Alive04-5

 帰りのバスに揺られている。夕方5時の車内は、まだそんなに混んではなかった。
 俺は椅子に座り、正面には惺が立っている。席が空いていても、惺はほとんど座らない。帰りが一緒になるときはいつも、惺は立ったまま外の景色を眺めているように見えた。いつもかけている紅茶色のレンズをした眼鏡越しに、惺はなにを見ているのだろう。いろいろ訊いてみたいところだけど、惺の触れてはいけない部分のような気がして訊けない。
 
「……どうした?」
 
 相変わらず、惺は鋭い。
 
「いや、なんでもないよ――と」
 
 自分のスマホに着信があった。奈々からのLINEだ。
 
《美緒ちゃんの家に寄ってから帰るね。遅くなるかもしれないから、夕飯の支度、代わってもらっていい?》
 
 すぐ返事を送る。
 
《わかった。綾瀬さんは今日も休み?》
《うん……もう3日連続無断欠席》
 
 そりゃ心配だな、と送りスマホをしまう。
 
「奈々ちゃんか? 綾瀬さんのこと?」
「あ、ああ。……よくわかったな?」
 
 惺からスマホの画面は見えないはずなのに。
 もっとも、惺も惺で「なにをいまさら」というような顔をしている。もはや深く追求することはしない。
 
「綾瀬さんの家に寄ってから帰るって」
 
 惺に事情を説明する。綾瀬さんが無断欠席していることは話してなかった。
 
「そういうことか。じゃあバンドはまだ?」
「停滞中だよ。綾瀬さんがいないと話にならないからな」
「けど無断欠席が3日間か。さすがに心配だな」
「それなんだけど、綾瀬さん、逃げてるわけじゃないよね……?」
「みんなと話し合うのを? そのために無断欠席してるって?」
「いや、まあ、可能性の話でさ」
「綾瀬さんは逃げないよ」
 
 深く、胸に落ちてくるような説得力。
 
「どうして言い切れるの?」
「あの子は曲がったことが大嫌いな性格だよ。そんな彼女が目の前の壁から逃げ出すような真似はしないよ」
「ほら、いままではそうだったかもしれないけど、今回は荷が勝ちすぎたとか。ご両親のこともあるわけだし」
 
 空中分解寸前のバンドのほかに、綾瀬さんには離婚寸前のご両親がいる。友達のことはともかく、いくらなんでも十代半ばの女の子に、両親の不仲までは背負えるとは思えない。
 
「凜はたまにネガティブになるな? 言いたいこともわかるけど、いまは綾瀬さんを信じよう。奈々ちゃんが彼女を信じているみたいに」
「――――」
 
 ――俺は。
 信じる――という言葉が、実は大嫌いだ。
 
「……凜?」
「あ――ごめん、なんでもない」
 
 なにか言いたそうな惺だったけど、その言葉を引っ込めたようだ。
 ふと、惺の表情に緊張が走る。
 
「ど、どした?」
 
 惺は窓の外を一直線に見据えている。
 
「綾瀬さんだ」
「え?」
 
 振り返る。バスはちょうど信号で止まったところ。窓の向こうはT字路で、ちょうど高台へ続く上り坂が延びている。
 坂の中腹あたりにぽつりと佇む人影。目をこらすと、ギターケースを背負った碧髪の女の子だとわかる。創樹院学園の制服を着ていた。
 
「あんなに遠いのに、よく気づいたな? でも、たしかに綾瀬さんだ」
「様子がおかしい」
「え……?」
 
 俺の視力では、さすがにそこまで目視できなかった。けど、惺が言ってるんだから間違いはないだろう。
 不意に綾瀬さんが動き出す。こちらに背を向け、上り坂を上っていく。と、そこでバスが発車し、すぐに見えなくなった。
 
