6-6

 徐々に高度が上がっていく。
 その乗り物に壁や窓はなく、また周囲にさえぎるような建物もなく、強い風がじかにクリスの肌をなでていた。
 クリスは思わず、目の前にあるバーを両手でつかんだ。
 
「クリスさん、怖いの?」
 
 隣に座っているアルマが笑いかけてくる。
 
「うっ……いや、その……アルマは大丈夫なの?」
「はい! 楽しい!」
 
 見れば前の席に並んで座っている惺とセイラも平然としている。惺はともかく、セイラは未知の経験に瞳を輝かせているように見えた。
 やがて乗り物が高度の最高点にたどり着き、クリスはバーをつかむ力を強めた。
 そして――
 
「――ひっ!」
 
 乗り物が一気に下降に転じる。
 クリスが想像する数倍の速さで、乗り物が加速していく。
 エルドラード郊外に存在するテーマパーク。地球上のあらゆる地域や歴史、事象をテーマにした総合リゾート施設の中にあり、フォンエルディアどころか南半球でも最大の面積を誇る。
 最後に素敵な思い出が欲しいというアルマの願いを叶えるため、レビンソン一家と別れるその日、ここにやって来た。
 クリスたちが乗っているのはローラーコースター「ヘル・オア・ヘヴン」。文字どおり地獄か天国かを味わえるという触れ込み。
 
「きゃあああぁぁぁ――!」
 
 アルマが黄色い悲鳴をあげている。ほかの乗客も似たような声をあげていた。彼女たちにとっては天国のようだ。
 
「――――――――っっっ!?」
 
 しかしクリスは、悲鳴すらあげられず息をのむ。恐怖の度が超えると、人の声帯は凍りつくらしい。そんな冷静な分析がクリスの脳裏を駆けめぐる――よりも速く、乗り物は加速を続けていった。
 急勾配や急カーブ、連続回転などを繰り返す。

 ――数分後、クリスにとっての地獄は終わった。
 
「うぅ……」
 
 外のベンチにうなだれて座っているクリス。実は子どもの頃から絶叫系マシンは虫と同じくらい苦手だったが、大人の保護者として「怖いから無理」とは言えなかった。もちろん後悔している。
 惺が隣に座り、背中をさすってくれた。
 
「あ、ありがとう、……あなたは大丈夫なの?」
 
 こくり。
 
「クリスさん! 休憩してるあいだに、もう1回乗ってきていい?」
「え……連続であれ乗るの? 大丈夫?」
「はい!」
 
 瞳を輝かせているアルマ。
 
「安心しろ、クリス。わたしも一緒に乗ってやる」

 セイラも瞳を輝かせているように見える。ここ最近、彼女のそういう瞳をよく見るようになった。
   
「わかった。惺はどうする? ――そう。わかった。じゃあ、わたしと惺はここで待ってるから、行ってらっしゃい」
 
 軽快な足取りで離れていくふたりを見て、思わず「若いっていいわね」とつぶやいてしまう。
 惺がきょとんとしてクリスを見ていた。
 
「な、なんでもないのよ。惺は楽しい?」

 しばらく考えたあと、惺はうなずく。
 五感のない惺が、このようなテーマパークを楽しめるのか不安だった。彼はいま、生きていて楽しさや幸福を感じているのだろうか。それはずっと抱いていた疑問だった。
 クリスの不安を感じとったのか、惺はすぐにメモ帳を取り出し、ボールペンを走らせる。
 
『まわりの人の楽しさが伝わってきて、ぼくは幸せ』
 
 楽しさも幸福も哀しさも恐怖も、五感とは切り離された「場所」にある感情。蒼一いわく、惺は〈ワールド・リアライズ〉で他者の心の機微をたしかに感じとり、間違いなく人の感情に触れているそうだ。それが惺にとって唯一に等しい刺激といっていい。
 クリスは思わず惺を抱きしめた。
 
