8

 まず、僕の家族について語ろう。
 うちは4人家族で、埼玉県の最北部――群馬県に近いとある住宅街の一軒家に住んでいた。 家族仲は比較的良好だったと思う。些細でくだらないけんかは多かれ少なかれあるけど、いたって平穏な家庭だ。両親はふたりで旅行に行くことがよくあるくらいだから、夫婦仲も決して悪くない。僕と兄貴の兄弟仲も取り立てて悪いことはなかった。
 父は銀行員で、その当時は59歳だった。職場での父は見たことはないので語れないが、家では寡黙というほどおとなしくはなく、おしゃべりというほど口数が多いわけでもない。
 母は兄貴が死ぬ半年ほど前に、長年勤めていたスーパーの仕事を定年退職していた。性格をひと言で表すなら楽天的。悪い表現だと脳天気。
 僕はこの家の次男だった。職業はシステムエンジニアで、当時はすでに都内の企業に勤め、実家を離れていた。企業といっても零細で、専門学校のときにお世話になった先生が立ち上げた会社に、そのまま運よく採用されただけだ。給料を思い出すと泣けてくる。
 そんなことはどうでもいい。
 我が家の長男について語ろう。兄貴は死んだ時点で28歳。その年の8月まで生きていれば29歳になっていた。基本的な性格は真面目で几帳面。繊細でやや潔癖、それから妙に神経質なところもあった。そんなにしゃべるほうでないけど、総じて寡黙というわけでもない。このあたりは父の血筋を感じる。僕とは好きなゲームやマンガの趣味がよく合い、貸し借りを頻繁にしていた。
 そして、兄貴は引きこもりだった。
 高校2年のときから死ぬまでの10年以上、兄貴はほとんど家の外に出ることがなかった。兄貴は最後の最後まで本心を語らなかったから、どうしてそうなったのかいまでは誰もわからない。
 僕たち家族は、長男が引きこもりであるという事実はさておき、表面上ではいたって平穏な家庭の中にいると思っていた。同じ屋根の下に住み、それぞれを信頼し、心配し、ときにはぶつかり合う、普遍的な家族という構図の中。
 でも違った。
 兄貴が日々感じていたはずのつらさや苦悩。そして、本人ではどうしようもできないもどかしさ――それを正確に推し量ることのできなかった――いや、真剣に考えようとしていなかった、考えていたつもりで結局はなにもしていなかった家族の希薄。
 最近になってずっと考えていた。
 僕たち家族は結局のところ、心がバラバラだったんだ――と。


 兄貴が進学した高校は、市内でもそれなりに偏差値の高い学校だった。
 兄貴自身、成績は優秀というわけでもなかったが、決して悪くもなかった。あとになって聞いた話だと、特に体育はがんばっていたそうだ。部活は卓球部に所属し、どこに売っているのか、書店でもあまり見かけない卓球の専門雑誌を定期的に買っては読んでいた。家でラケットの手入れを丁寧にやっていたのをよく見かけた。
 ところが2年生の秋頃、兄貴は急に学校へ行けなくなる。
 
「どうしたの?」
 
 母が尋ねた。
 
「……疲れた」
 
 それ以上はなにも言わなかったそうだ。いじめに遭ったとか、担任の先生と馬が合わないとか、勉強についていけなくなったとか、そういうわかりやすい理由があったわけではない。突然、緊張の糸がぷつんと切れたように、兄貴は登校することをやめた。
 実は小学生の頃にも、兄貴は不登校になっていた時期があった。でもそれは一時的で、1年くらいで再び登校するようになったとか。このあたり僕はよく覚えてなくて、あとになって両親から聞いた。
両親は兄貴の不登校をそこまで深刻に考えていたわけじゃないはずだ。小学生時代に不登校になったけど、また登校するようになったという事実がしっかりと存在していたから。
 兄貴が死んだ直後に、父が言っていた。

