自分の教室に戻った頃には、西日が窓から差し込んでいた。
教室にいるのは数人のクラスメイトたち。いくつかのグループに分かれて、他愛もない会話に花を咲かせている。そんな中、ひとり窓際に寄りかかって立ち、腕を組んでいる男がいる。
惺だった。目をつむっていて、まるで瞑想しているように微動だにしない。が、俺が教室へ足を踏み入れ近づくと、ゆっくりとまぶたを開いた。
「奈々ちゃんになにがあった?」
「……いきなりだな」
「ここへ戻ってくる途中、エントランスホールでちらっと奈々ちゃんを見かけた。目を赤く腫らして、尋常じゃない様子だったぞ。声をかけられるような雰囲気じゃなかった」
「惺にはちゃんと説明するよ。それより、小日向さんはどうなった?」
「彼女のほうは問題ない。凜が最後にいちばん聞きたいことを残してくれたからな。いろいろと話を聞けたよ。詳しくはいずれ話す。それで、奈々ちゃんは? バンドでなにかあったのか?」
「さすが察しがいいな。帰りながら話そう」
帰りの支度をして、ふたりで教室を出る。
そこから、俺の長い話がはじまった。
バンドでの出来事、奈々や綾瀬さんの様子――それから、綾瀬さんの家庭環境に話が及ぶ頃には、もう俺たちはバスに揺られていた。中途半端な時間だからか、それなりに空いている。俺たちはいちばん後ろの席に座っていた。
「――思ってたよりも深刻だな」
「ああ、そうね」
「それで凜は、具体的にはどう行動するんだ?」
「まずは、奈々と話してからだな。あいつがどうしたいのか聞いてみないと……あー、悠にも説明したほうがいいな」
こういうとき、星峰の家の中でもっとも頼りになるのが悠だ。奈々の様子がおかしいことに、悠は間違いなく気づくはず。そもそも、こういう機微に恐ろしく敏感な彼女に隠し通せるわけがない。
「セイラにはどうする?」
「セイラ? ……そっか、セイラ……えーと、どうしよう」
セイラのことだから、小日向さんのことも含めていろいろと聞きたがってくるのは明白だ。そして間違いなく、自ら率先して悩んでいたり困っている子たちの力になろうとする。 それなら、最初から全部事情を話した上で行動してもらったほうが手間が省けるかもしれない。セイラが頼りになるのは疑問の余地がないから。
「――ああ、凜の推察は正しいな」
「いや、まだなにも言ってないんですけどっ」
「細かいことは気にしない方向で。セイラには俺から話しておく」
「こいつ……ま、いいか。よろしく」
「どうせ今日の夜あたりに電話かかってくるだろうし」
はぁ、と小さくため息を吐く。けど、本気で嫌がっているようには見えない。
「なあ惺……その、俺の行動って正しかったかな」
「綾瀬さんに対する? そうだな……ベストとまではいかなくても、いい方向のベターだったとは思うぞ。ちゃんと踏み込むところと踏み込まないところをわきまえている」
「そっか。なぜかわからないけど、惺にそう言われると安心する」
「そうか? それよりも、俺は凜の行動としては意外に感じたな。正直に言うと嬉しかった」
「…………え?」
「自覚があるだろうけど、凜はいつも、他人と一定以上の距離を保っている。和気あいあいとやっている中でも、遠くもなく、近くもないところにいるような……まあ、俺も人のことはあまり言えないけど……だから、そんな凜にしては思い切った行動だと感じたよ。妹の親友とはいえ、まだ交流が始まってから間もない子を、進んで助けようとしてるわけだから」
「俺って、そういうふうに見られていたのね……」
いまのいままで、自分が他人からどう思われているなんて、真剣に考えたことがあっただろうか?
