Prologue 01

 蒼穹は抜けるように高く、大小様々な雲が気持ちよさそうに泳いでいた。
 雲の切れ間から太陽の光が射し込み、見事な陰影を海上に投げている。水平線を境に空の蒼と海の碧が混ざり、吸い込まれそうな光景を描いていた。
 船舶のデッキ上でそんな彩り豊かな世界を眺めながら、セイラ・ファム・アルテイシアは感慨深げな表情を浮かべていた。
 腰まで届きそうな、豊かな銀髪をかき上げる。鮮やかな髪が潮風になびき、近くを通りかかった夫婦は、優雅な銀の滝が流れるようなさまについ見とれてしまった。
 人目を惹く容姿だ。十代後半とまだ若く、女性にしては長身で手足が長い。ワールドクラスのモデルでもここまで完成されたプロポーションの持ち主はいないだろう。伸縮性のある黒いズボンとジャケットは体の輪郭をよりいっそう強調し、胸もとが大きく開いた灰色のシャツを着込んでいる。バストも豊満。
 通り過ぎかけた夫婦のうちの夫がまず立ち止まり、鼻の下を伸ばして眺めてしまうほどの引力。隣を歩く妻は、不満げな顔で夫の腕をつねることを忘れなかった。
 胸ポケットから着信音が響いた。セイラは無駄のない動作でスマートフォンを取る。今度は妻が、「あんなかっこよく電話取る人、見たことない!」と、内心かなり感動していた。
 
「なんだ?」
『はぁい、セイラ。おはよう――ああんっ、あっ、いいっ……あー、極楽』
 
 若い女性の艶めかしい声。セイラの顔が引きつった。
 
「……おい、詩桜里。まさか自慰行為をしながら電話してきているわけではあるまいな?」
 
 公共の場にふさわしくない言葉が突然出たのにびっくりしたのか、すでに通り過ぎて数メートルの距離にいた夫婦が何事かと振り返る。ふたりとも目を丸くしていた。セイラの男性のような口調も驚く要因のひとつだろう。
 
『そんなわけないでしょ! ジャグジーよ、ジャグジー』
「なに? まさかジャグジーの噴流と気泡で自慰行為を――」
 
 たしかに、詩桜里の声はスマートフォンの向こうで反響していた。バスルームにいることは間違いなさそうだ。
 
『違います! そんな中学生みたいなことするものですか。いい加減下ネタから離れなさい! まだ朝なのよ?』
 
 日本の中学生はするのか。ふむ、勉強になった――などとセイラは思ったが、口にはしなかった。
 
『あなた、いまどこにいるの?』
「散歩中だ。中央デッキをぶらぶらしている。いい天気だな」
『そうね。空がよく見える』
 
 セイラと詩桜里が宿泊しているのはスイートルームだ。ベランダに併設された豪勢なジャグジーバスがあり、そこにいる詩桜里も窓から大パノラマの海と空が望むことができた。
 
「で、なんの用だ?」
『……なんだったかしら』
「切るぞ」
『冗談よ! ほら、昼食をルームサービスか食堂のビュッフェ、どちらにするか決めてなかったでしょう』
 
 少し考えたあと、セイラが答える。
 
「ルームサービスがいいな。初日に食べた寿司は素晴らしかった。また食べたい」
『昼間からお寿司? 贅沢ね』
「今日が最終日なんだ。別にいいだろう」
『まー、それもそうね。お昼過ぎには日本に着くでしょうから、それまではのんびり贅沢に過ごしましょ』
 
 通話を終えたセイラはスマートフォンをしまう。相変わらず優雅な動きだったが、例の夫婦はもう近くにいなかった。
 船内放送を知らせるチャイムが響く。
 
『乗客の皆さま、おはようございます。朝の7時となりました――』
 
 滑舌のよい女性の声が、日付や天気、現在の航行地点などを爽やかに伝えた。
 あらためてセイラは、久々の休暇は上々だ、と考えた。
 日本の会社が運航するいわゆる豪華クルーズ客船で、固有船名はセレスティアル号。最大定員700人程度と比較的小型ながら、そのぶん船内は一流ホテルと肩を並べるほどに質の高いサービスに満ちている。
 セレスティアル号最大の特徴は、エンジンに直結された動力源「小型星核炉」の恩恵により、エネルギー補給なしで世界を何周でもできることだ。もっとも食料の補給は必要なので、永遠に航行し続けることは不可能だが。
 船員たちの教育は行き届いており、接客は申し分ない。日々の料理もレベルは高かった。それも今日で終わりかと考えると、セイラは少し寂しい気がした。
 1ヶ月ほどかかった太平洋一周旅行は今日で終わるからか、周囲の人々はどことなくもの憂げな雰囲気がある。
 季節は春だった。日本ではちょうど春休みに当たる時期で、家族連れなど日本からの旅行者が多い。3月の頭に横須賀港を出発し、ハワイを経由して太平洋に浮かぶ大陸「フォンエルディア大陸」を一周。そして今日の昼過ぎ、再び横須賀港に入港する予定だ。
 セイラと詩桜里は途中から乗船していた。フォンエルディア北部の港町から乗船し、10日ほどを船上で過ごす。仕事の虫であるふたりがここまでまとまった休暇を取れることはまれで、詩桜里は「きっとこれから先、10年は休暇がないんだわー」と半ば覚悟していた。
 セイラのすぐ近くで、帽子をかぶった小さな女の子が通り過ぎる。その後ろを、兄らしき少年が笑いながら追いかけていた。
 女の子の帽子が、突風に飛ばされた。高く舞い上がり、帽子はどんどん離れていく。女の子は涙声で帽子を取ってと兄に訴えている。しかしもう手に届く距離にないため、兄は困っていた。
 
 セイラは精神を集中させた。
 直後、脳が上位の次元を認識したような感覚を抱く。
 
 全身を電気のように駆けめぐるのは「魔力」だ。魔力は空に大地に海に生物に――世界のあまねく存在に満ちているとされている生命エネルギーの総称。
 魔力を操り、様々な現象を呼び起こす術を「星術」という。
 星術が新たな風を生み出した。その風は強い向かい風となり、飛んでいった帽子をとらえ、女の子の手に引き戻した。
 兄妹は最初、不思議な現象にぽかんとしていたが、やがて再び笑顔で走り去る。兄妹を見ていた周囲の人々も特に取り留めはしない。偶然の出来事と考えたようだ。
 午前7時というやや早い時間にもかかわらず、デッキ上は人の気配に満ちている。先ほどの夫婦のように散策しているカップルもいれば、手すりに寄りかかって海を眺めている家族連れもいる。

「…………」
 
 幸福色に包まれている空間の中で、セイラは自分の過去にこびりついた「暗黒」が浮き彫りになっていると感じた。
 このような幸福感が満ちる空間に、自分のような人間が――何度死刑になっても許されないような、極悪人がいてもいいのか、と。
 セイラの自問自答は、部屋に戻るまで続いた。


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