ナオちゃんと結婚して1年が経過しようとしていた頃、僕は病院の個室にいた。窓は開け放たれていて、秋の匂いを運ぶ穏やかな風が室内に入り込んでいる。
ベッドの上に入院着を身につけたナオちゃんがいた。彼女ひとりだけではない。
彼女の腕に抱かれた、新しい命とともに。
今日、ナオちゃんは僕の子を出産した。
元気な女の子だった。その子は母に抱かれ、穏やかな表情をして眠っている。本日母になったナオちゃんも、いまだかつて見たこともないほど慈悲深い微笑みを我が子に向けていた。その視線がやがて僕に向く。
「ほらお父さん、抱いてあげて」
我が子を僕に差し出してくる。僕はおっかなびっくりとした情けない動作で、娘をはじめてその手で抱いた。
娘のぬくもりを感じた瞬間、僕の感覚全てが「光」に包まれた。
僕がこの世に生まれてから、いままでたどってきた記憶が走馬灯のように流れる。
幼い頃の思い出、兄貴との喧嘩、両親との何気ない会話。友人たちとの日常。仕事での成功と失敗。
死を決意したあの日。
そしてそれを実行に移したあの日、さっちゃんと出会ったこと。彼女の――というより人の体温を、ある意味はじめて感じたあの瞬間の感覚が、まざまざと思い浮かんでくる。
出会い頭、ナオちゃんに跳び蹴りを喰らったことも、リアルな感覚としてよみがえった。
さっちゃんとナオちゃんと僕。3人の共同生活は奇妙なものだったけど、僕の人生の中でひときわ輝いている時間だ。
兄貴を失ったときの両親の気持ちが、いまはじめてわかった。ふたりがどんなつらい思いをしたのか、僕ははじめて兄貴を殴ってやりたいと思った。
兄貴に僕の子どもを見せてあげたかった。
さっちゃんに、自分の子どもを抱かせてあげたかった。
でも、もう無理だ。
ふたりはもういない。
僕はナオちゃんと結婚した。
ありとあらゆる感情が光となって全身を駆けめぐる。涙が止まらず、ふと見るとナオちゃんにも伝播していて、彼女も両手で顔を覆って嗚咽していた。
生まれたばかりのこの子はいま、必死に生きようとしている。僕に全体重を預け、心臓の鼓動が伝わってくる。
娘が起きた。
純粋無垢な瞳に、くしゃくしゃになって涙を流す父親の姿が映っている。娘はそれを不思議そうな表情で眺めたあと――
笑ったように見えた。
まるで、この世界に生まれてきた幸福を喜ぶかのように。
さっちゃんも兄貴も、生まれたときは一緒ではなかったのか。
ふたりに直接問いただしたかった。いったいなにが正解だったのか。「生」を選んだ僕たちは、いったいどうすればよかったのか。
ふたりのことはいまでも愛している。
でも、許すことはできない。
もう、なにも聴こえない。
どんなに耳を澄ましても、ふたりの心の声は聴こえない。
― 完 ―