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 翌日。せっかくだからこのまま大掃除しようという話になり、3人で一日中掃除に明け暮れていた。それであらためて思ったことがある。
 この家は広すぎる。
 さっちゃんは5年前まで、ご両親と3人で暮らしていたらしい。4人家族だった僕の実家の4倍は広い家に、たった3人。普段の掃除はどうしてたのとさっちゃんに尋ねると、「お母さんがきれい好きだったから、日々こまめにやってたよ。でも本格的なものは、専門の業者に頼んでたね」だそうだ。
 いままで興味なかったけど、格差社会とは本当に存在していたらしい。
 
    
 夜の8時を過ぎると、バスの中は人もまばらだった。バスは住宅街のあいだの県道を、最寄り駅の方向へ走っている。すれ違いざま、反対方向に向かうバスは混んでいるのが見えた。
 薄々気づいていたけど、このあたりは高級住宅街のようだ。住宅は軒並み大きく、敷地も広い。止まっている車も外車や高級車が多かった。
 長い下り坂に差しかかったとき、席の隣に座っていたさっちゃんが、切なげな表情で窓の外を見つめていた。
 20分ほどで駅前のターミナルへ着く。そこからは徒歩で、商店街が伸びる通りへ向かった。
 数分ほど歩くと、八階建てのマンションが現れる。その一階部分は理容室や中華料理店などの店舗が並んでいた。
 右端にある店舗の前でさっちゃんが一度立ち止まる。すぐ横に「Bar Charlotte」と書かれた立て看板があった。
 
「ここ?」
 
 さっちゃんはうなずいた。彼女が木製のドアを開けると、カラン、という軽快な音が鳴る。
 店内は意外に広く、照明が控えめで落ち着いた雰囲気を醸していた。
 
「おお、さっちゃんじゃないか!」
 
 そんな大きな声で真っ先に出迎えてくれたのは、恰幅のよい坊主頭の男性だった。四十代後半から五十代くらいで、人好きのする笑顔を向けてきている。
 
「お久しぶりです。奥さんは帰ってきた?」
 
 男性は苦笑いを浮かべながら首を横に振った。
 さっちゃんが僕に向く。
 
「こちらが店の雇われマスター。バツイチで、新しい奥さんに新婚半年で逃げられたの」
「逃げられたんじゃない。俺が追い出したんだよ! ……んで、そちらが噂の彼氏さんかい? ナオちゃんから聞いてるよ」
 
 僕がぺこりとお辞儀をして軽く自己紹介をすると、マスターは笑いながら僕の背中を勢いよく叩いてきた。
 
「あの堅物のさっちゃんを堕とすとはどんな男かと思ってたけど、意外にふつうだね」
 
 はあ、としか返せなかった。隣でさっちゃんがくすくす笑っている。
 カウンターの奥から、バーテンダーの格好をした女性が現れる。それがナオちゃんだと気づくのに数秒ほどかかってしまった。
 彼女は昔からここでバイトしているそうだ。今日は急遽助っ人を頼まれたらしくて、掃除が終わりかけてた夕方頃、苦い表情をしながら出かけていた。
 店の奥に案内される。落ち着いたデザインのパーテーションで区切られた一角。丸いテーブルを囲むようにソファが置かれている。テーブルの上に予約席と書かれた札が置いてあった。
 僕とさっちゃんは向かい合わせで座った。よく考えたら女性と飲食店に入ったのはこれがはじめてで、にわかに興奮してくる。ところがそれを見透かしたようなタイミングで、ナオちゃんが僕にメニュー表を突き出してきた。
 
「キスくらいなら許すけどお触りはだめ。挿入なんてしたら警察に電話するから。中出しは極刑」
「まさか僕に言ってるの?」
「ほかに誰がいるのよ。で、注文は?」
 
 僕はハイボールを、さっちゃんはウイスキーのロックを注文した。おつまみは適当に見繕ってもらう。
 ナオちゃんが去ってから、僕はさっちゃんを見た。
 
「きみってさ、初対面の人を紹介するポイントがおもしろいよね」
「おもしろいならいいんじゃない?」
 
 さっちゃんはけらけら笑っている。そのせいで僕がどんな目に遭ったのか忘れてしまったらしい。まあいいけど。
 
「そんなことよりたーくん、世間話しようよ。ほら、お互いのことまだよく知らないから」
 
 それからしばからく、僕とさっちゃんはお酒を飲みながら他愛もない話をした。本当に他愛もなくて、でも楽しくて、僕は久しぶりに心の底から笑った。
 さっちゃんもアルコールがまわると饒舌になり、よく笑う。最近まで死のうと考えていた人間には見えない。ナオちゃんもそんなさっちゃんを仕事の合間にちらちらと見ていて、少し安心したような表情を浮かべていた。
 けどナオちゃんの表情は、次のさっちゃんの言葉で曇る。
 