「凜、ここでそっとしておく、って選択肢はあるか?」
「さすがにないよ。次で降りよう」

 空には綿をちぎって並べたような雲が、西日に照らされて黄昏色に輝いていた。
 高台にある公園は、眼下の街並みを見下ろす位置に存在している。うちから学園までの距離のおよそ半分くらいの場所だ。東の方角へ目をこらせば、うちや惺の住む真城邸を小さく見つけることができる。
 さらに海岸線の向こう側には、海から直接そびえ立ったように星核炉〈アクエリアス〉が屹立してる。白っぽい円筒形の人工物。島からだいぶ距離が離れているのに見えることが、〈アクエリアス〉の大きさを物語っている。
 あの〈アクエリアス〉ひとつで、日本どころかアジアで消費されるの全電力の半分近くを賄っているらしい。そう考えると、むしろ小さいのか?
 ……そんなことはどうでもいいか。
 平日の夕方だからか、公園は人がまばらだった。けど、ひと目でどこに誰がいるか判断できるほど狭い公園ではなかった。綾瀬さんの姿は見えない。
 立ち止まっていたのは数秒で、惺はなんの迷いもなく歩き出した。森林に囲まれた煉瓦造りの小道を抜け、切り立った高台の上に造られた展望台に向かう。
 アコースティックギターのもの悲しい旋律が流れてきた。
 ベンチに座り、前を見ながらギターを弾く女の子。特になにか弾いているわけではないようだ。ギターにはあまり詳しくないけど、マイナーコードを中心とした和音を適当につま弾いているのはなんとなくわかった。
 温かい生気の満ちた風が頬をなでても、綾瀬さんはまるで生ける屍のように覇気がない。表情にはすっぽりと魂が抜けていた。
 惺が近づいていく。俺はある程度まで近づいたところで立ち止まった。
 綾瀬さん、と惺が声をかけると旋律が止まった。そしてゆったりとした動作で、彼女はこちらを見た。
 
「……先輩……と、お兄さん?」
「やあ」
 
 俺はとりあえずそれだけ言って、黙ることにした。
 バスの中から綾瀬さんを見かけたこと、様子がおかしかったから追いかけてきたことを惺が伝える。返事はなく、ぼんやりとうなずいただけだ。
 
「学園を休んでいるのは聞いたよ。その様子だと、具合が悪いわけではないんだね。――隣、いいかな?」
 
 綾瀬さんは小さくうなずき、惺は彼女の右隣に座る。そのとき惺がちらっと俺のほうを見たけど、「俺はいいから」と軽く首を振った。
 惺はギターをじっと見つめていた。ナチュラル色で、ボディの上部がカットされた、いわゆるカッタウェイタイプ(で、合ってたっけ?)。それなりに年季の入ったものに見える。
 
「そのギターも綾瀬さんの?」
「……これは……形見」
「形見?」
「初恋の人のアコギ。いつも弾いてるエレキも……」
「タカオカユヅルさんの?」
 
 どこかで聞いたことのある名前だった。
 このとき、ここに来てからはじめて綾瀬さんの顔に感情が生まれた。驚きを宿らせた眼差しで惺を見る。それが図星なのは明白だった。
 
「な――なんで知ってるの?」
「やっぱりね。綾瀬さんがあのエレキギターを弾いているのを見たとき、見覚えのあるギターだと思ったんだ」
 
 惺が俺を見る。
 
「去年だったか、凜に貸したCDアルバムがあっただろ」
「……ああ、思い出した」
 
 去年の冬頃、惺の家に遊びに行ったときに流れていた音楽。鷹岡結弦というソロ・アーティストのCDアルバムで、惺のお気に入りのシンガーソングライターらしい。俺もかなり気に入ったので、そのときCDを貸してもらった。
 いまではインターネット配信で音楽が手に入る時代。CDをリリースするアーティストは、年を追うごとに減ってきている。そんな時代でも鷹岡結弦は配信だけでなく、CDも精力的にリリースしていたそうだ。
 
「そのCDジャケットに、あの蒼いエレキギターが写ってたんだよ。偶然かと思ったけど、あとで確認したらまったく同じものだった。ボディに張られたネコのシールまで一緒なんて、偶然ではありえない」
 
 そう言われて、俺もCDジャケットを思い出す。たしかに鷹岡結弦が蒼いギターを構えて写っていたのはおぼろげながら覚えていた。でもネコのシールまではさすがに記憶にない。
 セイラが転校してきた初日、奈々の所属する軽音部に見学に行った。そのとき、惺が綾瀬さんのギターを気にしていたことを思い出す。惺はあの時点でもう半分気づいていたんだ。
 
「初恋の人ってことは、面識があるんだよね?」
「うん。わたしの……いとこ」
 
 今度は惺が驚いたようだった。
 
「なるほどね。……鷹岡結弦さんは、たしか4年前に――」
「死んじゃった。二十代半ばで癌だよ? いまだに信じられない。お酒もタバコもやらなかったのに」
 
 綾瀬さんの母親と、鷹岡結弦さんの父親が兄妹らしい。けど彼の両親は十数年前、一緒に事故死した。当時14歳だった鷹岡結弦さんは、中学を卒業するまで綾瀬さんの家に居候していたらしい。音楽に傾倒し始めたのもその頃で、彼が二十歳になる頃には、音楽業界でそれなりに名を馳せることになった。
 しかし、26歳のときに癌で帰らぬ人となる。
 
