絶望が、祝福や希望に塗り替えられていた。
音が生きている。
一音一音すべてに、魂が宿っていた。
人間が感じうるすべての感情が、音という現象に宿り、聴く者の魂に直接語りかける。忘れかけていた記憶を、懐かしい情感を呼び覚ます。この場にいる人間すべて――いや、テレビやインターネットを通じて見て聴いている人々ですら、ピアノという楽器の神髄を垣間見た。
圧倒的な音の奔流が、この瞬間の時空の支配者となっていた。
セイラは呆然としてピアノの鳴奏を聴いている。ここまで意識を持っていかれたのは、これまでの人生で何回もない。
気がついたら、涙が流れていた。
止めどなく流れてくる旋律と、自分の魂が混ざり合うような感覚。
自分は救われてもいいのだろうか――こんな状況で、そんな錯覚めいたことすら思ってしまう。自分が犯してきた罪も、すべて許してくれそうな神々しい調べ。
やがて。
静かでもの悲しい音がいくつか跳ねたあと、静寂が訪れた。
演奏が行われていたのは十数分程度。しかしそのわずかな時間のあいだに、人生で感じる感情をすべて濃縮しても足りないような、圧倒的な質量が存在していた。
――あの少女は……?
真城悠という名前。この世界でもっとも愛しい人物と同じ名字。なにより、はじめて会った気がしないこの既視感。
――まさか……?
人質たちは、自分が置かれている状況を完全に忘れている。テロリストですら、隙だらけだった。
誰もが無言だった。人質もテロリストも、たったいま目の前で起こった奇跡を、実感できないでいるようだ。
悠はおもむろに立ち上がり、リーダー格へ歩み寄った。得体の知れない神々しさを感じたリーダー格は、無意識のうちに後ずさっていた。
「――お願いがあります」
リーダー格の返事はなかった。
「わたしを殺したら、それで最後にしてください。もう誰も殺さないで――」
自分の死より、自分以外の誰かの死のほうがつらい――それは虚勢でもうわべだけの願いでもない。彼女の本心だった。
リーダー格が拳銃を構える。狙うは悠の額。この距離では外しようがない。
彼はどういうわけか恐怖していた。この少女は、このまま生かしておくのはまずい――と。なぜだかわからないが、焦燥感にかられている。
しかしそのとき。
人質の誰かが「やめろ!」と叫んだ。
別の誰かが「殺さないで!」と叫んだ。
別の場所でも、似たような声が次々とあがる。それは瞬く間に広がりを見せた。
ほとんどの人質たちが、気が狂ったかのように叫んでいた。気持ちはひとつ。ピアノで奇跡を起こした少女を、なんとしてでも救いたい。絶対に殺させない。打ち合わせなどしている暇はなかったにもかかわらず、意志は統一されていた。
先ほどまで恐怖に怯えていた人質たちは、文字どおり生まれ変わっていた。
「くっ……!」
リーダー格は後悔していた。こんなことになるのなら、少女にピアノなど弾かせなかった。期限を待ち、さっさと殺せばよかった。
少女のピアノは、想像をはるかに超える高みにあった。
リーダー格はサブマシンガンに持ち替え、天井に向かって連射した。天井に吊されていたシャンデリアが破壊され、ガラス片が降り注ぐ。
人質たちが黙る。
忌々しそうに舌打ちしたあと、リーダー格が吠えた。
「それ以上騒ぐな! 殺すぞ!」
そのとき仲間のひとりがリーダー格に駆け寄り、耳打ちした。
「なんだと? ……まあいい」
ずっとオンの状態だったカメラに向き直り、リーダー格は落ち着いた口調で語り出す。
「身代金の支払いを確認した――」
人質たちに動揺が広がる。これは解放されるのに一歩近づいたのか。少女は殺されずにす済んだのか。まだ監禁は続くのか。しかし喜んでいいのか悪いのか、もはや冷静に判断する人間はほとんどいない。
「――ん?」
リーダー格が間抜けな声を出す。
突然のことだった。
スピーカーからシンプルなメロディが響きわたる。館内放送だ。童謡「七つの子」。日本人ならなじみ深いメロディだが、なぜこの状況で流れてくるのか、誰もわからない。その場にいる全員がきょろきょろと周囲を見渡す。
「なんだこれは? おい、どうなっている!」
リーダー格が怒鳴った。
「わ、わかりません」
「いいから止めろ!」
「そ、それが、こちらの操作を受けつけなくて」
「なんだと?」
仲間との押し問答が続いている。
テロリストたちにはじめて生まれた、決定的な隙だった。
――この隙を、セイラが見逃すはずもない。
セイラは左手に意識を集中させる。
細かく青白い光の粒子が、即座に拳銃の形に収束していく。
〈マテリアライズ〉――物質顕現星術。素粒子レベルにまで分解していた物質を、もとの形に戻して出現させる極めて高度な星術。金属探知機に引っかかることなく、銃器を持ち込める唯一の方法。
現れた拳銃は持ち主の髪の色を体現するかのように、銀色に輝いていた。オートマチック拳銃と、リボルバーとも呼ばれる回転式拳銃、双方を合わせたような独特のデザイン。しかしながら内部構造はそのどちらのものでもなく、完全に唯一無二の仕様だった。
その名を、「星装銃」。
まず弾丸が必要ない。発射されるのは圧縮されたエネルギー弾であり、実弾を装填する必要がない。魔力をエネルギー弾に変換しているため、使用者が戦闘不能にならない限り、ずっと使い続けることができる。エネルギー弾の出力も状況に応じて変化させることが可能で、昏倒による制圧から殺傷までをこの一丁でまかなうことができる。
唯一の欠点は、使用者を選ぶこと。特性のない、あるいは星術の訓練を受けたことがない人間にとっては、ただの精巧なおもちゃに成り下がる。つまり、大多数の一般人にとっては無用の長物でしかなかった。
実際、数年前にある人からこの銃を託されて以来、ずっとセイラとともに死地をくぐり抜けてきた相棒だった。
ゆっくりと音もなく立ち上がったセイラを見て、詩桜里が目を丸くする。左手に握られている星装銃にも気づいた。
「セ、セイラ?」
「行ってくる」
「え、ちょ――」
音もなくその長い足を動かし、疾走。瞬く間に距離を詰め、セイラはリーダー格の背後に肉薄した。絨毯のせいで足音はほとんど立たなかった。
セイラが星装銃を構えたところで、館内放送が唐突に終わる。
突然、テロリストたちの様子がおかしくなった。痙攣するかのように体を震わせ、口からはうめき声が漏れている。ひとりやふたりではなく、中央ロビーに存在するテロリスト全員に同じ症状が現れていた。
「がっ――があぁ――ぐぅ――」
リーダー格が悶え苦しみながら、カメラのほうへ向かっていった。見えているはずのセイラにはまるで興味を示さなかった。
――なんだ……?
セイラが眉をひそめつつ、星装銃を構える。
そして、リーダー格は手にしていた拳銃を、自分のこめかみに拳銃を突きつけた。
「――っ! 待て!」
セイラが制止するのと同時。リーダー格の拳銃の引き金が引かれた。
乾いた銃声。
こめかみの反対側から、血と脳漿の一部がぶちまけられる。リーダー格が即死したのは疑いようもなかった。倒れる彼の体がカメラに当たり、リアルタイム配信はここで中断する。
「いやあぁっ!?」
この悲鳴は悠だった。目の前で起こった残酷な事態に、彼女は膝からくずおれて気を失う。
小夜子と呼ばれていた女性が、叫びながら悠に駆け寄った。ほかにも、気を失ったり悲鳴をあげる人質たち。極限の肉体と精神状態が、ここにきて一気に弾けた。
ほかのテロリストたちも、自らのこめかみに銃口を向けていた。
セイラは星装銃を構え、次々にエネルギー弾を発射。エネルギー弾が直撃したテロリストたちは、自らの拳銃の引き金が引かれるより前に吹っ飛び、床に転んだ。
ひと呼吸のあいだに、3人のテロリストが床に倒れる。だがセイラが疾風迅雷の動きを見せても、ほか数名のテロリストは間に合わなかった。距離が離れていたため、セイラひとりでは対処できなかった。
つい先ほどまで人質全員を震えあがらせていたテロリストの多くが、自らの血で作った真っ赤な海に沈んでいる。
周囲を見渡しながら、セイラは気づく。
ひとり足りない。
合わせて14人のテロリストが倒れている。セイラは秒単位でテロリストたちの動向を記憶している。あの少女がピアノを弾く直前までは、確実に15人のテロリストがいたはずだ。
セイラは受付に走った。中にはレジスターやコンピューターが置かれている。受付内部で防犯カメラを随時チェックしていたであろうテロリストは、自殺を阻止できなかった。 椅子に座り、カウンターに突っ伏したままの死体をどかす。生温かい血がべっとりとついたコンピューターを操作し、防犯カメラの映像をチェック。
