この場所がどこなのか、惺には見当がつかない。自分がいつここにやって来たのかも定かではない。とりあえず、どこか広大な空間に立っていることだけはわかった。
《あなた、おもしろい能力持ってるわよねぇ。〈ワールド・リアライズ〉だったかしら。蒼一のネーミングセンスだけは褒めてあげようかしら》
アