込められたふたつ名。
弦帝――と。
「あの人」ことクラウザー先生が、わたしのヴァイオリンの師匠だった。十年近く前にこの日本で知り合い、わたしをイタリアへと導いてくれた人。ある意味、わたしが月城くん以上の尊敬と敬愛の念を抱いている人だ。
「俺がまだプロだった頃、こんな噂が業界内で広まっていた。あのクラウザー氏が秘密裏に弟子を取り、ひそかに育てていると。根拠も信憑性もない噂だったからあまり気にしてなかったけど、それがきみだったんだね」
クラウザー先生は弟子であるわたしの存在を、なぜかプロデビューするまで公にしなかった。
「まだ不思議なことがある。オーストリアの名門楽団との共演コンサートが、きみのプロデビューのきっかけだった」
ああ、そんなこともあったなと、しみじみと思い出した。
「不思議なのはここからだ。きみはそれから三年半ほど、つまりいまから半年前までの短期間しかプロとして活動していない」
なにも言えなかった。だって、月城くんが言っていることは正解なんだもの。
「いまから半年前、去年の十一月に行われたリサイタルを最後に、きみは一度も公の舞台に立っていない。それはなぜか」
暑いほどの気温なのにもかかわらず、なぜか冷や汗が出てきた。
「でも、だからといって引退したという話も聞こえてこない。それじゃあ、綾瀬由衣はどこへ消えた? 流星のように現れて流星のように消える。きみはいったいなんなんだ? そしていま、ここ日本で、きみはなにをしている?」
月城くんが近づいてくる。わたしが無意識のうちに後ずさりしたことを、しばらく経ってからから気づいた。
「――っ!?」
月城くんがわたしの右腕をつかみ、顔の高さまで持ち上げた。そのまま彼は、わたしの右腕に巻かれた腕時計を凝視している。念願の彼とはじめて触れ合うことができたのに、わたしが抱く感情は恐怖と畏怖のみだった。
――まさか。
わたしの無意識が、激しい警鐘をを鳴らし始めた。
「きみはさっき、携帯電話で時刻を確認してたよね。こんな立派な腕時計があるのに、どうしてかな」
――だって、この腕時計は。
「この腕時計……止まってるね。どうしてそんなもの身につけてるんだ?」
「……そ……れは」
月城くんの鋭いまでの眼光に、膝が震え出した。
――知っている――月城くんは、全部を。
よろめくように再び後ずさる。月城くんはわたしの右腕をつかみながら、一緒になって移動した。
がしゃん、とわたしの背がフェンスにぶつかった。
「実はね、俺はきみのお父さんと会ったことがあるんだよ」
「――ぇ?」
かすれた声が漏れる。これが精一杯の声量だった。
「ピューリッツァー賞受賞を祝賀したパーティーで、俺は特別ゲストのピアニストとして招かれた。そのときに」
お父さんの姿を思い出し、普段は眠っているはずの負の感情が湧きあがる。お父さんに対する恨み、怒り、哀しみ――いまのわたしに、その感情を隠すことはできなかった。
「そう。その表情だった」
「……え?」
「パーティー会場の壇上で受賞の喜びを語る孝明氏は、いまのきみと同じような表情をしてたんだ。その場では不相応な表情だったから、よく覚えている。きみはたしか、転校初日に学食でクラスメイトと食事をしたときも、同じような表情をしたらしいね。これは哲郎からの情報だけど」
あのときは……お父さんの話題になって、わたしは自分の内面からにじみ出る負の感情を、抑えていたつもりだった。
……もし、それが本当に「つもり」だったとしたら。
「哲郎が言ってたよ。あのときの綾瀬さんの表情は、悲哀と憤慨を足して割ったような不思議な気配が奥に潜んでいたようだ、とね」
天宮くんはやっぱり鋭い。
「あのときの孝明氏の表情と、いまのきみの表情……よく似てるよ。さすが親子だ」
似ている。
わたしが。
あの人と。
お母さんを見捨てた――お父さんとっ!?
「そ、そんなことないっ!」
わたしは叫び、つかまれていた右腕を思いっきり振り払ってしまった。
「ああ、もちろん顔立ちとか容姿が似てるって意味じゃないよ。俺は会ったことないけど、きみはお母さん似なんじゃないかな……って、こんなこと言うとお父さんに失礼だけど」
たしかに、わたしは昔からお母さん似だって言われていた。しなやかな長髪が綺麗だったお母さん。やさしい眼差しを絶やすことのなかったお母さん。わたしの理想の女性だった。お母さんに少しでも近づくために、わたしは髪を伸ばしている。
「でもね、やっぱりお父さんときみは似ているんだよ。たぶん……そう、心の形がそっくりなんじゃないかな。だから親子で似たような表情になるんだ」
お父さんとわたしの心……あの人と――そっくり?
「違う……違うっ!」
「あの写真が全部物語ってくれたよ。『真実を写す』と書いて写真とはよく言ったものだ」
月城くんの顔がさらに近づいてきた。目が逸らせないほどの距離。
「これからは全部、俺の推測になる。でも、それほど外れたことは言わないつもりだ」
月城くんはわたしを見据えている。恐ろしいまでの清澄な眼差しだった。
「きみがいつからイタリアでヴァイオリンの修行を始めていたのか、詳しくは知らない。でも、俺の演奏を聴いた時期から推測するに、それが五年よりもずっと前からなのは間違いないね」
当たっている。わたしがイタリアへ渡ったのは、いまから九年前だ。
「それからきみは努力と研鑽を積み、やがてプロデビューを果たした。でも三年前、ひとつの転換期が訪れた」
ごくっと、わたしは喉を鳴らした。
「それが三年前の、中東の某国で起きた無差別テロだ」
どうして月城くんは、こんな自信を持って語れるんだろう。
「そのとき、きみの両親が巻き込まれた。そして、お母さん――麗子さんが崩れてきた建物の下敷きになってしまった」
なんで……お母さんの名前まで。
「ここですぐ、麗子さんを助け出していれば、あんなことにはならなかったんだろう」
あんなこと。
――まさか、月城くんはそこまで?