「わたしに音楽の楽しさを教えてくれたのは結弦さん。あの人、楽器はだいたい演奏できたから……小さい頃、結弦さんにぜんぶ教えてもらったの。曲の作り方も……全部結弦さんに」
「……そうなんだ」
「ネコのシールは、小学生の頃にわたしが貼ったの。……ふふ。ふつう、大切な愛用品に勝手にいたずらされたら怒るでしょ。でも結弦さんは笑ってくれた。『可愛いからこのままにしよう』って。そのまま使ってくれた。……このアコギは、結弦さんが生きているときに、誕生日プレゼントとしてもらったの。わたしの宝物」
 
 アコギをじゃらん、と鳴らす。高音から低音まで、すべてバランスよく鳴っている。
 
「いいギターだ。大切にしてるのがわかるよ」
「わたしには……わたしには音楽しかないの! なのにっ――」
 
 そのとき、こちらに近づいてくる足音。
 
「……奈々?」

 綾瀬さんがつぶやいた。 
 ベースを背負った奈々が、神妙な表情で歩いてくる。
 
「ごめんね、綾瀬さん。ここに来るまでに、奈々に連絡しておいたんだ」
 
 一瞬だけむっとした綾瀬さんだけど、すぐに俺から視線を逸らした。奈々と目を合わすのも気まずいのか、誰もいないところに視線を逃がす。さりげなく惺がベンチから立ち上がり、俺の横に移動してきた。
 
「美緒ちゃん……心配、したんだよ?」
 
 綾瀬さんの正面に立つ奈々は、いまにも泣き出しそうだった。それでも、綾瀬さんは口を真一文字に結んで黙っている。
 
「美緒ちゃん、家に帰ってないの? 先生が電話したらお父さんが出て、そう言われたって」
「知らない。あんなやつ」
「どうしたの?」
 
 しばらく考えるように黙ってから、綾瀬さんは重い口を開いた。
 
「日曜日にお母さんが埼玉の実家に帰った。別居ってやつ。もう離婚まで秒読みみたい。でもね、あいつは追いかけもせずにふつうに暮らしてる。そんな薄情者と一緒にいたくないだけ」
 
 あいつとは父親のことを指しているようだ。
 
「そんな……」
「家でギターの練習してたら、あいつうるさいって怒鳴ったの。いままで気にしたことなかったくせに! あんなやつと一緒に暮らす……ううん、同じ血が流れてるってだけでも血反吐が出る! だから家出した!」
「美緒ちゃん!」
「わたしには音楽しかないのに、音楽だけあればいいのに、もう家族なんてどうでもいい!……なのになんで、こんな苦しいの……? 集中できないの……ギター……簡単なところでミスしちゃう……っ」
 
 ついに綾瀬さんの瞳から涙があふれた。
 
「バンドのことなんて考える余裕ない……もう、無理」
「…………っ」
「なんであんたがそんな泣きそうな顔するの? 奈々、あんたんちは家族仲よしなんでしょ。だからわたしの気持ちはわからない。絶対にわからない!」
「そう、かもしれない……けど……でも、違う!」
「なにが?」
「本当は家族のこと、どうでもいいなんて思えてないんでしょ? だから苦しんだよ……バンドのことはもういいよ。美緒ちゃんにとって重荷になるなら、やめてもいい。みんなにはわたしから伝えておくから……でも、家族のことを悪く言うのだけはやめて。自分に嘘ついちゃ、だめ」
 
 ――奈々の言葉に、いちばん衝撃を受けたのは俺だった。 
 自分に嘘ついちゃだめ。
 わりといろいろなところで見かける、使い古された言葉のくせに、それが鋭い刃になって、心をずたずたに引き裂こうとする。
 落ち着け。取り乱すな――強く自分に言い聞かせ、意識を切り替える。惺の視線を感じたけど、気にしないようにする。
 
「美緒ちゃん、とりあえずおうちに帰ろう? お父さんとお話ししないと。わたしもついていくから……ね?」
「い、嫌……帰りたくない。あいつの顔なんて見たくない!」
「そ、そんなこと言っても、心配――」
「心配? 誰が? あいつが心配するなんてありえない! わたしが帰らなくても捜索願とか出してないみたいだし! 先生が電話したときだって、どうせ人ごとだったんでしょ!」
 
