6-3

「……くっ」
 
 クリスの額に冷や汗が浮かぶ。しかしそれはすぐ、頭に巻かれたバンダナに吸収された。
 慎重に腕を動かす。
 ――が、ぎこちない動きに指を切りそうになる。
 クリスが握っている得物は、剣ではなく包丁だった。彼女の慣れない動きで皮を剥かれているのは瑞々しいリンゴ。だが皮だけでなく実の大部分が削られ、手の中でどんどんその質量を減らして見窄らしいリンゴに生まれ変わろうとしている。

 ――こ、ここまで難しいなんてっ!

 刃物の扱いはある意味慣れているはずなのに、どうして得物が変わるとここまで適応できないのだろう。    
 ある日の昼下がり、ピンクのエプロンを着用したクリスがレビンソン家のキッチンを借りている。この場にはクリスしかしない。蒼一に頼み、惺やセイラとともにアルマを連れ出してもらっていた。
 アルマの誕生日が、明日に迫っている。
 アマンダにアルマの誕生日のことを教えてもらったのが2日前。ケーキを作って祝おうとクリスが思い立ったのが昨日。そのとき、子どもの頃に母に作ってもらったリンゴのクラフティケーキを思い出す。はじめて食べたときはあまりにもおいしくて、ひとりでほとんどを平らげて母に苦笑された。だから昨日のうちに母に頼み、レシピをメールで送ってもらっていた。

「……くっ」

 本日何回同じ声が漏れたのか、自分でも覚えていない。
 午前中に材料を買いに行き、昼食のあとからいまに至るまで、クリスは慣れない料理に苦労していた。料理上手な蒼一の手を借りたほうがいいのかと一瞬考えるが、その選択肢はない。
 ひとりでなんとかしたい。だから先ほどからひとりで悪戦苦闘しているのだった。
 リンゴの皮むきは後まわしにして、タルト生地を作ることにする。

 ――こ、これなら大丈夫。だって、分量を量って混ぜるだけだから。

 大きめのフライパンを火にかけ熱したあと、バターを落とす。すぐにバターが溶けて、香ばしい香りを発した。
 しかし。
 
「………。……あれ? わっ、焦げてるっ!?」
 
 急いで火を消すが遅かった。真っ黒に変色したバターが、フライパンの上で香ばしさを通り越した焦げ臭さを放つ。
 レシピには「フライパンを火にかけてバターを溶かす」とだけしか書かれていない。レシピどおりにやったのにどうして失敗するのか、クリスは意味がわからなかった。実際はフライパンを軽く熱したあとすぐ火を消して、余熱でバターを溶かすだけの作業だったのだが、残念ながら彼女にそれを読み解く能力はない。
 クリス自身に料理の経験はほとんどない。子どもの頃の食事は母や家のお手伝いさんが作ってくれていたし、シディアスの騎士になってからは寮生活だったが忙殺され、とても自炊する時間などなかった。
 日本に「女子力」と呼ばれる不思議な概念があることを思い出す。そして自分は、これまでそれを磨いてこなかったツケがいま支払われているのだと悟る。
 リンゴに敗北し、タルト生地に完封され、あとはカスタード生地しか残されてない。しかしこれにも負けたらあとがないと、クリスは怖じ気づいてしまった。
 そんなとき、背後に視線を感じた。 
 振り返った先、キッチンの入り口に惺が立っていた。彼は中に入り、台の上をぼんやり観察する。
 ほぼ芯だけになったリンゴ。フライパンの上で焦げたバター。実は、黄身と白身を分離することに失敗していた卵もある。
 
「だ、大丈夫よ! 失敗は成功のもとだから! つ、つまり、これは成功しているのっ!」
 
 自分で言ってて恥ずかしくなった。
 その「惨状」を認識したのか、惺の頭がうなだれたように下がる。
 
「え……がっかりした? まさか惺、いまがっかりした!?」
 
 衝撃で二の句が継げないクリスをよそに、惺は立てかけられていたスマートフォンに目を向ける。そこにはレシピが書かれたメールが表示されていた。
 惺はしばらくそれを「読む」ように眺めたあと、ポケットからメモを取り出す。ボールペンをさらさらと走らせて、クリスに見せる。
 日本語でこう書かれていた。

『戦力外通告』

 かろうじて意味を読みとれたクリスは愕然とした。
 
「どうして!? せ、せめてもう一度チャンスをっ!?」

 あたふたと動揺するクリスを置き去りにして、惺は迅速に行動を開始する。

「う……嘘……っ!?」
 
 プロの料理人かと錯覚するような手際のよさをクリスに見せつけてくる。卵など片手で割り、どうやったかまるで見えなかったが、黄身と白身を完璧に分離させていた。
 読めてないはずなのに、惺はレシピに書かれたあらゆる情報を正確に認識しているようだ。
 クリスはもう、深く考えることを放棄した。

 ――そして約2時間後、ケーキが焼きあがる。
 冷ましたあと、味見してみた。
 
「――っっっっ!?」
 
 死ぬほどおいしかった。
 心を揺さぶられまくっているクリスをよそに、惺は恬然としている。
 五感を失っているはずの少年に、女子力で負けた――その事実に、澎湃と涙があふれ出す。

「――その悔しさをバネに、人は成長するものさ」

 いつの間にか戻ってきていた蒼一に、すべてを悟りきった表情で言われる。
 めげると同時に、妙に腹が立ってきた。

◇     ◇     ◇

 
 その日の夜、アルマの誕生日を祝うパーティーが開かれる。
 クリス、惺、セイラ、蒼一、そしてレビンソン家の全員。アレックスと妻と娘のタバサも参加していた。
 様々な料理が乗ったテーブルを一同が囲んでいる。料理に舌鼓を打ちながら、アルマが興奮気味に言った。
  
「おいしい! これ、ほんとに惺くんと蒼一さんが作ったの?」
「そうなの。ほんとにもう、わたしの出る幕がなかった……」 

 結局、調理器具の洗い物くらいしか役に立たなかった自分に対し、忸怩たる思いを抱く。
 惺はいつものように静かに座っているが、心なしか誇らしそうに見える。その隣で料理のコツをアレックスの妻に滔々と語る蒼一がいるが、クリスはなぜか妙にイラッとしてすぐに目を逸らした。蒼一が料理上手だったことは昔から知っていたが、いまは素直に褒めることができない。
 単純に悔しい。
 惺に弟子入りでもしようかと、半ば本気に考えた。


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