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2020 4/19

 2月12日だった。
 まだ寒さが厳しいその時期に、僕は2日間の休暇をとっていた。休暇1日目の午前4時頃まで納期ぎりぎりの仕事と格闘し、アパートに戻ってすぐ眠る。3週間ぶりくらいの休暇の上に連日のように徹夜が続いていたから、午後4時過ぎまで爆睡していた。
 起きてから、そういえば帰れそうなら帰ると母親に伝えていたっけと思い出す。まあ明日も休みだからいいかと、のんびり実家に向かった。
 なんだかんだで、実家に着いたのは午後8時を過ぎていたと思う。久しぶりの我が家はやはり居心地がよく、僕はだらだらと過ごした。
 昼間にたっぷりと寝たせいか、夜中になっても僕は起きていた。ただし、ひとり暮らしを始めるときに自室の家具はだいたい持っていってしまって、テレビもパソコンもない。だから布団に寝転がりながら読書したり、だらだらとスマホで動画やアニメを見ていた。
 休暇2日目。夜が明けて、両親が起き出す頃にはさすがに眠くなってくる。スマホの目覚ましを午後3時にセット。起きて気力があったら、久しぶりにジョギングにでも行こうと決意しながら僕は眠った。
 そして午後3時にいちおうは目を覚ました。でも二度寝の誘惑に抗えず――というより戦おうともせず敗北。再びまどろみの中に落ちていった。寝る前に行こうと決意していたジョギングについては、なんの迷いと躊躇と罪悪感もなく決別。
 だいたい1時間近く、眠りと覚醒の狭間における曖昧で心地よい意識のまま、布団の中でもぞもぞしていた。惰眠をむさぼるのはこの上ない幸福だった。
 しかし午後4時前になると、さすがに目が覚めてくる。それでも布団の中からは出ない。イモムシにすら呆れられるほどもぞもぞしている。
 部屋の外で、母が兄貴の名前を呼んでいるのが聞こえた。しかし兄貴の返事は聞こえてこない。兄貴の名を呼びながら、母が階段をのぼる足音。声も聞こえてきた――「曇ってきたから、洗濯物取り込んでくれる?」――僕の部屋の隣、兄貴の部屋のドアが静かに開けられる気配。
 一瞬の間。
 
 母親の悲鳴を、生まれてはじめて聞いた。
 
 それまで平常運転だったはずの日常が、悪夢に変貌した瞬間だった。
 僕の頭が信じられないほど早く覚醒する。布団から飛び起きて兄貴の部屋に駆けつけるまで、5秒もかからなかった。
 カーテンレールに紐を引っかけ、兄貴が首を吊っていた。腕はだらんとして、足は床についている。
 母が言葉にならない悲鳴をあげながら、兄貴の体にすがりついていたのは記憶に残っている。けど、僕は――たぶん僕も兄貴の名を叫びながら駆け寄ったと思うけど、正直よく覚えていない。ただ漠然と、紐を解こうかと試みたような気がする。
 兄貴に触れた。体はもう冷たく、手足の先まで硬くなっていた。目はつむっていて顔面は蒼白。唇は荒れて紫色に変色していた。変な臭いもする。
 手遅れなのは明白だった。
 おそらく人生でいちばん動揺しているはずの母は、泣き叫びながらも気力を振り絞って、救急車を呼びに一階へ降りていった。
 やがて、携帯電話で電話をかけながら母が戻ってくる。救急に泣きながらも状況を伝えていた。
 それからどういう流れになったのか、携帯電話が母から僕に移った。オペレーターの人は女性で、まず「あなたは落ち着いていますか?」と訊かれたと思う。もちろん落ち着いてはないけど「はい」と答える。「すぐに紐を切ってください」と指示された。
 僕は自分の部屋に戻り、ハサミを取ってきて言われたとおりにした。ここで不思議なのは、兄貴の部屋にもハサミがあったこと。あとでわかったことだけど、机の上のペン立てに入っていた。探せばすぐ見つかるところだ。
 首を吊っていた紐は、僕も使おうとしたトラロープだった。太いけどハサミで簡単に切れた。
 支えを失った兄貴の体が、一気に倒れそうになった。母とふたりで体を支えつつ、床に横にする。
 母が絶叫した。
 僕は肩と耳のあいだに携帯電話を挟み、オペレーターから指示されながら、両手で兄貴の胸部を強く何度も圧迫した。
 母は救急車を迎えるために再び一階へ降りていった。
 その後、いつの間にか携帯電話は投げ出していた。とにかく、救急隊が来るまで心臓マッサージを絶やさないでください、とか言われた気がする。
 そのまま心臓マッサージを続ける。なにも考えることができないまま――正確には、なにかしら考えているけど、考えていることをまったく認識できない。
 兄貴の口から、心臓マッサージと同調して人間の呼吸器から発せられたとは思えない「ゴォ、ゴォ」という音が聞こえてくる。いままで聞いたこともない音。ほかのなにかで例えようもない音。それと付随して、口から白い泡も吹き出した。テレビドラマで似たようなシーンを見たことがあるけど、こんなリアルな描写はなかった。あんなのは所詮嘘っぱちだと、そのとき痛烈に思い知る。
 やがて救急車が到着。母に連れられた数人の救急隊が入ってきた。
 あとは救急隊に任せて――任せてどうにかなるような状況じゃないけど――ひとまず僕と母は一階へ降りた。
 その後、救急隊が引き上げる代わりに警察が来た。パトカーが何台も家の前に止まって、あとから聞いた話だと、ご近所中が騒然となっていたらしい。
 しばらくすると、連絡を受けて早退してきた父も帰ってきた。二階に上がるときの父の表情は、いままで見たこともないほど悲痛なものだった。
 それから、長い一日が始まった。