「でも、麗子さんのすぐ近くにいたはずの孝明氏は、そうしなかった」
――やっぱり月城くんは。
「瓦礫の下から伸びる腕……それが自分の妻のものとわかっているにもかかわらず孝明氏は、ジャーナリストとしての信念を貫いた。助けるよりも前に、現場の状況を撮影したんだ。そのとき撮影された写真が、ピューリッツァー賞を受賞した例の写真だった」
月城くんは、またわたしの右腕をつかんだ。
「この腕時計は、そのときにお母さんが身につけていたものだ」
「――――っ!?」
「テロに巻き込まれた衝撃で、この腕時計は時を刻むことを止めた。それがちょうど十時二十五分頃の出来事だったと、つまりそういうことだろう」
月城くんが身近にいるという事実とは別の意味で、心拍数が上昇する。
――見抜かれた。
あの血にまみれた悲惨な腕が、お母さんのものだという事実を。そして、そのときお母さんが身につけていた腕時計を、いまのわたしがしていることを。
「話はまだ終わらない」
月城くんの話は続く。
――もう、終わりにしてほしい。ここから逃げ出したい。
「麗子さんはそれからすぐに助け出された。まだ息があった。でも、意識はなかった」
「あ……あ……あぁ」
涙腺が決壊した。涙が止まらない。
お母さん……お母さん……っ! ――ベッドに横たわるお母さんに何度そう呼びかけても、まったく反応を示してくれなかった。
「やがて例の写真が公開された。あの腕時計から、被写体の腕が自分のお母さんであると推察するのは容易だったはずだ。それをはじめて見たときのきみの心中は、それこそすさまじい衝撃があったと思う。孝明氏にしてもそうだ。ジャーナリストとしての信念と、夫としての情愛がせめぎ合う苦しい中で撮影されたあの写真が、予想外に周囲から絶賛されてしまうんだから。自分の行動は正しかったのか、そんな葛藤を抱いたであろうことは想像に難くない。祝賀パーティーで彼が素直に喜ぶことができなかったのも、きっとそのせいだ」
嵐のようになっているわたしの内心をよそに、月城くんの言葉は止まらない。
「そして半年前……再び転換期が訪れた」
耳を塞ぎたい。視覚も嗅覚も触覚も……五感を全部拒絶したい。
「テロ事件以来、ずっと意識不明……昏睡状態だった麗子さんは、いまからちょうど半年前に――」
「だ――だめ――っ」
「――息を引き取った」
月城くんは、わたしの顔の横にあるフェンスをつかむ。半ば抱え込まれるような形になった。
「半年前……きみがヴァイオリニストとして公の舞台から姿を消した時期と一致する」
月城くんとキスができる距離。彼の瞳に映るわたしの表情は、絶望で塗り固められたひどいものだった。
「きみは人前でヴァイオリンを弾けなくなったんだ。だから逃げるように、プロであることをやめ、ここ日本へと帰国した。そうだろ?」
「な、なんでっ……」
「これこそ本当に推測なんだけどね……きみの家族関係は半年前……いや、もしかしたら三年前の時点で、決定的に壊れてしまったんじゃないか? それも修復が不能なまでに」
「ち、違うっ! 月城くんになにがわかるのっ!?」
恥も外聞もなく、わたしは叫んだ。
「わかるよ。なぜなら――」
――怖い。
――聞きたくない。
――逃げ出したい。
でも、逃げられない。
「この腕時計をいまでもしていることが、全部を物語っているよ。だってさ、母親の形見なら、大事にしまっておくのがふつうだろ。それが壊れた腕時計ならなおさらね。でも、きみは違う。ずっと身につけている。まるで誰かになにかを訴えかけるように」
それは――
「たとえば、きみのお父さんとかね」
「ち、ちが――」
「そうかな。だってお父さんが、お母さんの形見の腕時計をしているきみを見たらどう思うかな。壊れた腕時計をいつまでも身につけている娘。その腕時計が壊れた原因はなんだった? それはまるで、お父さんに『お母さんを助けなかった』という罪悪感を感じてくださいって、暗に言っているようなものじゃない?」
「なっ、なんで……なんで、そんなことがわかるのっ!?」
涙が止まらない。その事実は、それはクラウザー先生にすら話してないのに。
「もしきみとお父さんの関係が良好なら、その腕時計をわざわざ身につける必要はない。机の引き出しの奥にでも大事にしまっておけばいい。でも、きみは身につけている。――その理由はなにか……そう考えたとき、おのずと答えは導き出せる。もちろん、お母さんのことを忘れないという理由も少しはあるんだろう」
わたしの奥深くに潜む醜い闇。
「――いちばんの理由は、お父さんへの憎悪を忘れないためじゃないのか?」
誰にも踏み込まれなかったわたしの闇。
それが、ついに白日の下に晒された。
そして、わたしの思考は停止した。