クリスが目を覚ましたとき、まず視界に飛び込んできたのは見慣れない天井だった。
 むくりと起き上がり、自分が簡素なベッドに寝かされていることに気づく。服も着替えさせられている。清潔でシンプルな白のシャツと膝丈の黒い短パン。
 隣を見ると、同じようなベッドで同じような服を着たレイリアが静かな寝息を立てていた。ほかにも目を向けると、一緒に死地をくぐり抜けた戦友たちが同じような状況で眠っている。
 地上――氷河の上に置かれた仮設シェルターの中だと気づく。仮設とはいえ造りはしっかりしていて、天井では等間隔に並んだLEDライトが煌々と灯っている。温度や湿度の管理も完璧で、薄着でも快適だった。
 クリスはベッドから下り、戦友たちが死んだように眠っている中を静かに歩く。
 出入り口のドアを開けると、両側に窓の並んだ狭い廊下が伸びている。
 何気なく外を見ると、氷河の大地と空が光に染まった幻想的な世界が広がっていた。大陽の光を受け、氷河は一面がきらきらと輝いている。空に雲はひとつとして存在しないが、それでも大地をそのまま映したように白い。
 廊下をそのまま進むと、曲がり角に面した一面が広場となっていて、簡素なテーブルや長椅子が置かれている。このシェルターのロビーに当たる場所だ。
 長椅子のひとつに、誰かが横になっていた。
 蒼一だった。彼は白銀色のオーバーコートを布団のように上半身にかけ、書類の束を枕にして眠っていた。
 クリスがテーブルを挟んだ向かいの長椅子に座ったとき、蒼一がおもむろに目を覚ます。

「ん……クリスか。おはよう」 
「おはようございます。こんなところで眠っていたら、風邪引きますよ?」

 蒼一は上体を起こし、両のまぶたを揉んだ。
 
「……なんかお疲れですね?」 
「さっきまで報告書を書いてた。きみたちと入れ替わりで入った別の部隊がさらに詳しく調査してくれて、上がってきた情報をわたしが全部まとめて……ああくそう、こういうのが得意なアーシャあたりに丸投げしようと思っていたのに、当てが外れた」

 蒼一は忌々しそうに、枕にしていた書類をちらっと見た。
 
「いまどき紙の報告書ですか?」
「メールでいいと思うだろ? でもきみのお父さんがそれを許さなかった。かなりデリケートな内容だから、万が一にも漏洩は許されないとさ。このわたしがメインシステムを組んだから、シディアスの情報管理は完璧だぞ。なのにいったいどこから漏れるっていうんだ」

 蒼一の愚痴はヒートアップしていく。
 
「それからユーベルのやつ、出世したのをいいことに、わたしのことをこき使ってないか。クリスからも言ってやってくれ。もっとわたしを大事にしろってな。じゃないと拗ねてやる」

 大の大人が「拗ねてやる」はないだろうと思うが、蒼一が言うと妙におかしい。クリスは苦笑した。
 
「伝えてもいいですが、たぶん逆効果です。父さんはさらにあなたをこき使うようになるでしょうね。とても楽しそうにしながら」

 蒼一も苦笑した。
  
「きみもユーベルのこと、よくわかってきたな……ああ、ちょっと待っててくれ」

 蒼一が立ち上がり、ロビーの壁際へと移動した。それからすぐ、台の上に置かれたコーヒーメーカーが音を立てる。やがて熱いコーヒーの入ったカップをふたつ持ち、蒼一が戻ってきた。
 ひとつをクリスに渡す。ありがとうと言ってから、彼女はそれを口にした。

「……美味しい」

 特に高級な豆を使っているわけでないのは最初から知っている。それでもクリスにとって、いままでの人生でもっとも美味しいと感じたコーヒーだった。
 蒼一はクリスの心情を察したのか、静かに微笑む。彼はなにも言わない。しかしその微笑みとコーヒーの香りが、クリスにとってなによりの癒やしとなった。
 クリスは窓の外へ視線を向けた。ロビーの窓は廊下のものよりも大きく、視界が広い。近くに別の部隊の仮設シェルターや、大型発電機が設営されているのも見えた。
 コーヒーメーカーの上の壁に、デジタル表示の時計がかけられている。クリスはそれをちらりと見ながらおもむろに言った。
 
「いま、夜中なんですよね」
「ああ。午前2時32分。こんな極地じゃなかったら真っ暗だな」
「白夜ってやつですね。……写真で見たことはありますけど、こんなにきれいだとは思わなかった。でも――」

 クリスの表情が沈む。彼女の言葉の続きを、蒼一が引き取った。

「こんな世界の下に、あんなおぞましい世界が広がっているとは思わなかった」
「はい……あれはいったいなんなの? ふつうじゃないっ」

 呼吸ひとつぶんの間を置いたあと、蒼一が神妙な表情で言った。

「あの施設のあらゆる技術が、最先端の科学で構成されていた。いや、それ以上だ。実際、我々がよく知る世界の10年は先に進んでいたな」
「10年も……?」

 教師が生徒に説明するような口調で、蒼一は続けた。
 
「たとえば空気の問題。生物が生きていくためには空気が必要だろう? だが、あの施設に外部からの空気を取り入れる装置はなかった。なぜだと思う?」
「……大規模な空調設備を造ると、外部から見つかりやすくなるから?」
「ご名答。では、空気の問題はどうしていた? 答えはすでにクリスも見ている」

 すぐにピンときた。
 
「もしかして、地下に広がっていたあの大森林ですか?」
「正解だ。冴えてるな? あの森林は、施設内に酸素を供給させるためのものだった。あの空間がどれくらい広かったと思う? なにもなければサッカーの試合ができるくらいだったよ」

 絶句したクリスをよそに、蒼一はさらに続けた。

「あのドローンもそうだな。あれはかなり高性能なAIが搭載されていた。学習能力は高く、命令の実行性も高い」
「じゃあ、あれがわたしたちを守るように攻撃してくれたのも――」
「わたしがコントロールルームで命令系統や優先順位をいじってそうさせた。近くにドローンの格納庫みたいな、これまた広大な部屋があってね。眠っていたところ悪いが、叩き起こしてやった」

 なにかがクリスの中で引っかかった。
 
「警備用にしては数が多すぎる気がするし、自爆装置みたいな危険なものまで搭載されている理由がよくわからないんですけど」

 へえ、と感心したように蒼一の瞳が光る。

「きみはどう思った? 自分の目で見て肌で感じて、率直に思ったことを話してほしい」

 一種のテストのようだとクリスは思った。シディアスの騎士が戦うのは犯罪者やテロリストや、ましてや巨大化した虫たちだけではない。
 情報戦。少ない情報の中から必要なものだけを読み解き、時には偽装された情報と戦い、取捨選択して「真実」をあぶり出す能力――シディアスは常に情報と戦っている。
 先ほどまで夢を見ないほど深く眠っていたのが功を奏したのか、クリスの思考はクリアだった。だから様々な情報を取捨選択し、論理を構築するまで時間はあまりかからない。

「あの施設内でミイラになってた人は、地上ほど多くなかった。となると、警備のすべてをドローンで賄っていたのならわかります。でも、やっぱり数が多すぎるような……もしかしたら、なにか別の目的があって製造されていたのでは……? ただの直感ですけど」
「……やはり血は争えないな」
「え?」
「きみの父さんも鋭い直感の持ち主だった。聞いたことはあるだろう?」
「……ええ、まあ」
「クリスの直感は正しい。あのドローンたちは、警備用に作られたものではなかった。もっとも、一部の機体を警備用として流用していたのは間違いなさそうだが」
「じゃあ……?」
「いわばビジネスだよ。お金儲けのための」

