南極での出来事から、1年半の月日が流れた。
 まもなく19歳となるクリスは、見習いに当たる「準騎士」から、正式な騎士として認められた「正騎士」への昇進が内定していた。その直前に長期休暇が与えられ、彼女は現在、祖国を離れて異国の地にいる。
 日本――フォンエルディアから数千キロ離れた場所に位置するその国に、クリスはもう何度も来日を果たしている。彼女にとって、もうひとつの故郷と呼べるかもしれない。
 かの国ではゴールデンウィークと呼ばれる期間だった。5月の朝は涼しく快適で、潮風もほどよい強さで吹いている。
 ――その潮風と戯れるように、鋭い一閃が奔る。
 続けてさらに一閃。その刃は朝のやわらかい陽光を反射させ、青白く煌めいていた。
 
「はぁっ――」

 裂帛の気合いとともに長剣を振るうのはクリスだった。緑がかった長い金髪はハーフアップにまとめられ、彼女の鋭敏な動きを追うように揺れている。シンプルな白のシャツは陽光を反射させ、薄いグリーンのフレアスカートも彼女の動きに合わせて軽快に舞い踊っている。斬撃や動作に淀みはなく、実年齢よりもはるかに熟練した印象を与えた。
 クリスの正面に構えている男性は蒼一だった。
 芸術的なまでに美しい刀身を持つ日本刀を、巧みな動きで操っている。ブルーの半袖ワイシャツとベージュのスラックスというラフな服装。端正な顔立ちは涼しげで、激しく動きまわっているにもかかわらず、汗ひとつかいてない。
 ふたりの足もとは石畳が敷かれ、軽快な音を響かせている。西洋の長剣と日本刀という異なる種の剣戟同士が激しい風を巻き起こし、石畳の上に乗っていた砂を、優雅に宙に舞わせていた。
 日本の本土にほど近い、太平洋上に存在する離島。石畳のすぐ横は砂浜が広がっている。
 ふたりの戦いを祝福するように、あるいは鼓舞するように。押し寄せる波は静かに、ときには激しく鳴っていた。
 クリスの斬撃を軽やかに受け流した直後、蒼一が後ろに飛び退く。
 
「自分の動作にわたしの動作を投影して取り入れるんだ。大事なのは相手の呼吸を読むこと。なに、いまのクリスならできる」
 
 クリスは呼吸を整えたあと、剣を正眼に構えた。
 ひときわ大きな潮風がクリスの肌をなでた瞬間、動いた。鋭い呼吸とともに足が踏み出され、石畳を鳴らす。クリスの動きが新たな旋風を巻き起こした。
 一足飛びで間合いを詰めたと同時に、クリスは剣を振り抜く。足は止めない。先ほどとは違い、流水のような動きをまとって男性の周囲を常に移動しながら斬撃を繰り出す。
 クリスにとっては、動きまわっているときのほうが相手の呼吸が読みやすかった。
 否、「読む」というよりは「感じる」――顔を直接見なくても、蒼一の呼吸を肌で感じることができていた。そこに自分の呼吸を同調させて、常に一手先の動きをイメージして練りあげる。
 クリスの動きに淀みはなく、むしろ加速度的に洗練されていく。自分も相手の動きも、どんどんイメージしたものに近づいていく。1年半前、巨大な虫の軍団と戦っていたときよりも、すべての動作が洗練されていた。
 そして蒼一の表情には微笑みがたたえられ、まるで「娘」の成長を喜んでいるかのようだった。
 やがて――
 クリスのイメージが現実を追い越した。
 光速かと錯覚するような苛烈な連撃の果てに、針の先端ほどしかない極小の隙が蒼一の動きに生じる。それを縫うように、長剣の切っ先が日本刀の横っ腹を大きく叩いた。
 蒼一の手から日本刀が離れ、波打ち際まで吹っ飛んで砂上に刺さる。
 風の音も波音もクリスの耳には届かない。自分の心臓の鼓動だけが、激しく強く感じられた。 
 
