10

 さっちゃんちの居候になって2週間が経った。
 僕はまだ無職だった。そんな僕に対して、ナオちゃんはことあるごとに「住所不定無職のたーくん。きっとそのうちゴクツブシって虫けらに進化するね」と優しく呼びかけてくれる。
 
「どうやったらナオちゃんに好かれるのかな」
 
 土曜日の朝、僕とさっちゃんはテーブルを挟んで朝食を食べていた。ナオちゃんは昨日――正確に記すなら今日の午前2時頃までCharlotteの仕事があって、まだ起きてこない。
 
「そこまで心配する必要ないと思うよ。たしかに好かれてはないだろうけどさ、心底嫌われてるわけでもないから」
「そうかな?」
「だってナオちゃん、本当に嫌った男は徹底的に認識しないもの。嫌いって感情を抱くことすら嫌になるらしいよ。悪口を言われてからかわれているぶん、たーくんはまだ救いがある」
「過去に男となにがあったの?」
「たーくんなら話してもいいと思うけど……」
「やっぱり知ってるんだね」
「もちろん。ナオちゃんが16歳の夏に処女を失って、いままでどんなクズな男と付き合ってきたか全部知ってるよ。聞きたい?」
「うん」
「でもなぁ、2人目くらいまではまだ笑い話で済むんだけど、それ以降になるとちょっと冗談じゃ済まない話になって。しかも朝っぱらから」
「じゃあやめとく」
 
 その後朝食を終え、さっちゃんと一緒にキッチンで後片づけをする。一緒にキッチンに立って作業しているだけなのに、信じられないくらい楽しかった。実際、「たーくん、顔がにやけているよ」と苦笑交じりに言われてしまうくらいに。
 
「いま、死ななくてよかったって思った?」
 
 お皿を拭きながら、さっちゃんに問われる。僕はすぐに「うん」と即答した。
 
「実は、あたしも」
 
 お互い照れた。
 そのとき、殺気のような気配を感じて振り振り返る。
 ナオちゃんが背後に立って、僕を睨みつけていた。寝不足の上に二日酔いが重なっているのか、目は充血していてすっぴんの肌は血色が悪い。
 怖い。僕が子どもだったら絶対に泣いている。
 とりあえず「おはよう」と挨拶すると、ナオちゃんは「ふん」と鼻を鳴らして冷蔵庫に向かった。すれ違いざま「爆発しろ」とか言われたような気がする。
 ナオちゃんは牛乳パックの中身を一気に飲み干したあと、さっちゃんに言った。
 
「マスターがね、またしばらくバイトしないかって」
「新しい女の子雇ったとか、このあいだ聞いた気がするけど」
「突然辞められたんだって。だからわたし、昨日臨時出勤したんだよ。いつもそう。マスター人徳がないの。わたしとマスターとやなちゃんだけじゃまわらないって。店けっこう広いんだし」
 
 自分の愚痴が頭にがんがん響いたのか、ナオちゃんは額を押さえる。
 やなちゃんとは、昔からCharlotteで働いているバーテンダーの男のことだ。僕とさっちゃんが行った日は調理場で働いていて、挨拶がてら少しだけ会話した。スキンヘッドが素敵に輝いていた。
 その後、僕とナオちゃんはテーブルに移動した。さっちゃんはコーヒーを淹れるため、キッチンに残る。
 
「さっちゃんってCharlotteで働いたことあるの?」
 
 キッチンでは手動のコーヒーミルがガリガリと気持ちのいい音を立てている。それをバックミュージックにしながら、僕はナオちゃんに訊いた。
 
「たまにだけどね。けっこうお客さんに人気あるんだよ。ほんとたまにしかいないから、働いているさっちゃんと出くわすと御利益があるってもっぱらの噂」
「へえ」
「ねえ、たーくんからも頼んで。いまほんとピンチなの。これ以上人手が足りないと、嫌気が差したわたしが辞めて、マスターとやなちゃんが過労死しちゃう。まあ別に構いやしないけど」
 
 ナオちゃんはけろっとしていた。
 
「そういえば、さっちゃんていままでどんな仕事してたの?」
 
 これまでさっちゃんを見てて、労働という言葉がまったく浮かんでこないのは不思議だった。浮世離れしてるというか、世慣れしすぎて世間に絶望したお姫様というか。僕と出会う前からずっとそんな雰囲気だったのだと感じている。
 
「この家見ればわかるでしょ。このあたりの大地主で、大昔から超が3つか4つくらいつく資産家なんだから。ご両親の遺産を相続して、さっちゃんは働かなくても食べていけるの」
「めっちゃ羨ましいんだけど」
「さっちゃんって昔からお金に執着しないんだよね。だからほんと気が向いたときにしか働かないの。猫みたいに。ねえ、あんたからも頼んでよ」
 
