Alive05-1

 それはたぶん、嵐の夜だったと思う。
 洋館の端にあるそれほど大きくない部屋。ベッドの上で、眠ろうと必死になっていた。
 でも眠れない。窓の外は風と雨が吹き荒れていて、ふとんを頭までかぶっていても音が聞こえてくる。
 今日は「来る」日だった。何時に来るのかは決まってない。きっと、酔っ払った「彼」の欲望が臨界点を超えたときに来るのだろう。
 やがて、ドアの開く音。
 
「――っ」
 
 震えた。
 けど、どうすることもできない。この洋館は、いわば一種の監獄だ。逃げられるはずもなかった。
 ベッドに誰かが潜り込んでくる気配。
 後ろから抱きしめられた。ただし愛のある抱擁ではない。「絶対に逃がさない」という意思の表れ。
 嫌だ嫌だ嫌だ――心の中で叫ぶ。
 そいつの息が首の後ろにかかる。鼻息も荒い。酒とタバコが混ざったにおいを感じて、つい息を止めた。
 全身をまさぐられる感覚。着ていたパジャマをゆっくりと、背筋が凍る嫌らしい手つきで脱がされる。
 そして、自分の股間に熱くて硬いモノが押し当てられて――


 
 なんて夢だろう。
 気がついたら上体を起こして、肩で息をしていた。
 自分の部屋。あの洋館の、ではない。星峰の家だ。
 こうやって悪夢で目が覚めるのは何度目だろう。ここまでピンポイントな最悪な夢を見るのは、さすがに久しぶりだった。
 深夜2時過ぎ。ちょうど台風が頭上を通過中なのか、窓の外は大嵐みたいだ。夢と現実が妙にリンクしていて、余計に気分が悪い。
 夢に出てきたのは兄貴のひとりだ。兄である以前に、人として変態の極みだった。相手が男でも女でも関係なく、血のつながりすらどうでもいい。ほかの兄姉も、三大欲求のうち性欲だけを肥大化させたようなケダモノたちだった。
 ……ケダモノ?
 よく、性欲の強い人間を「まるでケダモノのようだ」と表現する。でも俺は、それは間違いだと思ってる。
 動物の中でいちばん性欲が強いのは、明らかに人間じゃないか。発情期なんかなくて、むしろ寝てるとき以外はだいたい発情していると言っても過言ではない。兄姉たちがそうだったように。
 だから、動物の中でひときわ性欲の強いやつを「まるでニンゲンのようだ」と表現するべきだと思う。
 
「…………」
 
 そんなこと考えてどうするんだ?
 寝汗がひどかったから、着替える。
 のども渇いたから、1階のキッチンへ降りた。冷蔵庫の中から牛乳を取り出して、コップにも注がずにそのまま飲み干す。
 ふと、気配を感じて見ると、綾瀬さんが立っていた。
 
「どうしたの?」
「の、のどが渇いたから」
 
 綾瀬さんにしては、歯切れが悪い。
 
「俺と同じだ」
 
 俺は近くにある椅子に座り、なんとなく綾瀬さんの様子を眺めた。
 綾瀬さんは冷蔵庫の中から麦茶を取り出し、コップに注いだ。綾瀬さんには、家の中のものは自由に使っていいと言ってある。最初はさすがに遠慮していたけど、ここ最近はもう、本当の家族のようになじんでいる。
 綾瀬さんと目が合った。
 すぐに逸らされる。
 
「どうしたの?」
 
 最初と同じ問いを投げかけると、綾瀬さんはコップを置いた。
 
「別に。ただお兄さん、いつもと雰囲気が違う気がして」
「そう?」
「なんていうか、怖い」
「…………嫌な夢見てね」
 
 夢の内容までは、さすがに話せない。
 ふうん、そうですかと小さく言って、綾瀬さんはコップの麦茶を飲み干した。
 
「綾瀬さんも最近、ちょっと変わったよね」
「……え?」
「最初に会った頃だったら、雰囲気が違うなんて気づかなかったでしょ、きっと」
 
 綾瀬さんは黙ったまま見つめてきた。
 
「視野が広くなったのかな。もちろんいいことだからね? そんな狐につままれたような顔しないで」 
「わたし、そんなに視野狭かった?」
「うん。いまだから言うけど」
「……そう」
 