「うちの子なら、絶対に立ち直ってくれるものだと信じていた」
 
 父だけでなく、母や僕もどこかでそんなことを考えていたのかもしれない。
結論を言うと、この考えがそもそも間違いだった。
 不登校が始まった当初は、まだ兄貴も外に出ていたような気がする。といっても世間体を気にしてか、ふつう学校にいるような曜日と時間帯は避けて、土日や祝日などに限られていたと思う。出かける理由も、近所のコンビニに少年誌やマンガを買いに行くとか、その程度のことだったはずだ。
 兄貴の不登校は年をまたいで、やがて春になっても続いていた。学校側からこのまま留年するか、それとも退学か、という話が両親にあったらしい。その旨を兄貴に伝えると、彼はそこまで迷うことなく退学を選んだそうだ。
 それから本格的な引きこもり生活が始まった。引きこもりには様々な形態や例があるけど、兄貴の特徴は以下のとおり。
 まず、家の外――正確に記すなら敷地の外に出ることはできないが、家の中ではふつうに生活している。基本的には自室にいるが、自室の外にも平気で出られる。当然、家族との会話もある。朝や昼はともかく、夜は家族みんなで夕餉の席を囲むことが多かった。
 余談を少々。
 さっちゃんちに比べたら猫の額のようなものだけど、うちの庭はそれなりに広いほうで、車が2台止まっているほかに、自転車数台と僕のバイク――当時は原付二種のスクーターが置いてあった。
 積雪のある地域ならどこでもそうだろうけど、家の前の道路を近所の人たちで雪かきするのが恒例になっている。しかし兄貴が雪かきする範囲は庭の中だけだった。まるで彼にしか認識できない結界でも張られているかのように、敷地の外には一歩たりとも出られない。
 いま思えば――
 結界や壁のようなものは、兄貴だけが外界に向けて張っていたわけじゃない。むしろ兄貴も含めた家族全員の心の中にあったのだと感じる。お互いに深く踏み込もうとしない、核心に触れないようにしようという、自己保身の深層心理が働いていたように思えてならない。みんながみんな、傷つけ合いたくなかった――そんな気がしてならない。
 兄貴が引きこもっていた期間のうち、彼が敷地の外に出たのは本当に数える程度で、年を追うごとに回数が減っていった。
 家の中での兄貴をもう少し語ろう。
 正確な時期はさすがに忘れたけど、家事のいくつかが兄貴の仕事になっていた。まず、洗濯物の取り込み。これはほぼ兄貴の専任だった。二階のベランダに母が干した洗濯物を、午後3時前後になると兄貴が取り込む。ふだんのその時間帯、僕は学校があり、父と母は仕事で間違いなく家にいない。
 風呂掃除も専任だった。掃除したあとは風呂の栓をして、脱衣所にタオルを敷く。毎日干しているバスタオルも、家族全員分きれいに畳んで置いておく。あとは夜、お湯張りのボタンを押すだけ、という状態にいつもしてくれていた。
 郵便や宅配便の受け取りも、みんな兄貴に任せることが多かった。特に、兄貴以外に間違いなく家人がいない時間帯に荷物が届くとわかっている場合、兄貴に言っておけばだいたい受け取ってくれた。兄貴が家族以外との人物と接触する機会は、たぶんこれくらいだっただろうか。 そのほか、母の帰りが遅くなったときなどに、夕食を作る手伝いなども頻繁にやっていた。後片づけの洗い物も、毎日ではないけど兄貴が担当していることが多かった。
 こんなエピソードがあった。僕がまだ学生だった頃の話だ。夕食よと母に呼ばれ、僕と兄貴はリビングのある一階へ降りていった。父は仕事でまだ帰ってなかったと思う。
 テーブルには、ご飯に味噌汁、それと小皿に盛られた、なにやらポテトサラダのようなものがあった。けど、下にレタスが敷かれているものの、よく見るとサラダではない。これがおかずの主役のようだった。
 
「これ、なに?」
 
 僕が尋ねた。
 
「コロッケの中身」
 
 けろりとした様子で、母が答えた。
 僕と兄貴は「なんだそりゃ」と言い合うように顔を見合わせた。たしかにその日の朝、「夕飯のおかずはコロッケね」と母が言っていたのは記憶に残っていた。そして目の前にある品は、蒸かしたジャガイモに、炒めたタマネギと挽き肉を混ぜ合わせたものだ。これに衣をつけて油で揚げれば、コロッケになるのは言うまでもない。
 