「――――。ここまでだな」
 
 蒼一がやわらかな口調で告げる。闘いに負けたはずなのに、清々しい表情を浮かべていた。
 
「……手加減しませんでした?」
 
 クリスが目を細めて尋ねる。
 
「気のせいだよ」
 
 ゆっくりと日本刀の場所まで向かいながら、蒼一が軽快に答えた。

「強くなったな、クリス。お父さんがきみの年齢だったときより、だいぶ強いはずだ」
  
 日本刀を手に取る。それを蒼一は、光の粒子を伴ってどこかからともなく取り出した鞘に収めた。
 何度見ても見事な日本刀だとクリスは思う。
 銘は「蒼牙護神聖」。白塗りの太刀拵。柄頭や鍔、鐺などの部分は金色の装飾が施されている。たとえ刀剣に興味のない人間でも、その美しさに思わず見とれてしまうであろう鮮烈な存在感。
 直後、蒼一の手に握られていた蒼牙護神聖が光の粒子になって消える。
 彼がいま使用した星術は2種類。鞘を出現させたのが〈マテリアライズ〉――物質顕現星術。逆に、本体をすべて消滅させたのが〈イセリアライズ〉――物質霊化星術。物質を素粒子レベルにまで分解させるのが〈イセリアライズ〉で、逆にそれを再構成させるのが〈マテリアライズ〉である。
 
「それ、わたしにも教えてくれませんか?」
「これはかなり高度な星術に分類されるが……まあ、クリスなら大丈夫か。きみのお母さんは、たしかいまのクリスの年齢のときには使いこなせていたし」
 
 蒼一はクリスの両親が若いとき――それこそふたりが十代のときからの知り合いだったことは聞いていた。しかし、現在両親はともに四十代半ばだが、目の前の真城蒼一という男はどう見てもそれより若い。三十代半ば、あるいは二十代でも通用するような若々しさを持っている。ところが四十代、五十代になってもめったに見られない貫禄と存在感を併せ持っていて、正確な年齢が判然としない。そういえば蒼一の年齢は聞いたことがないなと、クリスはいまさらながら思い出した。
 クリスがその疑問を口にしようとした矢先――
 
「おとーさーん! クリスぅー!」
 
 幼く爽やかな声が響く。
 海と反対の方角には、城のように大きな邸宅が存在していた。その玄関からぴょこんと飛び出し、駆けてくるひとりの少女。
 蒼一の娘、真城悠だった。可愛らしいピンク色のパジャマにサンダルを突っかけている。天真爛漫な笑顔をたたえ、長い金髪が潮風に揺れて煌めいていた。
 やがて駆けてきた悠が思いっきりクリスの胸に飛び込む。その際、クリスの金髪と少女の金髪が交わるように揺れた。端から見ると姉妹のようだが、近くでよく見ると金髪の色合いが若干違うことに気づくだろう。 
 
「おはよう、悠」
「おはようクリス! お父さんもおはよう」
「ああ。おはよう」
「ねえねえクリス、なんでわたしのこと起こしてくれなかったの?」
 
 くりっとした碧眼にわずかな怒りを宿している。頬も少し膨らませているが、クリスから見たら可愛いだけだ。
 
「だって、惺と一緒にぐっすり寝てたし。起こすのも悪いかなと思って」
「むぅ、起きるのに」
 
 そのとき、悠のおなかが「ぐぅ」と可愛らしい音を立てる。
 
「おなか空いた?」
「……うん」

 クリスが尋ねると、悠は少し恥ずかしそうに頬を赤らめた。
 
「ですって、蒼一」
「ああ。ちょういい時間だから朝食にしよう。悠、なにが食べたい?」
「納豆ごはん!」
「……う」
「クリス、好き嫌いしちゃだめなんだよ?」
「わ、わかってるけど……どうして日本人は、あんな臭くてネバネバしたもの食べられるの?」
「臭くないよ。納豆おいしいもん。ね、お父さん?」
「はは、そうだな。クリス、フォンエルディアに帰国するまでに納豆は克服してみよう。栄養豊富なんだぞ」
 
 苦笑しながら蒼一が言う。悠も笑い、クリスもつられて笑みを浮かべる。
 
「悠、食べ終わったらピアノ聴かせて」
「うん!」

 その日はまだ始まったばかりだった。


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