バスルームでの出来事から数日が経過した、ある日の昼下がり。
 大型ショッピングモールの一角、カジュアルなファッションブランドの店舗内にクリスたちはいた。レビンソン家の邸宅から車で1時間ほどの距離。この近辺ではもっとも大きな商業施設である。
 2日前、レビンソン家の長男アレックスの妻が、無事に赤子を出産した。父親と祖父の血筋なのか、きれいなアッシュブロンドの髪をした女の子。そのお祝いの品を買うためのショッピングだった。 
 が、目的はそれだけではない。
 ――試着室のカーテンが開くと、中で笑顔の花が咲いていた。
 
「クリスさん! どお? 似合う?」

 くねっとしなを作ってポーズを決めるアルマ。デニムのキュロットからスレンダーな足が伸びている。シンプルなシャツの上にピンク色のパーカーを羽織り、いつもの女の子らしい服装とは打って変わって、ややストリート系に寄せている。
 
「似合ってるわよ。惺もそう思う?」
 
 隣に立っていた惺に問いかけると、彼は小さくうなずいた。
 えへへ、と照れるアルマは本当に可愛らしい。近くの棚で服の整理をしていた女性店員も、手を止めて感心したようにアルマを見つめていた。
 妹や弟と買い物に来たらこういう感じになるのだろうと、ひとりっ子であるクリスにとっては新鮮な感覚だった。
 そのとき突然、右隣の試着室のカーテンが開く。

「ちょっ!?」
 
 下着姿のセイラが無表情で立っていた。機能性のみを追求した、シンプルなグレーのスポーツブラとショーツ。それが逆に、彼女のスタイルのよさを強調していた――などと見とれている場合ではない。
 
「なんで服着てないの!?」
 
 急いでカーテンを閉める。後ろで女性店員が目を丸くして見ていた。

「……着方がわからない」
 
 抑揚のほとんどない声が、カーテンの向こうから聞こえてきた。
 そこでクリスははっとする。セイラは物心ついたときから暗殺者として育てられていた。そこにクリスが経験してきたような「日常生活」など存在してなく、ふつうの女の子だったら成長していく上で自然と身につけていく常識を、セイラは知らないのだ。
 その常識を身につけてもらうためにここに来ているのだと、クリスは思い出す。あまりにも楽しくて忘れかけてしまった。いつまでもレイリアのお古ではかわいそうだからと、あまり外に出たがらないセイラをわざわざ連れ出したのに。自分にとっても新鮮な日常がこのところ続きすぎて、思考がたるんでるなと意識を戒めた。

「わたしが教えてあげる!」 
 
 アルマが試着室からぴょこんと出てきて、セイラのいる試着室に入っていった。
 
「……はぁ、セイラちゃんってやっぱりおっぱい大きいよね。足も長くてお肌もきれい!惺くんが触りたくなっちゃう気持ちもわかるよ」
 
 アルマの興奮した声がカーテン越しに聞こえてくる。対するセイラは終始無言で、戸惑ったような気配が伝わってきた。
 2分ほど経った頃、カーテンが開く。

「へえ……」
 
 アルマの隣で、純白の花が咲いていた。清楚な白のワンピースに包まれ、いつもの無骨でボーイッシュな出で立ちとは正反対の印象を与える。さらに、無感情な表情が一種の儚さを演出し、その美しさに華を添えていた。
 もともと素材がいいのはクリスも気づいていたが、ここまで化けるとは思ってなかった。きれいさと可愛さを兼ね備えたハイブリッド美少女。実際、例の女性店員も仕事そっちのけで、興奮気味に拍手を送ってきていた。
 
「……動きづらい。別の服を所望する」
「えぇ、もったいないなぁ。ねえねえ惺くんもそう思うよね? こっちのほうが可愛いよね?」
 
 こくり、と惺はうなずく。この子は嘘をついたりお世辞を言う性格ではないから、きっと本心でうなずいたのだろうとクリスは思う。
 
「次! クリスさんの服も選ぶ!」
「え、わたしはいいよ」
「だーめ。クリスさんってそういうの無頓着なんでしょ? 『クリスのコーディネートはアルマちゃんに任せた』って、蒼一さんに言われてるの」
 
 えっへんと胸を張るアルマに、クリスは苦笑するしかなかった。 
 惺とセイラは、無感情な眼差しを楽しげなふたりに投げている。
 どうして笑っているのだろう。そもそも笑うってなに? ――そんな根本的な疑問を、瞳にわずかに宿しながら。 
 陽気で穏やかな雰囲気を伴って、買い物は夕方まで続いた。

◇     ◇     ◇  


 それからさらに数日が、何事もなく過ぎ去っていった。
 なんとなく夜風に当たりたくて、クリスは夜のテラスに出る。
 先客がいた。穏やかな夜風が銀髪をなでている。
 
「セイラ?」
 
 壁に背を預け、膝を抱えて座っている。着ている服は、シンプルなシャツとカーゴパンツ。ショッピングモールで購入した新品だ。やはり最後は、着慣れている服装を選んでいた。
 セイラは、ぼんやりと空に向けていた視線をクリスに向けた。
 無言。
 クリスも無言を返した。が、こういう空気が苦手なクリスは勇気を出す。
 
「隣、いい?」
 
 こくりとうなずかれ、クリスは隣に座った。近すぎず、遠すぎずの絶妙な距離に。
 セイラは再び空を見上げた。
 
「空、見てたの?」
「…………」
「きれいだね」
 
 夜空を彩る光の饗宴は、今日も健在だった。不変的で普遍的な姿がそこにある。
 しばらく静寂が落ちた。怖いほどに静かで、世界のすべてが夜空に吸い込まれたかのような錯覚に、クリスは思わず息をのむ。
 やがて、静寂を破ったのはセイラだった。