 さっちゃんは「まあ考えとく」とだけ言って返事を保留にしていた。ナオちゃんいわく、この反応は芳しくないらしい。
 
「ナオちゃんが頼んでもだめなら、僕なんかもっとだめじゃないかな」
「だってあんた、さっちゃんの彼氏でしょ……にやけんな、気持ち悪い」
「ごめん」
「あんたさ、さっちゃんとするまで童貞だったてのは本当みたいだね。反応が中学生みたいだもん」
 
 恥ずかしくなって照れたところに、トレイを持ったさっちゃんがやってくる。彼女は会話が聞こえていたのか、軽く笑っていた。そしてコーヒーカップを置きながら言う。
 
「ねえ、たーくんがCharlotteで働いてみれば?」
「僕が?」
「うん。だっていま仕事探して……あれ、探してなかったっけ」
「探してないよ」
 
 たしかにここでしばらく居候するなら、いつまでも無職というわけにはいかない。それはわかっちゃいるけど、探す気力がなかった。
 基本的に働きたくない。
 いや、そもそも仕事を探すよりも現住所を確定させることのほうが重要だろう。この家に転居届でも出したほうがいいのだろうかとしばらく考えていた。
 僕の即答に、ナオちゃんの肩ががっくりと下がっていた。
 
「あんたこのままヒモになるつもり?」
 
 それも悪くないなと、ちょっと思った。
 
「あんた、考えてること顔に出るのよね……ねえさっちゃん、あなたの彼氏が無職でプータローでゴクツブシだなんて、わたし我慢できないんだけど」
「別に気にしないかな。あたしも似たようなものだし」
 
 ナオちゃんの肩がさらに下がる。それを見たさっちゃんは不思議そうな表情をしていた。
 
「だって、なんで働くのかって、お金を稼ぐためでしょ。でも、あたしは老後のこと心配する必要ないくらいの貯金あるし。年金もちゃんと払ってるよ」
「それはあなたのご先祖様やご両親が、汗水垂らして働いてきて、やっと生まれたお金でしょ」
「そうだけど、遺産相続で土地も家も銀行口座のお金も、いまはあたしのだよ?」
「そ、そうなんだけど……そうじゃないっていうか……えーと、たーくん!」
 
 助け船を求められたらしい。とりあえず、コーヒーを口にしながら考えをまとめる。
 
「さっちゃんってさ、将来なりたかった職業ってある?」
 
 あまり関係ない質問だけど、さっちゃんはコーヒーをひと口飲んでから答えてくれた。
 
「強いて言えば幼稚園の先生とか保育士だったかな」
 
 さっちゃん子ども好きだもんねと、ナオちゃんがつけ加えた。
 
「子どもはみんな善良だからね。嘘をついてもかわいいものだし。人類みんな子どものまま成長しなければいいのに、って思う」
 
 同感だ。
 
「でも、なろうとしなかったの?」
「ううん。あたし、こう見えても大学には進学したんだよ。そっち方面を専攻してね。でも途中であきらめて、2年くらいで中退したの」
 
 そう言うさっちゃんはあっけらかんとしているけど、なぜかナオちゃんが神妙な顔をしている。気になるけど、とりあえず話を進めることにする。
 
「僕ってさ、特にシステムエンジニアになりたかったわけじゃないんだよね」
 
僕の前職はすでにふたりに話していた。話が急に変わっても、ふたりは黙って聞いてくれる。
 
「子どもの頃からパソコンが好きでよくいじってたんだ。自作パソコンっていうのをはじめて組んだのは中学生のときだった。あれは楽しくてわくわくしたね。で、その流れで高校も情報処理を優先して学んで、その後はIT系の専門学校に進んだの。んで、卒業と同時に運よく就職できたってだけの話。最初からシステムエンジニアになろうとは考えたこともなかった」
「つまり、なんとなく自分の得意分野を歩いていたら、システムエンジニアになってたってこと?」
 
 さっちゃんは話が早かった。
 
「そういうこと。それで、その会社ではほぼ創立メンバーだったし、年齢が上がっていくにつれて責任とかしがらみとかが増えてきてさ。それが嫌になっちゃったってのもあるんだよね。『あれ、僕このまま一生エンジニアとして生きていくのだろうか。ずっとパソコンのキーボードかたかた打ち続けていくのか。ていうか一生働き続けないといけないのか。なんだこの糞みたいな世界は』……そんなこと考えたら、心の底から愕然としちゃって」
 