 クリスの中で、すぐに線と線がつながった。地下施設でレイリアが言っていた言葉を思い出す

『――中東かどっかのテロ集団がさ、ドローンや無人爆撃機だけを駆使して、無人で軍隊と戦ったって話を聞いたことあるけど――』
  
「あのドローンを売って、資金を得ていた?」
「ご名答。それを裏付ける証拠が施設のコンピューターにたくさんあったよ。運用資金は空気と違って、自然が勝手に生み出してくれるものではないからな。要するに兵器の密売によるビジネスだ。ちなみに、ティアースたちが見つけた動物がいただろう。あれもその一環だったらしいな」
「あれが?」
「たとえば、ふつうの牛を一頭育てる費用と手間で、あの巨大な牛一頭が飼育できたとしたらどうなる?」
「……市場がひっくり返りそうですね。ま、まさか、もう出まわっていたとか……?」
「いや。その形跡はなかった。軽く調べてみたんだが、あの動物たちは新鮮な状態でも、とても食べられるような代物ではなかった。生物にはその形と大きさに進化した必然性がある。それを無理やりねじ曲げようとしてもだめだったんだよ」
「……あの虫も?」
「そう。まあ、クモやムカデは厳密には虫じゃないが、ひとまず置いておこう――虫というのはこの世界でもっとも種類と数が多く、多様性に富んだ生物だ。それを踏まえて、もしもあれが完璧な統制と命令のもとで、しかもあの物量で戦場に現れたらどうなる、という話」

 あの大森林での「戦争」は、物量という点では完全に負けていた。それでもなんとかクリスたちが持ちこたえたのは、ひとえに知性の差だった。
 シディアスの騎士たちはきちんとした統制と、洗練された理のもとで戦っていた。洗練された理とは、武器や武術、そして星術のことを指す。
 対する巨大虫の軍団は、統制も理も存在しなかった。ただ本能の赴くままに襲いかかってくるのみ。だから虫たち個々の能力だけを見ると、実はそれほど高くはない。そこに勝ち筋があった。
 しかし、もしもあの虫たちに、シディアスの騎士のような統制と理が備わったとしたら。まさか星術が使えるようになるとはさすがにクリスも思わないが、それでも充分に脅威だろう。勝ち筋など完全に消え去る。 
 すなわち、考えるだけでも恐ろしかった。

「もうひとつつけ加えよう。あの大森林にあった植物は遺伝子操作がなされていて、通常の植物よりも多くの酸素を供給するようになっていた」
「え……?」
「たとえば短期間で成長し、酸素ではなく毒素を放出する樹木を遺伝子操作で作りあげる。それを敵の陣地に植えたらどうなる?」
「――っ!?」
「あの施設の連中は、そこまで考えていたらしいな。そんなことが記述された実験ノートやレポートがいくつか見つかったよ。非合法かつ非常識な遺伝子操作を実験する秘密研究所。研究成果を軍事転用し、莫大な資金を得る。危なっかしいにもほどがあるな」
「それなら、あのミイラ化した人たちはどうして……? たしか施設内部の空気は事前の調査でなんの問題もありませんでしたよね? そうじゃなかったら、わたしたちが侵入できていたとは思えませんし」

 当初、地上の観測基地で発見されたミイラは、未知のウイルスに感染して引き起こされたバイオハザードと考えられていた。当然、ウイルスの出所は地下の研究所。しかし調査の結果、その形跡はなかった。なんらかの外的要因で急激にミイラ化した、としか判明していない。

「現時点では、バイオハザードの可能性は限りなく低いな」
 
 クリスはごくりとつばを飲む。まだパズルのピースが足りない。
 その答えを示すように、蒼一は報告書の最後のページをクリスに見せた。1枚の写真が書類に張りついている。おそらくあの施設の内部とおぼしき無機質な壁。その中央に写る巨大な両開きの扉。映画に出てくる「絶対に開けられない金庫」のような、物々しい重厚感が漂っている。

「実は、この報告書はまだ未完成なんだ。写真の扉はコントロールルームにあってね。やけにセキュリティが頑丈でいまだに開けられてない」
「じゃあ、その先に……?」
「おそらく一両日中には開けられると思う。開いたら、クリスも中に入ってみるか?」

 答えるまでもなかった。


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