 神妙な顔をして、再び黙る綾瀬さん。
 沈黙が降りたけど、無音にはならなかった。雨戸に打ちつける雨音と強風が、不協和音を奏でている。
 
「綾瀬さんはさ、ご両親のこと本当に嫌い?」
「……え?」
 
 また狐につままれたような表情をする。
 
「考えてみて。ちょっと悪いたとえだけど、今日みたいな台風で、川が氾濫して家が流されて、ご両親が犠牲になった、とか」
「――っ」
 
 綾瀬さんの唇がきゅっと締められる。
 
「想像して、心が動くんだったらまだやり直せる。……どう? 悲しくなった?」
 
 こくりとうなずく。同時に抗議の視線を向けられた。
 
「たとえが極端」
「まあそうかも。でもよかったね。それならまだやり直せるよ。俺と違って」
 
 あ、しまった、と思ったときはもう遅かった。
 目を細めた綾瀬さんに見つめられる。どういう意味? と視線が言っている。このまま説明がないと、まるで俺が星峰の家族が嫌いみたいな誤解をされかねない。
 
「俺さ、この家の養子なんだ」
「………………ぇ?」
「さすがに知らなかったよね。でも本当。明日、奈々か悠にでも訊いてごらん」
 
 目を見開いたまま、綾瀬さんは固まっている。
 構わず続けた。
 
「俺の本当の実家は、秋田の山奥にあったの」
「……あった?」
「もうない」
「…………」
「家が火事で焼けちゃったんだ。家族は俺以外、みんな死んじゃった」
 
 嘘は言ってない。火事で焼けたことも、俺以外みんな死んじゃったことも。
 でも本当は――
 本音と真相を殺し、淡々と続けた。
 
「それで、遠縁に当たる星峰家に引き取られたわけ」
 
 どう答えていいかわからない様子で、綾瀬さんが誰もいない方角を見る。
 
「で、さっきの話につながるんだけど、俺、実家の家族は大嫌いだった」
「…………」
「嫌いなんてものじゃないな。憎んでた。心の底から。みんな死んじゃえ、って本気で思ってた」
 
 実際、そのとおりになった。
 そしてみんなが死んでも、悲しくもなんともなかった。涙なんて一滴もこぼれなかった。
 
「でもね、この家に来てから、少し変わった。実家のことなんて、どうでもよくなったんだ。思い出すことも減った」
 
 たまにさっきの悪夢みたいに、忘れた頃に出てくるけど。
 
「家族に対して心が動かなくなったら――好きでも嫌いでもなく、無関心になったらもう終わりだよ。ゼロになにを足そうが掛けようが、ゼロのままでしょ?」
 
 綾瀬さんは黙って聞いている。
 
「綾瀬さんは、まだそこまで行ってない。だから大丈夫。ご両親ふたりの仲はどうしようもないだろうけど、綾瀬さんとふたりの関係はまだ、修復可能だと思う…………あー、ごめん。引いちゃった?」
 