 まだお金を払って生き返らせてくれる世界のほうがマシかもしれない。あれはリセットもあるし、最初から始められる。だからみんなハマるのかもしれない。
 
「それで死のうって思ったの?」
「ほかにもいくつか要因はあるんだろうけど、それがいちばんはっきりしてるかな。……わかってくれる?」
 
 大きくうなずいてくれたさっちゃんの横で、ナオちゃんがぶんぶんと首を振った。
 
「全然わからない! なんでそれでいきなり死っていう選択肢が出てくるの? 会社辞めて新しい仕事探せばよかったじゃない!」
 
 ナオちゃんはいつも正論だ。
 
「たぶん、そうしたところで結局変わらないのかなって思った。だって僕、やりたいことなんかなかったんだよ? そりゃ、今度発売されるゲームが欲しいとか、彼女欲しいなぁとか、そういう一時的な欲求はあったよ。でも、一生これを生業にして生きていくんだって思えるようなものは、僕は持ち合わせていなかった。誰だっけ……将来に対するぼんやりとした不安、とか書き残して自殺した文豪いたよね。川端康成?」
 
 さっちゃんが芥川龍之介だよと即答してくれた。
 
「僕、そのエピソードを最初に知ったときは意味わかんなかったけど、『あ、死のう』って考えるようになってからはすんなりと理解できるようになった」
 
 不意に、兄貴の死に顔が脳裏をよぎる。遺書を残さず逝った兄貴は最後なにを思って、なにを感じていたんだろう。兄貴の死に顔には、どんな感情も浮かんでなかった。苦痛も怒りも哀しみも絶望も、もちろん幸福もなにもない無表情。
 
 ただひたすらに――無。
 
 僕がきっと暗い顔をしたからだろう。ナオちゃんが少し怯えたような表情で僕を見ていた。それと相対するように、さっちゃんは静かに微笑んでいる。それに気づいたナオちゃんが、なんで笑っているのか意味がわからないといった感じに目を細めた。
 
「ナオちゃんはCharlotteの仕事好き? 話を聞く限り、かなり大変そうだけど」
 
 ナオちゃんはむすっとしながら答えた。
 
「まあ、本気で嫌いならやらないと思うけど。好きっていうか、そうしないと生きていけないっていうか……わたしもまあ、ほかにやりたいこととかなかったし」
 
「『やりたいことを生業にして、働くことを苦にすることなく生きている』って人は本当に幸福だよね。でも、『やりたいことが特にないけど、働かないと生きていけないから働き続ける』って人も多いと思う」
 
 特に価値観が多様化し、選択肢も無駄に多い現代では。
 
「大多数の人はどんなに疑問を持ってもその事実を必死に受け入れて、働き続けて生きている。ナオちゃんはたぶんそれができる人。でも僕は――そうと気づくまで時間はかかったけど、できない人だった。たぶん兄貴もね。さっちゃんはどうだろう」
「あたし?」
「なんかの本で読んだけどさ、この世界のもっとも重要な基盤となるのは経済活動で、その上に文明があるんだって。経済って要するにお金でしょ? お金を生み出すには働かないといけない。でもさっちゃんはもう、それを生まれながらに持ってる。経済活動の枠組みから外れていて、働かなくてもいい。一生遊んで暮らせる。……ああ、やっかみとかじゃないよ」
「うん。わかってる」
「ほとんどすべての人が、働かずにお金を得たいと思っているはずだよ。そうすれば働かなくても生きていけるのに。でもさっちゃんは誰もが持ち得ないことを持っているのにもかかわらず、自ら死を選ぼうとした」
「……そしてたーくんと出会った」
「そう。よく考えたら不思議じゃない? 人間――というか生物はみんな生きようという本能がある。人間は働かないと生きていけない。でも働かなくても生きていけるのに、さっちゃんはわざわざ死を選ぼうとした」
 
 しばらく静寂が下りた。
 やがて、さっちゃんが再び静かに笑った。心底楽しそうで、どこか哀しげに。
 
「あたし、運命とかそういう言葉大嫌いだったけど、たーくんとの出会いは運命って認めてもいいかも」
「……ありがとう」 
「あたしもさ、ここ数年ぼんやりとした……漠然とした不安を感じていたの。なんであたし、こんな世界で生きているんだろうって」
「さっちゃん……」
 
 そうつぶやいたのはナオちゃんだった。
 
「最初は食パンのカビみたいに小さな染みだった。でもあれってほっとくとどんどん広がっていくでしょ? 要するに、あたしの心はそれと同じだったの。で、最後にはカビだらけになって弾けちゃって、死を決意した」
 
 ナオちゃんは息をのみ、僕は静かにさっちゃんの言葉の続きを待つ。
  
「きっかけは両親が死んだ5年前かな。ナオちゃんはなにが起きたのか全部知ってるけど、たーくんにも教えてあげるね」


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