「あ~、くたびれた」
何十歳も老けたような顔で、詩桜里が言う。
わたしと詩桜里が一緒に住むマンションの玄関。わたしがわざわざ出迎えてやったのに、詩桜里は足を投げ出して座り込み、完全にだらけている。
「遅かったな」
「もぉ~、また会議が長引いてね。上に立つジジイどもは話が長くて……まあ、いつものことだけど――って、え、セイラ、ちょっとなにその格好?」
「おかしいか?」
「エプロンに包丁って……あなた、まさかキッチンで人体解剖とか物騒なことやってないわよね?」
「ほう。世の中にはマンションのキッチンで、しかもエプロン姿で包丁を使って人体解剖をする物好きがいるのか。会ってみたいものだ」
「それに……このにおい」
「ああ、変わったにおいだが気にするな。換気扇はちゃんとまわしている」
「ちょっと、ほんとになにやってるのっ!?」
履いていたパンプスを行儀悪く投げ捨て、どたどたと騒がしく、詩桜里はリビングへ向かっていった。わたしはパンプスをきれいに並べ、ついでに置きっぱなしだった詩桜里のハンドバッグを持ってリビングへ向かった。これは詩桜里よりわたしのほうが女子力が高いことを証明している。
キッチンを見た詩桜里はたじろいでいた。
「な、なにこれ?」
「あいにくと、まだ完成してないんだ。ここに座ってちょっと待っているといい」
キッチンのすぐ目の前にある4人がけのテーブルの上に、詩桜里のハンドバッグを置いた。
「セイラ! あの鍋で煮ているのはなに!? あのどぎつい色……まさか化学実験? 新種の化学兵器!?」
「なんでおまえは、素直に料理しているという発想が出てこないんだ? 可愛くないぞ」
キッチンのほうへ行き、ちょうど作業の途中だった材料をまな板の上で細かく刻み、鍋に放り込んだ。
「りょ、料理? あなたが? 料理ですって?」
「ああ。問題あるか?」
「…………」
「黙るな」
「だって、あなたいままでキッチンに立ったことないでしょ? 例のキスの件といい、最近おかしいんじゃないかしら。どうなってるの?」
「人がせっかく、疲れて帰ってくるであろう同居人兼上司を気遣って料理をしているというのに、なぜそうひねくれた解釈をする?」
「あなたにひねくれたなんて言われたら、おしまいね」
「…………」
「あー、悪かったわ。ごめんなさい。謝るから、そんなおっそろしい顔しないで。それで、なにを作ってるの?」
言いながら、詩桜里は椅子に腰かける。
「疲れを吹き飛ばす特製栄養ドリンク」
きょとん、と詩桜里の表情に虚が落ちる。
「え、栄養ドリンク? ……料理……あなた……発想が……」
詩桜里がなぜか頭を抱えた。
「不満か?」
「いえ……そういえば昼間、栄養ドリンクを買ってきてやるとか言ってたっけ」
詩桜里はテーブルの上で頬杖をつきながら言った。
「そうだ。だがちょうど帰り道に漢方を売っている店があってな。せっかくだからお手製の栄養ドリンクをごちそうしようと思って」
「漢方……どおりで薬品のようなにおいがするわけね」
「そろそろ頃合いか」
火を止め、鍋の中身を目の細かいザルにあげる。下に置いてある器に、とろみのある液体がしたたり落ちた。ちなみに、色は自然界に存在しないようなもので、言語で描写するのが難しい。
「すごい色ね……においも」
液体の入った器を、氷水に浸して冷やす。だいたい冷めたところで、スプーンですくって味見した。
「――ふむ」
甘さと苦さと辛さとしょっぱさと酸っぱさなどが、いといろと混合した、これまたなんとも表現できない味わい。
「ど、どう?」
「このままでは飲めないな。味が濃すぎる」
「よかった。なんか……そのまま出されるのかと」
「見くびるな。いくらわたしでも、そこまで不親切じゃない」
あらかじめ冷やしておいたビアグラスに氷を入れる。そこに例の液体をおたまですくって2杯ほど入れた。
そして、冷蔵庫の中から最終兵器を取り出す。
「最後にこれを投入する」
「炭酸飲料? あまり見かけないやつみたいだけど」
「ああ。これを探すために都内のスーパーやディスカウントストアを何軒かまわるはめになった」
ペットボトルのキャップを開け、中身をビアグラスに注ぎ、マドラーでかき混ぜた。
――わたしの計算が正しければ。
「えっ、色が変わっていく!」
「ふふっ……成功だ」
ビアグラスの中身が、まるでマジックのように、鮮やかなエメラルドグリーンへと変色した。
「どうなってるの?」
「漢方と炭酸飲料の成分による化学変化……ふむ、そういえば先ほど、化学実験とか言っていたな? 言い得て妙、というやつだ」
「へえ、おもしろい」
「というわけで完成。特製の栄養ドリンク」
「最初はどうなることかと思ったけど、それなら飲めそうね」
ビアグラスを詩桜里に手渡した。そしてビールを飲むような感覚で、詩桜里はそれを豪快にあおる。
「ぷはぁっ~! おおっ! これ、いけるわ!」
「だろう? 疲れも吹っ飛ぶはずだ」
「あ~、確かに。爽やかな味わいで、何杯でもいけそう。ありがとう、セイラ」
「…………む」
「あらなに、照れた?」
にやけているのが憎たらしい。
「違う。詩桜里にお礼を言われるのに慣れてないだけだ」
「そうだったかしら? それより、あなたも一緒に飲みなさいよ」
「わたしは後片づけが済んでからな」
洗い物に取りかかる。
「あら、そう? じゃあわたしは、これを飲みつつ報告書でも読んでますか」
詩桜里が鞄からタブレット端末を取り出した。
「報告書? それは、わたしが今日作成したやつか?」
「ええ」
「まだ読んでなかったのか? ここに帰ってきて早々に作成して、リスティに送ったぞ。仕事を家に持ち帰るのは自分の流儀に合わないとか、以前言っていたような気がするが」
「だから、さっきも言ったけど会議が長引いたんだって。ジジイのありがたくない昔話とか愚痴とかいろいろ聞かされて、とても報告書を読んでいるような余裕がなかったの」
詩桜里も上級捜査官とはいえ、いわゆる中間管理職に当たる。わたしが知らないような苦労を背負っているんだろう、きっと。
「で、例のデータはどうなった?」
「ああ、あれね。本部の解析班にまわしたわよ。ちらっと聞いた話では、あのレベルの暗号化の解読は、しばらくかかるそうよ。にしても、よく見つけたわね?」
「詳細は報告書に書いてあるぞ」
「それもそうね」
先ほどから、タブレット端末に目をはせる詩桜里。わたしと話ながらでも報告書の中身は頭の中に入っているようだ。
「セイラ、おかわり」
「了解」
特性栄養ドリンクを再び用意し、詩桜里に渡した。あまり飲み過ぎると眠れなくなるぞと言いかけたが、報告書を読む詩桜里の眼差しに真剣さが宿る。一瞬だけ、驚いた表情をしたのも見逃さなかった。
「どうした?」
「――――」
「おい、詩桜里?」
「現場で会った本庁の刑事のことだけど」
「立花警部と沢木警部補のことか。そのふたりがどうした」
「いえ……ふふ」
「なんだ? 急に笑い出して」
「なんでもないわ。世間はやっぱり狭いのね、って思っただけよ」
それ以上、詩桜里は口をつぐんだ。凄惨な事件の報告書を読んでいるのに、彼女の表情はやわらかく、どこか懐古の情に包まれていた。