 まばたきすら忘れている様子の綾瀬さん。
 
「……な、なんでわたしにそんな話を?」
「いや、まあ、参考になるかと思って」
「重い」
「ご、ごめん」
「でも、お兄さんの言いたいことはわかる。わたしは――」
 
 綾瀬さんの脳裏にはきっと、ご両親の姿が浮かんでいるんだろう。
 強い風と雨が、さっきからずっと雨戸を叩いている。


 
 翌朝にはもう、空は晴れていた。台風一過の雲ひとつない快晴。
 午前7時ちょうど。テレビでは、台風はもう温帯低気圧に変わったと伝えていた。
 
「わたし、家に帰ります」
 
 みんなで朝食を囲みながら、おもむろに綾瀬さんが言った。
 
「み、美緒ちゃん?」
 
 奈々は当然驚いている。悠も箸を止めた。
 
「いつまでもここにいるわけにもいかないし……帰って、お父さんと話してみる」
 
 それからお母さんのところに行く、と付け加えた。
 
「うん……そうだね。それがいいと思う」
 
 肯定したのは悠だ。
 
「俺も賛成。奈々は?」
「え……あ、うん。賛成だけど」
「大丈夫よ。たとえまたけんかしたって、まわりに八つ当たりなんてしないから」
「うん……」
 
 いまの綾瀬さんは、これまでと少し雰囲気が違う。
 どこか前向きに見えた。奈々もそれを感じとったみたいだった。
 今日は月曜日で店は定休日。いつもは早起きの母さん父さんも、今日はもうちょっと寝坊してくる。ふたりに話すのは、起きてからにするそうだ。
 それからゆっくりと、他愛もない会話をしながら朝食を平らげる。今日は平日だけど、学園はテスト採点のために休みだった。生徒数が多いから、いつもテストが終わってからの土日月曜日はだいたい休みになる。それなら俺たちも早起きする必要はないんだけど、まあいつもの習慣ってやつだ。
 綾瀬さんと俺のふたりで洗い物を始めた。悠と奈々は食後のお茶を飲みながら、のんびりとテレビを見ている。
 
「夕べはごめんね」
 
 俺の謝罪に一瞬止まるけど、すぐに食器を洗い始めた。
  
「なにが?」
 
 洗い終わった食器は俺が受けとって拭く。
 
「いや、重い話聞かせちゃって」
「別に。もういいから」
 
 会話が止まった。でも綾瀬さんは、食器を洗う手を止めなかった。
 
「家に帰るって言い出したの、やっぱり夕べの会話が原因?」
 
 綾瀬さんは今度こそ手を止めて、俺を見つめてきた。
 
「自意識過剰」
「ぐ……厳しいな」
「きっかけではあるけど、もともと考えていたことだから。……お兄さんだって、わたしがこの家でずっと暮らすとは考えてないでしょ」
「え? 奈々が、『美緒ちゃんはうちの子になるの!』って、前に言ってたけど」
 
 もちろん冗談だろうけど。すると綾瀬さんは奈々のいるほうを見て、複雑な感情の視線を送った。
 
「この家はまぶしい。わたしにはまぶしいの。悠先輩も、智美さんも遼太郎さんも優しい。お兄さんもね。だから、ええと……伝わる? だからだめってわけじゃなくて、だからこそ、自分の家族を見つめ」
 
 この家はまぶしい――その言葉は、俺の気持ちそのものだった。
 しかし綾瀬さんの言葉が不自然に止まり、いつの間にか畏怖の視線を向けられていたことに気づく。
 
「お兄さん……?」
「ああ、ごめん。なんでもないから」
 
 この子はけっこう、俺の心をえぐってくる。悪意も他意もなく自然に。 
 そのとき、がしゃんと大きな音が聞こえて、俺と綾瀬さんは同時に振り向いた。
 リビングのソファの上で、悠が不自然な格好で寝そべっていた。近くのガラス製センターテーブルの上に湯飲みが転がり、緑茶がこぼれている。
 
「悠ちゃん!?」
 
 叫びながら、奈々は悠に駆け寄った。
 俺と綾瀬さんも、全速力で駆けつける。
 
「ど、どうした?」
「わかんないっ! テレビ見てたら、悠ちゃん急に倒れてっ!」
「悠、聞こえる? 悠っ! ……だめか」
 
 何度か呼びかけてみても、返事はなかった。
 呼吸がちょっとおかしい。ついでに顔色が悪い。けど、それだけで病気を言い当てることができるほど、俺の知識は深くない。
 
「奈々、とりあえず母さんたち呼んできて」


  
 悠と母さんたちが乗ったダークグリーンのSUVを見送る。父さんの愛車で病院に向かうそうだ。
 母さんがリビングにやって来たとき、悠の意識は戻っていた。ちょっと気分が悪くなっただけと、申しわけなさそうに彼女は言う。でも、あの様子は間違いなくそれだけじゃない。
 
「なあ、悠って持病とかあるの?」
 
 隣で心配そうにたたずむ奈々に尋ねる。
 
「え……?」
「たまに病院通ってるだろ。……いや、最近は、わりと頻繁かな」
 
 悠の病院通いは前から知ってたけど、プライバシーもあるし、どういう理由でどこの科に通ってるのか詳しくは聞いてない。そして奈々も詳しくは知らないようで、首をかしげた。
 ふと気づくと、車はもうとっくに見えなくなっていた。


この記事が気に入ったら
フォローしてね!