「……今日、はじめてタバサのことを抱かせてもらった」

 アレックスの娘の名だった。

「赤ちゃん、温かくてやわらかかったでしょ?」

 セイラはこくりとうなずいた。
 生まれたばかりの赤子と触れ合う機会などなかったセイラにとって、それは新鮮で衝撃的な経験だった。
 温かくて、体重のすべてを預けてくる。しかしセイラが仏頂面したまま抱いていると、タバサは泣き出してしまった。
 そのときのセイラの困った表情を思い出して、クリスは苦笑を禁じ得なかった。
 
「――わたしは、人殺しだ」
 
 予想していなかった話題を唐突に投げられ、苦笑していた顔が一転して引きつった。
 
「ど、どうしたの、急に?」
「たくさん殺した。臨月だった妊婦を殺した記憶も……おぼろげながらある」
「――っ!?」 
「わたしは――」

 黙って言葉の続きを待つ。

「わたしは、嬉しいも楽しいも哀しいもなにも……なにもなかった。どんな感情もなく、ただ機械のように、命じられるがままに人を殺してきた」

 セイラの言葉は、いままで感じたことがないほど重かった。まるでその「事実」に押し潰されそうになっているのではないかと、不安を覚える。
 
「でも正直、あまり覚えてない。記憶に靄がかかったような感じで」
 
 マインドコントロールの影響だろうと、以前蒼一が言っていた。特に、セイラが暗殺者として活動し始めた最初期の頃の記憶はほとんどないらしい。そのせいで、もともと蒼一が知りたがっていた情報もまだ充分には得られてなかった。
 セイラがクリスを見据える。深く、真摯な眼差しで。
 
「わたしがアヌビスにどういうことをされてきたのか、蒼一からだいたい聞いている。でもそんなことは免罪符にならない。わたしの罪はわたしだけの罪だ」
「――――」
「今日、はじめて思い知った。人の温かみを。わたしがいままでそれを、無慈悲に奪い続けてきたことに。――クリス、わたしはどうしたら償える?」
「そ、それは――」
「蒼一に内緒で調べた。この国の法律。フォンエルディアに死刑制度はない。だから、重罪人は終身刑が最高……だからわたしは、一生刑務所の中で暮らすことになると思う」
「えっ――?」


「近いうちに自首しようと思う」

 
 あまりにも現実的な告白に、クリスの思考は停止してしまう。
 セイラは静かに言葉を続ける。
 
「まだ蒼一にも話してない……誰にも、話してない」
「ど――どうして」
 
 声がかすれていると、自分でも気づいた。
 
「このレビンソンの家でしばらくみんなと過ごして……うまく言えないけど、心が温かくなった気がする。ん……違う……? そう……いままでが冷たすぎたってことに気づいた……ん。そっちのほうが正しい」
「――――」
「このまま行くと、わたしはたぶん『幸せ』を感じてしまうと思う」
「…………、し、幸せ?」
「そう。幸せ。人のぬくもり。たぶん、わたしの心がどこかで求めていた感覚」
「それを感じちゃいけないの?」
「たくさんの人々からそれを奪い続けてきたわたしが、幸せになっていいとは思えない」
「そ、それはっ」
「なんの罪もない人たちを――名前も知らない人たちを、わたしは、この手で――」

 自分の両手を見つめるセイラは、わなわなと震えているようにも見えた。
 
「……セイラ」
「最近、ずっと考えていた。わたしはここにいてはいけない。……違う。そもそもわたしの居場所など、もうこの世にない――っ!」
「違う!」
 
 突然ぬくもりに包まれ、セイラの体が硬直する。
 クリスがセイラを抱きしめていた。クリスの胸はやわらかく、なにより温かかった。その事実が、セイラの心を揺り動かす。
 
「そんなこと言わないで。せっかく、正気を取り戻しつつあるのに……っ」
「正気じゃなかったことは、免罪符にはならない」
「――っ。でも、だめ。せっかく蒼一が命がけで救い出してくれたのに、生きたまま死ぬみたいな言い方しないで。いままであなたが殺してきた人たちに、最低限の合わす顔すらなくなっちゃう」
「合わす顔なんて、最初からない」
「そんなこと言わないで」
 
 クリスはセイラの顔を見つめた。
 クリスの空色の瞳に映っている泣きそうな顔をした人物は誰だろうと、セイラは疑問を抱いた。
 
「――ねえセイラ。人の魂は死後どこに行くのか知ってる?」

 考えたこともなかった問いに、セイラは力なく首を横に振るしかできなかった。 

「死んだ人の魂は、ある場所に運ばれるの」
「ある……場所?」
「そう。誰の手も届かない『星の記憶の在処』って場所。そこに至った魂は、次に生まれ変わるのを待つ」

 フォンエルディアに伝わる神話のひとつ。子どもの頃、母によく聞かされていた。
 
「だから祈りましょう。あなたがこれまで殺めてしまった魂が、いつか生まれ変わって幸福な人生を歩めるように」
「祈る……わたしが……わたしに、そんな権利が――」
「権利なんてどうでもいいのよ。もしもあなたに少しでも償いたいという気持ちがあるのなら、自暴自棄にならず、必死に祈り続けるの。あなたが生きているあいだ、ずっと――」
「それが贖罪?」
「そう。……もしかしたら、許してもらえないかもしれない。それでも、あきらめずに祈り続ける。その果てになにがあるのか、わたしにはわからない。けどなにもしないよりは、すべて投げ出して自暴自棄になるよりは絶対にいい」
 
 セイラはクリスの瞳を見つめた。先ほどまで泣きそうだった表情は映っていない。しかし今度は、救われたような表情をして映っているのは誰だろうと、不思議に思った。


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