俺を見る人によっては、淡泊だとか冷たいとか印象を与えるかもしれない。
「他人に対する行動が、自分を映す鏡、か」
「凜らしい、文学的な表現だな。そう……綾瀬さんも、そういう視点を持てれば、なにか変わるかもしれない」
「そういや、真奈海が言ってたっけ。綾瀬さんは周囲に対する視野が狭いって……あ、悪い。この話、惺は知らないか」
今日の昼休み、惺と小日向さんがふたりで話しているときのこと。セイラが言い出した思考実験で真奈海が綾瀬さんを評した言葉だ。離れていたから、惺に聞こえるはずはない。
「……いや、聞いてる。思考実験のことだろ」
「なんだ、知ってたのか」
答えがくるまでに少し間があったのが気になったけど、まあそれはいい。
「奈々、どうしてるかな」
帰宅しているとすればだけど、惺が奈々を見かけた時間から計算すると、もう家に着いているはず。母さんと父さんは仕事で店にいるだろうし、悠は生徒会の仕事でまだ学園にいるはず。だから奈々はいま、家にひとり。
「奈々ちゃんは優しい。優しいから傷つきやすくて、脆い。俺がはじめて奈々ちゃんを知ったときからそうだった。ひとりで悩みを抱え込んでしまうのも」
唐突に語り出す惺。俺が知らない時代の奈々のことを、惺は知っている。
「そうだな。ここは、兄貴としての踏ん張りどころか」
「そういえば、凜もひとりで抱え込もうとするところがあるな」
「……言いたいことはわかるよ。そのあたりは似たもの同士だな」
「凜――」
「ん?」
「……いや、ごめん。なんでもない」
俺に対して言おうとした言葉が、少しだけ気になった。
夜の潮風が窓から入ってくる。そろそろ気温が上がってくるこの時期にしては、涼しい風だなと――ベッドに仰向けになり、白い天井を見つめながら、そんなことを感じていた。
枕もとの時計を見ると、午後10時半を指している。
「……1時間か」
悠が話を聞くために奈々の部屋に入ってから、もうそれくらいの時間が経つ。俺はそのあいだなにもすることができず、ただこうしてぼーっとしていた。近くのローテブールには麦茶の入ったコップが置かれている。用意はしたもののほとんど手つかずで、中身は減ってなく、コップのまわりが冷や汗をかいたように濡れていた。
夕方に俺が帰宅したとき、奈々はまだ帰ってなかった。LINE送っても返信がない。それからしばらくしても帰ってくる気配がなかったので、近所を探しに行こうかと思った矢先、悠が帰ってきた。
俺の雰囲気からなにか察したのか、悠は真っ先に「なにかあったの?」と聞いてきて、詳しく事情を話した。
そして太陽が水平線の彼方へ完全に沈もうとした直前、やっと奈々が帰ってきた。生気の抜けた奈々の表情。そのとき俺と悠は夕飯の支度をしていて、夕飯どうする? という俺の問いに対して、奈々は消え入りそうな声で「……いらない」と言ったきり、自分の部屋にこもってしまった。
午後10時近くになって、店の仕事を終えて戻ってきた母さんと父さんにも、軽く事情を話した。料理のこと以外あまり感心のない父さんですら、「大丈夫か?」と奈々を心配していた。
「――凜くん、入っていい?」
ノックのあとに聞こえてきた悠の声。どうぞ、と返すと悠が部屋に入ってきた。やはりというか、表情に張りがなく落ち込んでいるように見える。俺はベッドから降り、絨毯の敷かれた床に座る。目の前の麦茶に手を伸ばそうとしたけど、なんとなくやめた。
「……どうだった?」
悠はローテーブルの向かいに座った。
「いろいろお話したよ。現状では様子見……かな」
「様子見?」
「うん。奈々ちゃんも、どうしたらいいかわからないみたいで……落ち着いたかと思ったら、急に感情的になって泣いちゃったり。その繰り返し」
「まだ気持ちの整理がついてないのかな」
「たぶんね。どうしたいかまとまるまで、まだ時間はかかると思う」
「……そう」
「あ、でもね、やっぱりバンドのみんなと仲直りしたいっていう気持ちは伝わってきたよ。それから、凜くんにごめんなさいって伝えてって」
「俺に?」
「今日の夕食当番、奈々ちゃんとわたしだったでしょ? 凜くんに代わりにやらせちゃってごめんなさいって」
「あいつ、こんなときに他人のこと気にするなって」
「……凜くん、他人じゃなくて、家族だよ」
「ああ……そうだったね」
帰りのバスの中で惺が言っていた言葉。
奈々ちゃんは優しい、そして脆い――か。
「それで、バンドはどうなるんだ?」
「とりあえず、活動休止になるみたいだよ。例のけんかのとき、顧問の先生がさすがに見かねたみたいで、そう提案されたって。全員、しばらくのあいだ頭を冷やしなさいって言われたんだって」
そうなると、夏休みに予定されているサマーフェスティバルはどうなるんだろう。奈々たちのバンドは、それを目標にがんばっていたはずだ。サマフェスまで約2ヶ月。詳しくは知らないけど、出場の申し込み期限はもっと前のはずだ。
「早く仲直りできるといいね」
