朝の瑞々しい陽光が窓から差し込んでいる。そのやわらかい光の粒子と戯れているのは、ピアノの旋律だった。
 あまねく世界は美しい――まるでそれを表現するかのように清澄で神聖な旋律が響きわたる。明るく、温かく、なにより優しい音色。
 時には哀しみに沈み、時には激情で満たされる。楽しげに跳ねて、幸福に打ち震えるような音もある。旋律は人が抱いている普遍的な感情を、余すことなく表現しているように響いていた。
 30畳ほどの広さを持つ室内のほぼ中央にグランドピアノが鎮座していて、旋律は室内を通り越して、外の世界にまで響いているようだった。
 ピアノの前の椅子に悠が座っている。彼女の白くて可愛らしい指先が、鍵盤の上で楽しげに踊っていた。
クリスはソファに座り、軽く微笑みながら悠の背中を見つめている。
 悠の演奏技術は年を追うごとに、想像を絶する速度で向上しているように感じられた。音色だけ聴いて、10歳の少女が弾いているとは誰も信じないだろう。それほどまでに圧倒的な演奏だった。
 だからいまでは、悠がすでにプロのピアニストとして活躍していることも、すんなりと信じられる。2年前の今頃、悠がヨーロッパに渡り、プロデビューを果たしたと蒼一から聞かされたときはさすがに驚愕したが。 
 クリスは再び悠を見た。この世のすべての幸福を、ピアノの旋律に乗せて世界中に届けたい――そんな思いを抱いてピアノを弾いているのが全身から伝わってくる。楽しそうな横顔は可愛らしくきれいで、どこか儚い。天は二物を与えない、などという格言は嘘だと思った。
 クリスは悠の背中から視線を外した。
 ピアノのすぐ近くに車椅子が置かれている。そこにひとりの少年が座っていた。淡い亜麻色の髪をやや短めに切りそろえている。無地で半袖のTシャツと短パン。肌は白く、細い指先に至るまで染みはひとつもない。
 1年半前、南極の地下――ヴィクター研究所とクリスたちが呼ぶ施設で発見された唯一の生存者――真城惺。
 彼の瞳は特徴的だった。感情の「色」を感じない透明な瞳。それを前方に向け、一点を見据えている。忘れた頃にまばたきをするくらいで、ぴくりとも動かない。呼吸すらしてない人形のようにも見える。
 クリスは立ち上がり、惺の横に移動。しゃがみ込んで彼の細い手を握った。体温は低く、触れられてもぴくりとも動かない。
 ピアノの旋律はクライマックスに差しかかり、ダイナミックに転調していく。クリスが意識をしてなくても、旋律は問答無用に心に染みわたって震わせてくる。
 それでも惺は動かなかった。
 ――そのとき不意に。惺の指がぴくりと動く。それだけでなく、クリスの手を弱々しく握り返してきた。
 
「……惺?」
 
 しかし呼びかけには反応せず、握り返していた手からも力が抜けていた。さらに呼びかけようとしたクリスの鼻孔が、爽やかな紅茶の香りをキャッチする。
 トレイを持った蒼一が、ちょうどこちらへ歩いてくるところだった。
 
「今日の惺は調子がいいみたいなんだ。ベッドから車椅子に移すときも、自分から動こうとしていたし」
 
 蒼一がトレイのティーセットをテーブルに移動させる。やがて紅茶の注がれたカップをテーブルに置いた。
 
「よくなってきているんですか?」
「ああ。去年は完全に寝たきりだっただろう? ゆっくりだけど確実に、人としての『正常』に戻ろうとしている」
 
 1年半前の発見からしばらく、惺の意識は戻らないままだった。1週間くらいしてやっと目を覚ましても、意識はあるはずなのに呼びかけに応えず、なんの反応も返さないという一種の昏睡状態が続いていた。
 原因は不明だった。精密検査の結果、脳の活動は健常者と変わりない。肉体は少々栄養不足の傾向が見られたが、それ以外はほぼ健康的といえた。
 それから半年ほどフォンエルディアの医療施設に入院し、その間に様々な検査と治療を試みたが、惺の状態を説明できる医師は存在しなかった。
 医学的な治療を断念し、惺が蒼一とともに日本へ帰国してきたのはいまから1年ほど前。そのときはクリスも付き添った。たしかに当時は完全な寝たきりで、植物状態と呼んでも差し支えない状態だった。

「――クリス!」
  
 悠がクリスの胸に飛び込んだ。クリスが思考の海に沈んでいたあいだに、ピアノの演奏が終わっていたらしい。彼女は悠の頭をなでながら、「悠のピアノに、惺が反応したのよ」と伝える。すると悠は、今度は嬉しそうに惺に飛びついた。
 クリスはソファに座ってカップを手に取りながら、微笑ましそうに惺と悠と眺めた。惺は相変わらず目立った反応がない。しかし悠は構わず、楽しそうに話しかけている。惺の反応はなくても楽しそうだった。
 
「悠はいい子ですね。惺がどんな状態でも、臆している様子はないみたいだし」
「そうだな。惺をはじめてここに連れてきたときからそんな感じだったよ。実際、わたしも悠には助けられている。もっとも、悠の双子のお兄さんなんだよと紹介したときは、それなりに驚かれたが」
「そりゃそうですよ」

 クリスと蒼一は笑った。 
 朝の光は先ほどからずっと優しく降り注いでいる。紅茶の香りが漂う空気も穏やかで、室内は幸福に満たされていた。
 穏やかな一日は、まだ続いていく。


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