Catastrophe 12

 真奈海の母――豊崎美佐子は、紗綾を抱いて病院の待合室にいた。
 
「ただの風邪だといいんだけど……ごめんね」
 
 紗綾の額をなでる。熱い。熱が出ていて苦しそうだった。
 謝罪の次に浮かぶのは、一抹の悔しさ。それは美佐子自身に向けられていた。自分は昔から体が弱い。紗綾がよく体調を崩すのは、自分の遺伝子のせいだと常々考えていた。
 紗綾を産んでから、自分の心臓に疾患が見つかった。後天的だとは聞いていたが、それが子どもたちに遺伝してなければいいと、どれだけ神に祈っただろう。
 幸い、ほかの子どもたちは健康体で育ったが、紗綾だけは違った。今回の風邪が長引くようなら精密検査をしてもらおう、美佐子はそう考えていた。
 
「豊崎さん、ちょっとすみません」
 
 顔見知りの女性看護師が話しかけてくる。
 
「ほかの人の診察が長引いていて、もうちょっとかかりそうなの。ごめんなさいね」
「わかりました」
「……お顔が真っ赤ね。また熱?」
 
 看護師は紗綾に目を向けた。
 
「はい。いつもより体温が高いみたいで」
「それは心配ね……」
 
 看護師が軽く紗綾の頭に触れると、堰を切ったかのように泣き出した。人見知りするのか、特に家族以外の人間に触れられるのは苦手らしかった。だから医師の診察中でも、熱でぐったりしていてもよく暴れている。
 
「あらあら、ごめんなさい。泣かせちゃったみたい」
「いえ、いいんです。ちょっとあやしてきますね」
 
 待合室から出て、屋上に向かう。
 病院の最上階は院長の趣味で、温室となっていた。紗綾はここが好きで、どれだけ泣いていてもここに来ればなぜか泣き止む。
 実際、いまも紗綾はすぐに泣き止んだ。そしてなぜか笑っている。
 
「なぁに? そんなに笑って。あなた熱があるのよ?」
 
 苦笑しながらあたりを見渡した。診察が終わったのか、それともまだ待っているのか、数人の子どもたちが遊んでいる。近くには母親らしき姿がちらほら。
 顔見知りの母親を見つけ、歩き出そうとしたときだった。
 ――温室の木々が揺れ始め、やがて天地をひっくり返したような激しい揺れに発展したのは。
 美佐子はバランスを失い転倒。そのまま気を失った。

◇     ◇     ◇

 
 妙なにおいと、娘の泣き声で目が覚めた。
 
「紗綾!?」
 
 抱っこひもを使って密着していたため、すぐに紗綾の体温を感じて安堵した。顔を真っ赤にして泣いてはいるが、とりあえずは無事のようだ。
  
「――――え?」
 
 しかし、その安堵は一瞬で塗り替えられる。
 周囲が火に包まれていた。
 あまりにも大きな地震でスプリンクラーが損傷して作動してなかったが、そんなことを冷静に考える余裕は美佐子にはない。
 
「火事!?」
 
 周囲には、倒れた樹木の下敷きになってぐったりしている子どもや、崩れた天井の下敷きになっている母親らしき人の影が。
 
「あ……嘘……!?」
 
 逃げないと――美佐子は出口に向かって走り出す。
 だが、ドアが歪んで開かなかった。
 非常口も降りる階段も、このドアの向こうにあった。
 
「そんなっ!?」
 
 ドアの隙間から煙が入り込んでくる。真っ黒な煙で、ちょっと吸っただけで激しく咳き込む。階下が激しい火災に見舞われていることに、疑問の余地はなかった。
 黒煙に巻かれながら、この場に倒れている人たちを確認した。
 ほかの子どもや母親たちは残念ながら全員、すでに息はないように見える。仮にあったとしても、美佐子にはどうすることできない。
 
「こ……こんなことって……」
 
 美佐子はその場に座り込んでいた。
 ――絶望。
 火の勢いは増し、周囲は黒煙で満たされていく。
 紗綾が咳き込む。
 ――このままじゃ――っ!
 どれだけ声を張り上げて助けを求めても、返事はない。
 やがて、がくんという衝撃。
 
「――っ!?」
 
 足もとが傾いた。
 自分はまっすぐ座っていた。なのに傾きを感じているのはなぜなのか?
 建物全体が急に歪んだ。聞いたこともないような異音を響かせながら、床や天井がぐらぐらと傾いていく。
 地震の衝撃と火災は、建物を骨組みから破壊していた。
 容赦のない現実に、死の文字がよぎる。周囲に響いている異音が、冥界からの呼び声に聞こえてならない。
 
「――っ!」
 
 ふと、風を感じた。
 紗綾の口にハンカチを当てながら、風を感じた方向に進んでいく。昼間なのに煙のせいで真っ暗な視界の中、美佐子は希望に手を伸ばそうとした。
 建物崩壊の影響で、わずかにできた隙間。屋上の端。
 空が見えた。
 しかし視線を下げて、美佐子は言葉を失う。
 眼下の街が、真っ黒なものに飲み込まれていた。それが津波だと気づくのに、現実のことだと受け入れるのに、数十秒もかかった。
 
「――――――う――そ」
 
 すべてが暗黒を煮出したような色の海水に飲まれている。人も建物も車もすべて――
 
「――はぁ、はぁ――っ」
 
 紗綾を見る。 
 ずっと泣いていた。さすがになにが起こっているかわかってない。でもずっと自分にしがみついてくる。

 こんなところで……死ぬの?
 この子は、ここで死ぬの?
 まだ、こんな小さいのに!?

「わたしはどうなってもいい……っ! 紗綾だけは……っ! みんなぁっ!」
 
 叫んでも、神は返事をしなかった。
 すぅ――と。
 美佐子の覚悟は一瞬で決まった。すぐ下に別の建物の屋上が見える。津波に巻かれても外観が無事なくらいは頑丈らしい。
 ここは5階。落ちたら絶対に助からない。
 少なくとも、自分は。
 でも、紗綾は?
 万が一の可能性に、美佐子は懸けた。
 
「ごめんね……紗綾……真奈海……結衣……幹也……由貴彦……翠……あなた……っ」
 
 家族との思い出が、走馬燈として駆けめぐる。
 旦那はこんな病弱な自分をずっと支えてくれていた。
 真奈海と結衣は、本当に家族に尽くしてくれた優しい女の子たちだ。
 幹也と由貴彦はいたずらばかりでよく叱っていたけど、家族に笑いと元気を与えてくれた。
 翠は天使のように笑い、家族を癒やしてくれた。

 最後に家族に会いたかった。
 笑った顔を見たかった。
 子どもたちの未来を、一緒に見たかった。
 でも、それはもう叶わないらしい。

 それでも――
 たとえ自分が津波に流されようと、家族との思い出だけは絶対に、この世から流されることはない。
 ――紗綾だけでも生き残って!
 それだけを希望に、美佐子は飛んだ。
 紗綾を抱いて。
 自分が下になるように。


 そして――
 母の命がけの願いは、最後に成就された。


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