つぶやくように言う。
「俺だってそう願ってるよ――でも」
「でも?」
「そう簡単にはいかないと思う」
悠が悲壮な表情をする。
「どうして?」
「これからは想像の話だけど――」
いいよ、と悠が先をうながした。
「たぶん、奈々と綾瀬さんは仲直りできると思う。ふたりともそういう気持ちがあるのはわかったし。けど、ほかのメンバーとはどうだろう」
「でもさ凜くん、たとえば佐久間さんは、奈々ちゃんと中学時代から仲よしだった。それなら――」
「奈々と佐久間さんも、まあ付き合いの長さを考えれば仲直り――いや、よく考えたらこのふたりは別にけんかしているわけじゃないんだよね……とにかく、このふたりは関係が修復できる可能性は高いと思うよ。けど、佐久間さんと綾瀬さんだと話は別だ。昨日の話を聞く限り、どうもふたりは相性が悪いみたいで」
歳のわりにはしっかりしている佐久間愛衣さんと、感情的になりやすい綾瀬さん。水と油というたとえがぴったりだ。
奈々と綾瀬さんが仲直りして、綾瀬さんと佐久間さんが仲直りできなかった場合、佐久間さんはどう感じるか。あの子の性格だと、綾瀬さんはもちろん奈々とも距離をとるような気がしてならない。
「遠坂さんと木崎さん。このふたりは、綾瀬さんに対して苦手意識があるような話を奈々から聞いた。だからその、どうがんばっても完全にもとどおりってわけにはいかないと思うんだ」
俺の説明に時折うなずきながら、悠は黙っていた。相変わらず哀しそうな、そしてちょっと悔しそうな表情をしながら。
「凜くんは、綾瀬さんになんとかしてみるって言ったんだよね。具体的にはどう考えてるの?」
「俺や悠とか、部外者にできる範囲の話でだよ。もちろん、みんな仲直りしてもとどおりがベスト。……これは俺たちはなにもできないけど、綾瀬さんの家庭環境もよくなれば言うことなしだね。次に、誰か欠けるけどバンド復活はベター。その次だと、奈々と綾瀬さんを仲直りさせる。あるいはほかの子と綾瀬さんを仲直りさせる……そんな感じかな」
時間はかかるけど、後者から順に解決していけば……うまくいけば、ベターのところまでならなんとかなりそう。誰が欠けるのかまではさすがにわからない。ついでに言うなら、あのバンドは綾瀬さんと奈々がいないと成立しないはずだ。どちらか片方だけでもだめ。ふたりだけでもだめ。結局のところ、綾瀬さんともう一緒に活動したくないって子が出てくれば、その子が欠けることになるんだと思う。
そして、ベストの解決にたどり着くには――かなり壁が大きい。
「凜くんは、すべてうまくいくとは考えてない……」
「そりゃまあ。どちらにしても、俺たちは部外者だろ? できることは限られてくるし、あまり首を突っ込むのもどうかと」
「ねえ、わたしたちにできることって、話を聞く以外にないのかな」
「それ以上は当事者たちの心の問題だと思うから」
「そう……だね……うん。現実は、そう甘くない」
そうつぶやく悠は、俺に対してというより、自分に言い聞かすような口調だ。
「まあ、あれだよ。結局人と人はわかり合えないってことかな」
俺がなんとなく言った言葉を受けて、悠の顔からあらゆる感情が消え去った。色彩が豊かなキャンバスの上に、真っ白な絵の具を無理やりぶちまけたように。虚空という言葉が、ふと思い浮かんだ。
「悠?」
「凜くん――」
「ん?」
「いまの……その……本気?」
「え、本気……というか、事実を言っただけだけど」
「事実……」
心をどこかに置き去りにしたような、感情のこもってない声が、さっきから悠の口から発せられている。
「どうした? 俺、なんか変なこと言った?」
「凜くんは、そう思ってるんだね?」
悠の真剣な眼差しや雰囲気は、冗談や建前を抜きにして答えてほしいと、暗に訴えている。
「人と人はわかり合えないってやつか? ……そうだな。俺はそう思ってるよ」
「それは、寂しくない?」
「寂しいというか……さっきも言ったけど、事実だって。もちろん、わかり合えたほうがいいとは思うけど、現実はそう簡単にうまくいかないだろ?」
死にものぐるいで努力しても、必死に訴えかけても、相手に伝わらないことは絶対にある。奈々たちの件もそうだし、世の中にはそんな話ばかりじゃないか。
なにより、俺だって――
黒くて醜悪な感情と記憶が、心の奥から不意に蘇ってくる。
「――っ、り……凜くん……?」
「悪い。なんでもないから」
鏡を見たら、いまの自分の表情をどう表現するだろう。
……言うまでもないか。悠の怯えた様子がすべてを物語っている。
「あ、えっと、この話はもうやめよう。凜くん、ごめんね」
「いや……俺のほうこそ」
それから悠は小さく「戻るね」とだけ言って、部屋を去っていった。
部屋に残されたのは俺と、激しい後悔の気持ち。それからすぐに虚しさが襲ってくる。
麦茶に入っている氷が、からんと音をたてる。それだけで、なぜか虚しさに拍車がかかった。