午後5時半過ぎ。見事な茜色の陽光が、すやすやと寝息を立てている悠の横顔を照らしていた。遊び疲れたのか、悠はソファの上でクリスの膝を枕にして眠っている。寝顔はまさしく天使のようで、1日中見ていても飽きないだろう。惺も車椅子の上でうたた寝をしていた。
 悠の頭をなでながらほっこりとしているクリスに、向かいのソファにいる蒼一が尋ねる。

「正騎士に昇進したら、どこに配属になるんだ?」
「レイリアと一緒です。ティアース先輩の小隊ですよ」
「あいつが小隊長ってことか? あのチャラ男が出世したな」

 日本に滞在中、クリスは日本語を話している。悠がフォンエルディア語を理解できないためだ。だから「チャラ男」の意味がよくわからなかったが、文脈から褒め言葉ではないなと、なんとなく思う。

「最初の勤務地は?」
「たぶんエクスウォードになるかと」

 ほう、と蒼一がうなる。

「いきなりきな臭いところだな。ということは、相手は『ステラ・レーギア』か」
「はい。特にここ1年ほど、急速に勢力を増していて。フォンエルディア軍だけでは手に負えなくなっているようです」

 フォンエルディアが国家として保有している軍隊がフォンエルディア軍である。他国の軍隊がそうであるように、自国の安全保障や治安維持を請け負っている。当然ながら、国際機関であるシディアスとは別組織だ。 
 フォンエルディア大陸の南西部には広大な荒野が広がっている。その一帯の地域がエクスウォードと呼ばれており、そこを拠点に活動する過激派テロリスト集団がステラ・レーギアだった。しかし本人たちは革命集団と名乗っている。何年も前から自分たちの理想郷を創りあげるという目標を掲げ、革命という名のテロ行為に及んでいた。すでに複数の街や村落を不法占拠し、自らの「国」と称して支配している。
 フォンエルディア国内は基本的に治安はよいとされている中、エクスウォードだけが例外となっている理由だ。現在では、フォンエルディア政府の許可を得ずに一般人が立ち入ることはできない。

「それで、父から伝言があるんですけど」
「……わたしに?」

 蒼一は苦い顔をした。

「なんで露骨に嫌そうなんですか」
「昔からこういうタイミングで出てくるあいつの伝言は、いろいろと面倒だったんだよ。……まあ、とりあえず話だけは聞いておこう」
「あなたに、そろそろシディアスに戻ってきてほしいそうです」

 ああ、やっぱりな、という顔を蒼一は見せる。

「わたしがいなくても、ユーベルなら充分まとめられるだろう」
「外部の評価を見ても、娘のわたしから見ても、父の指揮能力は完璧です。この上ないくらいに。けど父はもうさすがに、現場に出るような立場ではありません。だから、なんの心配なく現場を任せられる人材がほしいみたいで」

 クリスの父ユーベル・レオンハルトは、シディアス全体でも10人もいない最高位の称号「天騎士」を戴き、昨年シディアスを束ねる総長へ抜擢された傑物である。
 そしてそんな傑物と肩を並べる存在が真城蒼一という男だった。階級は天騎士の下に当たる「煉騎士」止まりだが、あらゆる能力が傑出して高い。武術の能力はシディアス最強と名高いユーベルに引けをとらず、星術の知識や能力に関しては間違いなくシディアス随一。そのほか、あらゆる分野に対する知識も豊富。現場での指揮能力にも長けている。
 そして、蒼一をもっとも特異な存在としている要素が、その「自由さ」である。歴史が古く規律厳しいシディアスの中で、彼は常に自由で在り続けている。本当に必要だと判断した状況や期間でしか活動せず、どういうわけか好きな時期に好きなだけ休暇を取得することができる。蒼一がいま以上の昇進を拒んでいるのは、その自由さを失う恐れがあるかららしい。

「しかし、クリスを通じての搦め手とはユーベルも考えたな。クリスに頼まれたら断りにくいじゃないか」
「じゃあ……」
「おっと。まだ引き受けるとは言ってない。――ふふ、きみもそろそろ大人の駆け引きを覚えたほうがいい。一人前の騎士に必要な要素だ。わたしを説得してみろ」

 さあ、まずどんなカードを出す? など言うような挑戦的な眼差しをクリスに向けてきた。
 予想どおりの展開に、クリスは思考を冷静に回転させる。
 対する蒼一は余裕の表情で、紅茶を口にした。
 
