「――ある日、悪しき存在である『イーヴル・ロア』が、突如として世界に現れました」
午後9時過ぎ。トラットリアHOSHIMINEから帰ってから悠と一緒に入浴を済ませたあと、クリスは大きなベッドの上で絵本を広げながら座っていた。その右ではパジャマ姿の悠が座っており、クリスの語りを先ほどから熱心に聞いている。
惺はいま、蒼一と一緒に風呂に入っていた。
悠が「はい!」と元気よく手を挙げる。
「イーヴル・ロアってなぁに?」
「えーとね、魔物とか悪魔みたいな存在って言えばわかるかな。悪い存在なの」
「……桃太郎に出てくる鬼みたいな?」
「そうそう、そんな感じ。人間をむしゃむしゃ食べたり、悪いことしたりするの。そんなのが大昔、地上にいっぱい現れたんだって」
クリスが呼んでいる絵本は、フォンエルディア国内では著名なおとぎ話だった。
日本ではあまりなじみのないフォンエルディアのおとぎ話や絵本を見繕い、来日するたびにお土産として悠にプレゼントしている。絵本はフォンエルディア語で書かれているため悠は読めないが、いつもクリスが読み聞かせてくれるのを楽しみにしていた。
クリスが続きを読む。
「――イーヴル・ロアは人類に危害を加えます。結局最後まで、人類とイーヴル・ロアは仲よくすることができませんでした。だからもちろん、人類はイーヴル・ロアを退治しようとします。しかしイーヴル・ロアはあまりにも強く、ふつうの人間では敵いません」
フォンエルディア語で記述された物語を、日本語に訳しながら読んでいる。高度な技術が必要だがもう何度もやっているため、クリスの語りに淀みはない。
「――やがて、イーヴル・ロアとの戦争で、人類に滅亡の危機が訪れます。しかしそんなとき、人類の中にひとりの女性が生まれました。名前はヴァレリア。彼女はその後、『星女』と呼ばれることになります」
「星女?」
「星女ヴァレリアさま。フォンエルディアでは有名な存在なの。『いい子にしてると、星女ヴァレリアさまから祝福されるよ』とか、子どもの頃によく言われるの。逆に、『悪い子になるとイーヴル・ロアに食べられちゃうからね』って言われる」
「へえ……」
「――滅亡しようとしている人類を星女ヴァレリアさまは嘆き、神に祈りました。すると祈りが届いたのか、天から『星櫃』が舞い降りてきました」
「星……櫃?」
クリスが絵本の絵を指さす。そこには、石造りの棺が描かれていた。
「これもフォンエルディアでは有名な存在なの。『すべての願いを叶える希望の箱』って伝えられてるね」
「へえ……すごいね」
「――星女ヴァレリアさまは、星櫃に祈りました。『イーヴル・ロアをやっつける力が欲しい』と」
輝いている悠の瞳が、早く続きを聞きたいと訴えている。
「――ヴァレリアさまの願いは聞き届けられ、人類全員にイーヴル・ロアをやっつける『奇跡の力』が備わります」
「奇跡の力? なんかかっこいい!」
「そうだね。ちなみにそれがね、いまでは星術って言われてるの」
「そうなんだぁ!」
クリスは続きを語った。
人類に星術が備わり、イーヴル・ロアに対する人類の反撃が始まる。最終戦争が勃発し、長い戦いの末に人類は勝利。イーヴル・ロアを駆逐することに成功する。平和な世界を取り戻したところで物語が終わった。
「もしも目の前に星櫃があったら、悠はどんなお願い事をする?」
「うーん、そうだなぁ……」
可愛らしい仕草をしながら、悠が考える。しかしすぐに答えを思いついたようで、ぱぁっと笑顔の花が咲いた。
「惺が元気になりますように、ってお願いする!」
「そう……悠は優しいね」
クリスが頭をなでると、悠はとろけるような笑顔を浮かべた。
いまみたいな日常を大切にしよう、とクリスは思う。シディアスの正騎士になって現場に派遣されれば、本格的に忙しくなると予想している。このようにのんびり暮らすのは、この休暇が最後だろう。だから、せめて最後まで精いっぱい楽しもうと思った。
――実際、クリスの予想は正しかった。
しかし、人生を変える出来事が待ち受けているなどと、いまのクリスに知るよしはない。