「……外でも同じような状況か」
コマ割りされた映像のいくつかに、テロリストの姿が映り込んでいる。合わせて10人程度。もっとも、全員が頭から血を流していることから生きてはいないようだ。
「セイラ! なんなのこれはっ!?」
詩桜里が来て、声高に叫んだ。
「わたしも知りたいさ。それより、わたしが倒した3人は目が覚めないうちに縛り上げたほうがいい。誰かに手を貸してもらってくれ」
「……え、ええ。そうする」
詩桜里はただちに行動した。近くにいた船員数人に身分証を提示。
国際犯罪捜査組織――International Criminal Investigation System。頭文字を取り、通称「ICIS(アイシス)」と呼ばれている。各国の警察機構の上位に位置し、広大な情報ネットワークを構築。世界規模で犯罪捜査を行う国際組織である。セイラと詩桜里はその捜査員であり、新たな赴任先である日本へ向かう途中、この事件に巻き込まれた。
モニターを見ていたセイラがなにかを発見する。隅に見えた人影。白装束に防弾チョッキとガスマスク。その人物はひとりで、廊下の端にある扉に入って消えた。ただし、この人物がこの中央ロビーから消えたひとりなのかは判断できなかった。
セイラはコンピューターを操作し、船内の見取り図を確認した。しかし、不思議なことにテロリストが入っていった扉の記述がない。よく見ると、見取り図には不自然な空白部分が見られた。
「詩桜里、船長を呼んできてくれ」
詩桜里はその場を船員に任せ、すぐに船長を連れて戻ってきた。船長の岸田達夫はまだ五十代になったばかりだったが、この3日間で一気に10歳は老け込んだように覇気を失っていた。
「この扉はどこにつながっている?」
セイラがモニター上で例の扉を指さした。
「そ、その先は……『ホワイトルーム』です」
小型星核炉を格納している領域の隠語。つまり、この船の心臓部分につながっている、ということになる。
「つい先ほど、テロリストのひとりが入っていったが」
船長は目を見開いた。
「そんな馬鹿なっ!? その扉は船長のわたしですら開ける権限がないんですよ! いったいどうやって……!」
星核炉――全世界にエネルギーを供給する、未知のテクノロジーの塊だ。全12基。日本にも太平洋側の離島に1基存在している。たった12基の星核炉だけで、全世界の年間消費エネルギーの7割をまかなっている。現代社会のインフラに欠かせない存在だ。
実は、星核炉の構造の大部分はわかっていない。星核炉の運営と管理を完全に牛耳っている大企業「ゾディアーク・エネルギー」が、情報をまったく外部に漏らさないためだ。そのため、星核炉は現代におけるブラックボックスの代表的存在だった。
小型星核炉は、文字どおり従来の星核炉を小型化したものとされ、主に大型軍用艦船の動力源に使われている。このセレスティアル号は、民間船籍としては数少ない小型星核炉を動力とした船だ。
しかし小型星核炉の整備や管理は、船の運航とは完全に独立している。小型星核炉にアクセスできるのはゾディアーク・エネルギーの関係者のみで、それ以外の人間はたとえ船長だろうと許されていなかった。これは軍用艦でも同じで、扉の先が見取り図に正確に描かれることはない。そのようになにも描かれない真っ白な領域から、「ホワイトルーム」と呼ばれるようになった。
「扉を開けるにはなにが必要か知っているか?」
「たしか……専用のカードキーと、指紋と網膜の認証が」
複製することが困難な代物だ。それでも扉を開けて中に入ったのだから、テロリストはそれらをパスしたと考えるのが妥当だった。
「船長、あなたは外部へ連絡を試みてくれ。不可解な事態だが、そのまま伝えるしかあるまい」
「わ、わかりました」
「詩桜里――」
「はあ。様子を見に行くって言うんでしょ。外からの突入を待ってからのほうがいいんじゃ? ホワイトルーム内部なんて完全に治外法権で、ICISの捜査権なんてないのと同じよ?」
「そうかもしれないが、非常事態だ。それに、なぜか胸騒ぎがするんだ」
「……そう。まあいいわ。好きにしなさい」
詩桜里はセイラの勘を信じていた。
セイラはそのことに心の中で感謝し、駆け出した。