「惺と一緒に帰国してからはずっとこの家にいたそうですね。そろそろ働かないと、悠に『お父さんは無職なの?』と疑われませんか?」

 蒼一は紅茶を吹き出しかけた。

「ちょ、ちょっと待ってくれ――」

 クリスはさらに畳みかける。

「日本にはニートという言葉がありますよね。悠はたぶんまだ知らないでしょうから、この際教えてあげましょう。『ニートっていうのは、悠のお父さんのことを言うの。ああなっちゃだめだよ』って。本当に心苦しいのですが」

 クリスがそう言いながら頭をなでると、悠は眠りながら気持ちよさそうな声をあげた。
 それを見た蒼一がめげる。
 
「……だ、だ、だいたい、うちは見てのとおり資産家なんだ。無理して働かなくても、悠の孫の代くらいまで遊んで暮らせる貯金があるんだな、これが」

 言いながら、いきなり不敵に笑う蒼一。だが口もとが引きつっていた。

「そういうこと、悠の前で言わないでくださいね。教育に悪いです」

 蒼一は「え、それをきみが言う?」などと抗議の視線を送ったが、クリスは軽やかに黙殺した。
 
「ま、まだわたしは説得できてないぞ! そもそも、悠はともかく惺はどうすればいい?」
 
 悠がピアニストとして活動している期間、彼女はヨーロッパにいる蒼一の知り合いに預けていると聞いていた。しかし学業との兼ね合いもあるため、ずっとあちらに滞在しているわけではない。定期的に日本へ帰国し、そのとき蒼一がいない場合は近所の信頼できる家族に世話を頼んでいるそうだ。
 しかし惺はそう簡単にはいかない。車椅子に乗れるようになったとはいえ、寝ているとき以外は人の手を借りなければ生活できない。それが長期間となると、信頼の置ける相手でないと預けられないだろう。
 
「蒼一が働いているあいだ、惺はうちの母が預かってくれるそうです。もちろん無償で」
「……アデリアが?」 
「うちの母では心配ですか?」
「心配なわけあるか。むしろ、世界中でもっとも惺を預けるのにふさわしい女性だろう……というか、その言動だとすでに了承を得ているように聞こえるが」
「悠はともかく、惺のお世話については最初から話題にのぼりそうでしたから、あらかじめ先手を打っておいたんです」
「……ユーベルかアデリアの入れ知恵か?」
「いいえ。父からは『蒼一のやつはきっと自分を説得してみろとか、面倒くさい駆け引きを持ちかけてくる。暇な無職だから』と言われました」
「おい」
「母からは、『蒼一さんは妙にプライドが高くて、それをへし折られると、とっても可愛らしくなるのよ。うふふ』と」
「おいっ」
「でもふたりとも、具体的にどうすればいいのかは教えてくれなかったんです。全部自分で考えてみろ、とでも言いたげで」

 蒼一はうなった。

「それで、自分で考えたと」

 クリスは首肯した。
 それらを踏まえて、蒼一のプライドをえぐるような絶妙な言葉(悪口)を織り交ぜつつ、重要な点――惺についてのフォローを忘れなければなんとかなるだろう、とクリスは考えた。
 実際、クリスの考えは正しかった。蒼一が観念したように静かに笑ったからだ。
 
「いや、恐れ入った。わたしの完敗だ。まさかそこまで考えていたとは。きみを舐めすぎていたな」
「では――」
「わかったよ。ユーベルの頼みは引き受けよう。さすがにここまでされて断るのは大人げない」
「ありがとうございます」
「しかしきみは末恐ろしいな。両親それぞれの有能で恐ろしい部分を見事に引き継いでいる。……と、うるさくしすぎたかな。眠り姫が目覚めたようだ」

 悠が目をこすりながら起き上がる。寝ぼけているのか、あたりをきょろきょろ見まわしていた。
 その直後、悠の腹が再び「ぐぅ」と鳴る。クリスは笑った。

「おなか空いたの?」
「……うぅ」
「はは。クリスも来ていることだし、ディナーは星峰さんちで食べようか。小夜子ちゃんも奈々ちゃんも、クリスに会いたがっていたし」

 蒼一がいないときに悠の世話を頼んでいる近所の家族が星峰家である。「トラットリアHOSHIMINE」という店を経営しており、本場のイタリアンよりも美味しいと人気急上昇中の店だ。真城家とは昔から家族ぐるみの付き合いがあり、以前にクリスも何度か来訪したことがある。
 ――その後、クリスはトラットリアHOSHIMINEで楽しく賑やかな夕餉を楽しんだ。


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