「なんでコロッケじゃないのさ」
 
 コロッケが好きな兄貴は不満そうだった。
 
「中身は作ったんだけど、なんだか疲れちゃって」
 
 母はコロッケを作ることを途中で放棄したのだ。そのために夕食のおかずが「コロッケの中身」という前代未聞の結果になってしまった。もっとも塩や胡椒で味つけしていたから、食べられるものではあったわけだけど。
 僕と兄貴は笑った。「料理人が途中で投げ出すとは何事だ」「いくらなんでもテキトー過ぎる」「味噌汁ちょっと冷めてるぞ」などという僕や兄貴の文句やからかい言葉に、母は「手伝いもしないで文句を言うな!」という、もっともな正論を言ってきた。
 やはり歳のせいか、仕事から帰ってきてから夕食の準備することが、母にとってはそれなりにつらくなったらしい。そのあたりの心境はぽつりぽつりと、以前から母の口から何度か出ていた。
 このエピソードが、兄貴が夕食の準備を手伝うようになった直接の原因になったかと言えば、さすがに言い過ぎだ。それでも、僕がほとんどやらないほかの家事でも、兄貴が率先してやるようになったのは間違いない。特に最後の1、2年は、夕食の時間が近づけば兄貴は自室から出て、キッチンに向かっていった。母が頼まなくても、率先して手伝っていた。これがどれほど助かっていたのかと、兄貴が死んでから家族全員、強く思い知らされたのだった。
 兄貴が文句をほとんど言わず、家事をやってくれていた理由。もちろん、誰も強制はしていない。
 自分が引きこもりであるという負い目があったからか。
 なにも社会的で生産的な行動はしてないけど、家の中で家事は手伝っているという、一種の免罪符が欲しかったからか。   
両親の心配を少しでも軽くしようという名目で、実は非難されることを恐れた、いわば自己保身なのか。
 ずっと引きこもっている自分、その状況からまったく抜け出せない自分、という明らかな現実から目を背けたいがための逃避行動だったのか。
 それとも、本人しかわからないほかの理由か。もしくは、そのようないろいろな要素が複合的に絡まり合った結果だったのか。
 ただ、どんなに理論や想像を展開しても、兄貴がもうこの世にいない以上、真実は永久にわからない。
 
 
 兄貴が引きこもりになって、家族はさすがになにもしなかったわけではない。特に母はいろいろと行動していた。中でも引きこもりやニートなどの社会問題を抱える家族らが集う集会には、何度も足を運んでいた。心療内科の先生にも相談していたらしい。
 いまの僕ならわかる。自ら死を選ぶような精神状態は決して正常じゃない。ただし、兄貴がいつ頃から病んで「異常」になってしまったのかは、もう未来永劫わからない。無理にでも病院に連れて行けば、もしかしたら結果は変わっていたかもしれない。
 もちろん、変わってなかったかもしれない。
 僕が20歳くらいのときだったと思う。専門学校からの帰り際、高校時代にバイトしていたコンビニに寄ってみた。すると店長から「最近ずっと人手不足なんだけど、誰か働いてくれそうな人身近にいないかい?」と言われた。
 それをさりげなく兄貴に伝えてみた。たぶん僕の兄貴ってだけで面接しなくても受かるよ、とつけ加えて。これに対して兄貴はなにも言わず、ただ拒絶の雰囲気だけが伝わってきた、とだけ記憶している。僕はそれ以上なにも言わなかった。
 まあ要するに、このアプローチは意味がなかったわけだ。
 父は兄貴に対して、なんのアプローチもしていなかった。本人が自ら行動し始めるときまで待つ、が一貫したスタンス。別に責めるわけではない。これは父の生来の性格的なものだから、いまさらどうしようもない。
 ただし、兄貴が死んだその日。
 
「こんなことになるんじゃ、もう後悔しか残らないよ!」
 
 と、めったに負の感情を出さない父が、見たこともないほど動揺し、本気で後悔していた姿は一生忘れられないだろう。
 結果的に、家族の行動がどれだけの意味があったのか。
 どう考えても、無意味だった、としか結論が出てこない。
 やはり、深く踏み込まないのだ。
 兄貴の心に。
 母も僕も、会話のキャッチボールが1回や2回で終わってしまっていた。兄貴の反応を見て、これ以上会話しても無駄だと勝手に判断して。
 果たしてそれはキャッチボールと呼べるのか。
 どこかで「本人の問題だから」という先入観がなかっただろうか。結局、答えを出すのは自分自身。だから家族は、本人から答えが出てくるまで静かに待っていよう――いつからか、そんな雰囲気や流れのようなものが、我が家の中に満ちていった。


 ――そして6年前のあの日、兄貴は首を吊った。


この記事が気に入ったら
フォローしてね!