「いつかあなた自身が、あなた自身の幸福を感じられますように。わたしだけじゃない。蒼一もアルマちゃんも……たぶんセイラも、そう願っているはずよ」
 
 惺はクリスの胸に顔をうずめた。
 ふたりはしばらくそうしていた。

◇     ◇     ◇

 
 小高い丘の中をくり抜いて造られた区画に、無数の室内アトラクション及び商業施設が並んでいる。その中のレストランで昼食を食べたあと、様々なグッズを売っているショップを見てまわる。クリスたちが現在いるのは、恐竜など太古の生物をテーマにしたショップだ。
 
「え……セイラこれがいいの?」
 
 セイラが持つぬいぐるみを見て、クリスは眉をひそめた。
 数億年前、カンブリア時代の頂点捕食者であったとされるアノマロカリス。それをモチーフにデフォルメされた巨大なぬいぐるみを抱えて、セイラは瞳を輝かせていた。
 可愛くないことはないが、クリスの琴線には触れなかった。しかしセイラのこの反応を無碍にはできない。
 
「ま、いいか。……アルマと惺は決まった?」
「はーい!」
 
 戸棚の後ろから、アルマがぴょこんと飛び出してきた。続けて惺も出てくる。ふたりとも、頭に動物の耳をかたどったカチューシャをつけていた。
 
「……ミアキスの耳?」
 
 犬や猫の共通祖先とされる古代の動物だ。惺がオスの耳でアルマがメスの耳らしい。が、ふたつにそこまで違いはなく、そもそもクリスには、犬や猫の耳と大差ないように見えた。
 
「ねえねえクリスさん、これ可愛い?」
「ええ、可愛いわよ」
「じゃあクリスさんのぶんも買う!」
「待って。待って待ってっ! あのね、大人になるとね、そういうの頭につけちゃいけない決まりがあるの」
 
 子どもだけの特権なのよ、と力強く説明した。
 
「えぇ、そうなの……むぅ」
 
 がっくりと肩を落とすアルマに、クリスは思わず苦笑いを浮かべる。自分がこんなのを頭につけて歩いているのを父が見たら、どういう顔をするのか想像しながら。
 レジで会計を済ませ、ショップの外に出た。
 しばらく施設内を歩く。
 やがて、施設のほぼ中央に差しかかる。吹き抜けになった天井は高く、ガラスの向こう側に蒼穹が広がっているのが見えた。
 ――そのとき、惺が不意に立ち止まった。
 
「どうしたの?」
 
 めずらしく不安げな顔をして、あたりをきょろきょろ見まわしている。クリスの問いかけにも反応しない。
 さらにセイラも険しい表情を浮かべて、周囲を警戒していた。
 
「なに……この嫌な予感は――」
 
 クリスの言葉をさえぎるように、それは起こった。
 天井のガラスがなんの前触れもなく割れる。無数のガラス片が雨のように降り注いだ。
 
「いけないっ――みんな、こっちへ――!」
 
 その異変はすぐ、クリスたちの近くにいた人々に伝播した。突然の出来事に人々から冷静な判断を奪い、周囲はすぐ狂乱の坩堝と化す。
 惺とセイラが迅速に反応し、アルマの手を引いてガラス片の爆撃から避難する。しかしその場にいる全員を避難させている余裕はないと、クリスはすぐに判断する。
 クリスはその場に残り、天に向かって手を突き出した。すぐに広範囲にわたって光の障壁――〈マテリア・シールド〉が発生し、降り注ぐガラスの破片を防ぐ。
 
《――とっさの判断で最適の行動をとる。ふふ、さすが元シディアスの騎士ね――》

 床にガラスの破片が落ちる音に、不気味な声が混ざる。
 否――脳内に直接、その声は響いていた。
 高い天井から闇のかたまりがゆっくりと降りてくる。アトラクションの一環と説明されたほうがまだ納得できるほどの現実感のなさ。
 床から数メートルの中空で闇のかたまりが静止する。それが蠢きながら、なにかを形作った。
 顕現した異形の存在――アヌビスが、クリスたちに不気味な仮面を向けていた。


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