   
 ここまで話し終えたところで、僕はひと息ついた。さっちゃんはグラスを両手で持ったまま、真剣な表情を崩さない。
 その隣に座るナオちゃんは私服に着替えていた。僕の話に興味があったのか、マスターに頼んで早めに上がらせてもらったらしい。なんかいま、ものすごく怖い表情で僕を睨んでいるのが気になるけど。
 
「警察の話では、兄貴の死亡推定時刻は午前5時頃なんだって。信じられる? 壁を隔てた5メートルも離れてないところで、僕がのんきにアニメ観ている最中に兄貴は首を括ったんだよ」
「気づかなかったの? その……音とか」
 
 ナオちゃんに訊かれた。
 
「全然。これも警察が言ってたけど、首を吊ると足がばたつくことが多いんだって。でも、なんの物音もしなかったと思う。凄まじい轟音が響いてくるなら話は別だけど、ちょっとした物音くらいだったらどっちみち気にしなかったと思う」
「遺書は?」
 
 今度はさっちゃんだった。 
 僕は首を横に振る。
 
「あの日あの時間にあの場所で、兄貴が自殺した理由はわからないんだ」

 自分の将来を悲観してとか、これ以上の心配をかけないためだとか、そういったところだろうと両親は判断していた。けど僕はそのあたり、なにも判断を下してない。だって、いくら考えたって答えは永久にわからないんだから。
 
「前日に兄貴とちょっと会話したけど、そんな素振りもなかった」

 兄貴のことがあって、つくづく思い知ったことがある。 
 本気で死のうと思っている人は、そんな素振りを見せない。心配されて止められるに決まっているから。だからむしろ、危なげな素振りを見せてくれているほうがまだ安心できる。
 たとえば、Twitterとかで「死にたい」とか「一緒に死んでくれる人を探してます」とか延々とつぶやいている危ない人の大部分は、僕は死なないと考えている。
 死にたいと考える自分を知ってほしい。
 寂しいから誰かと一緒に死にたい。
 こんなの一種の承認欲求だ。本気で死のうと考えている人に、承認欲求などない。兄貴がきっとそうだったように。
 そして、あの山中でさっちゃんと出会う直前までの僕がそうだったように。
 
「お兄さんと最後に交わした会話は覚えてる?」
 
 さっちゃんに問われ、僕は数秒ほど記憶をたどってから答える。
 
「コロッケ」
 
 ふたりともきょとん、とした。

「最後に聞いた兄貴の言葉だよ。僕が前日に帰宅したときは兄貴しか家にいなくてね。リビングでテレビを観てた」
 
 午後8時だと、父はまだ帰ってないことがめずらしくない。その時間なら間違いなく家にいるはずの母も、ちょうど友人との飲み会でいなかった。
 
「台所に兄貴が夕飯を食べた形跡があってね。で、なんとなく訊いてみたの。夕飯なんだった? って」
 
 それを受けて兄貴が答えたのがさっきの言葉だ。テレビを観ながら、ぼそっと答えてたと記憶している。
 
「コロッケの中身じゃなくて? て僕が訊いたら、兄貴は小さく苦笑しながら首を横に振った。それが最後に見た兄貴の姿だった」
 
 普段だったらすぐに忘れてしまいそうな日常の光景。本当に、日常以外のなにものでもないワンシーン。あのときは久しぶりに帰ったから、もっと兄貴と話そうなどとは微塵も考えてなかった。
 
「病気とかでさ、死期がある程度わかってるのはもしかしたら幸せかもしれないね。だって、これが最後の会話かもしれないって覚悟ができるわけだから。僕も両親も、そんなことできなかった」
 
 さっちゃんが神妙な面持ちになり、それを見たナオちゃんが哀しそうな表情をした。その後、ナオちゃんは僕に再びきつい眼差しを投げてくる。そろそろその圧力で僕の体に穴があきそうだった。

「あんた、どうしてそれで自分も自殺しようって考えられるの? 家族を失うつらさはもう知ってるでしょ」
「……それを言われるとなにも言い返せないけど」
「当たり前でしょ! ご両親の気持ち考えなさい! さっちゃんだってそうだからね!」
 
 ナオちゃんの言うことはあまりにも正論で、僕とさっちゃんは目を合わせて困った表情を浮かべるしかできなかった。
 だから、ふと浮かんできた言葉を言ってみる。
 
「そんなこと考える余裕がなくなるから、人は自殺するんじゃないかな」
 
 さっちゃんは深くうなずき、ナオちゃんの顔は歪んだ。
 
「僕も本気で死のうとしたからわかるよ。どうでもよくなっちゃうんだよ。あらゆることすべてが。で、行き着いた結論が、この世界の住人であることをやめたいってこと」
 
 さっちゃんは再度うなずき、ナオちゃんはまるで幽霊でも見るような眼差しで、僕とさっちゃんを交互に見る。
 僕はさっちゃんと出会って、なんとか踏みとどまることができた。あの山奥で、あの瞬間に出会ったのは、いま思えば奇跡としか表現できない。
 出会う瞬間まで完全に赤の他人だった僕とさっちゃんですら、奇跡を起こせた。
 それなら、どうして兄貴に対してはそういう奇跡が起きなかったのだろうか。どうして長いあいだ身近にいた家族が、奇跡を起こせなかったのだろうか。
 ふたつほど理解したことがある。
 ひとつは、この世界に平等などないってこと。
 もうひとつは、自殺という行為は、残された者に最大の罪悪を植え付けるということ。両親はいまだに後悔に苛まれている。ちゃんと話を聞いてやればと、思い出した頃に口にしている。


 ――もっとも、僕はそんなことすらどうでもよくなって、死のうと思ったわけだけど。


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