 綾瀬さんが勢いよく立ち上がった。
 
「――あんなやつ、死んじゃえばいいんだ!」
「美緒ちゃん!?」
 
 奈々の平手が、綾瀬さんの頬を打った。
 綾瀬さんは、まるで死人にでも出くわしたかのような表情で、赤く染まった頬を押さえながら、再びベンチに座り込んだ。
 放心状態のふたり。さすがに俺と惺も驚いたけど、なにもせずにふたりを見つめていた。
 沈黙。
 風が木の葉を揺らす音だけが、切なく聞こえてくる。
 やがて――

「ぐずっ――ひぐっ――っ」 
「…………どうして奈々が泣き出すの? 痛いのはわたしのほうなのに」
 
 壊れかけた微笑みを伴って、綾瀬さんが言う。奈々の赤く腫らした瞳と、綾瀬さんの哀しみや後悔に彩られた瞳が交差する。
 
「美緒ちゃん……っ、ご、ごめん……ひっくっ……」
 
 奈々の肩から鞄がずれ落ちる。それを追うように、力を失いしゃがみ込んだ。
 1分近い静寂のあと、やがて綾瀬さんの嗚咽も混ざった。綾瀬さんの泣き顔は前にも見たことがある。けど、あのときとどこか違う。いまの綾瀬さんは幼い少女のように無防備で、いつもの気丈な様子は微塵も見られない。 
 どちらも見ていられなかった。
  
「――なあ」
 
 考えるより先に声をあげていた。
 反応までたっぷり時間がかかったあと、心が完全に無防備になったふたりが俺を見た。
 
「綾瀬さんさ、しばらくうちに来たらどうだ?」
 
 最初俺の言った言葉の意味がわからなかったらしい。俺もどうしてとっさにこんなこと言い出したのかわからない――やがて意味を理解したふたりからは、もれなく動揺した気配が伝わってきた。泰然としているのは惺だけだ。
 
「な……なにを言って……?」
「綾瀬さんはこれからどうするつもり? この数日どこに泊まっていたのかは知らないけど、未成年の女の子が変なところで外泊するのは感心しないね」
「…………」
「それなら、まだうちにいてもらったほうが安心だよ」
「か、関係……ないでしょ!」
「まだそんなこと言うの……はあ。あのねえ、お父さんが心配してないってのが事実だとしても、奈々がきみを心配しているのは誰が見ても明らかでしょ。じゃなかったらここまで傷つかない」
「――っ。それとこれと……なんの関係が」
「これ以上妹が傷つくのを見たくないし、させない。もちろん綾瀬さんもね。んで、それらを一挙に解決できる方法を提示したと思うんだけど。どう思う、惺?」
「……そうだな。無茶に思えて、意外に妙案かもしれないな。俺は賛成するよ」
 
 普段から言葉になぜか説得力のある惺は健在だった。
 
「綾瀬さんがどうしても嫌なのなら、今日からちゃんと家に帰って、明日から学園にも来る」
 
 さて、いまの綾瀬さんに、そんな当たり前のことができるかな――と、手振りで示すと、きつい眼差しを返された。
 
「奈々はどう思う? 綾瀬さんがうち来るのは嫌? もう顔も見たくない?」
「そ、そんなことない!」
 
 ぴょこんと立ち上がり、奈々は俺のいじわるな問いかけに力強く答えた。
 
「じゃあ、奈々も賛成だね」
「え…………あ……う、うん」
 
 勢いなのか、流れのままにうなずく奈々。
 
「ちょ、ちょっと、奈々」
「美緒ちゃん、その……叩いちゃってごめんね……?」
 
 奈々に真正面から謝られて、綾瀬さんが慌てた。
 
「わ、わたしも、言い過ぎた……ごめん。でも、いいの?」
「うん。とりあえずうちに来て、それから考えよう? ――お兄ちゃん」
「ん?」
「ありがとう。いろいろ気遣ってくれて。惺さんも、ありがとうございました」
 
 俺はなにもしてないさ、とでも言うような仕草を見せる惺。
 やがて荷物を持った綾瀬さんと奈々が、バス停に向かって歩き出した。
 俺はふたりの後ろ姿を眺めつつ、奇妙な嫌悪感に襲われる。

 ――これでよかったんだよな……?

 なにかが心の奥で引っかかっている。惺も妙案だと言ってくれたし、この場をまとめるにはああ言い出すしかなかったと思う。
 ……でも。
 
「どうした?」
 
 惺は俺の心をのぞき込むような瞳で訊いてきた。
 
「……なんでもないよ」
 
 なんとなく見上げると、さっきまで見事な朱に染まっていた空も、いつの間にか紫に近い色に入れ替わっていて、静かな夜の訪れを告げていた。


この記事が気に入ったら
フォローしてね!