「たーくんが死を意識したのはいつ? 今回死にたいって思った時期じゃなくて、『死』という現象そのものを考え始めたとき」
 
 空いたグラスを下げに来ていたナオちゃんが、うんざりしたような表情を見せる。
 
「死とか自殺とか、さっちゃん昨日からそんなのばっかり。なんでわざわざそんな暗い話するのよ」
 
 さっちゃんは心底不思議そうにした。
 
「国籍とか時代とか文化とか関係なく、全人類に逃れようなく訪れるものでしょ。なのにどうしてみんな、若い頃から死について語り合わないのか、あたしからしたらそっちのほうが理解できない」
 
 自信満々のさっちゃんに対し、ナオちゃんは音をあげたのか「もう好きにして」と言い残して去って行く。背中が少し哀しそうだった。
 
「ナオちゃんって変わってるかと思ってたけど、実はまともなんだね」
「そうだよ。――それで?」
「小学5年生のときかな。兄貴から借りたゲームやってたんだけど」
 
 さっちゃんがデジタルなものに弱いのはすでに知っていた。だからけっこう難易度高いかもと思いつつ説明を続ける。
 
「RPGってわかるかな」
「……ドラクエみたいな?」
 
 さっちゃんは自信なさげだったけど、それで完璧に正解だ。
 
「そう、まさにそのゲーム。あれってさ、戦闘でHPがゼロになるとそのキャラクター死んじゃうんだよ。『しに』って表示されるの」
「教会行けば生き返らせてくれるだよね。お金払ってさ」
 
 意外に詳しかった。子どもの頃、友達の家で同じシリーズのゲームを見たことがあるらしい。さっちゃん自らプレイしたことはないけど、だからなんとなくわかるとか。
 
「でもさ、その教会の横とかにお墓があるんだよ。それって誰か死んで埋葬されてるってことでしょ。え、なんでこのゲームの世界の住民は、主人公たち以外誰も生き返らせないんだって、子どもながらに疑問に思ってね。それから死ってなんだろうって考え始めたの」
 
 死とはなんだろうか。
 それを考え始めた当初はかなり怖かった記憶がある。両親や友達や先生に訊いても、気の利いた答えは返ってこなかったから余計に。
 まあ、みんな死んだことないから当然だ。もっとも、時間が経つにつれてその恐怖は薄らいでいったけど。
 
「さっちゃんは?」
「あたしは小学4年生のときかな。うちに猫がいたんだ。三毛猫で、あたしが生まれる前から飼ってたから、もうかなりおばあさんだった」
 
 記憶をたどるように、さっちゃんは目を細めた。その仕草が猫に似ていて、僕は少し笑ってしまった。
 猫の名前はミーケだったそうだ。「三毛猫から取ったのかな」と僕が尋ねると、「お父さんが若い頃好きだったアイドルグループから取ったみたいだよ」とのこと。
 
「飼い猫って、寿命が迫ると飼い主の前から姿を消すって聞いたことある?」
「うん」
「ミーケもそうだったの。あたしたちが家族旅行に行ってるあいだにいなくなってて、あたし泣きながら、ずっとご近所を探しまわったんだよ」
「でも見つからなかった?」
「うん。ナオちゃんにも手伝ってもらって、ご近所のほとんどの電柱に張り紙したりね。それからすぐ、事情を聞いたクラスメイトの女の子があたしに言ってきたの。『ミーケはもう死んじゃってると思うよ』って。その子は猫が姿を消す理由を知ってたみたい」
「ご両親は説明してくれなかったの?」
「最初はあんまり。これも勉強だって、あたしにはなにも言わずに自由にさせてたみたい。でもあたしがあまりにも参ってたから、少しあとに説明してくれたの。そこではじめて死っていう現象を認識した。それからずっと、いまに至るまで死についてはぼんやり考えてたかな」
「で、考えすぎた結果、僕はさっちゃんと出会ってしまった」
「事故にもほどがあるよね」
 
 ふたりして笑った。
 向こうで聞き耳を立てていたらしいナオちゃんに睨まれたから、さっちゃんは話題を変える。
 
「ねえ、そう言えばたーくんってお兄さんいるの?」
「いや。いた、っていうほうが正しいね」
 
 たぶん、ちょっと酔っ払っていたんだと思う。だから特に躊躇することなく口にしていた。
 
「自殺したんだ」
 
 笑っていたさっちゃんが急に真顔になった。ちょうど追加のお酒を持ってきてくれたナオちゃんの手も止まる。
 チェイサーの水を口にしてから、さっちゃんが尋ねてきた。
 
「いつ?」
「僕が23のときだから、6年前かな。兄貴は28だった。……詳しく聞きたい?」
 
 さっちゃんの瞳に好奇心の輝きがわずかに宿った。


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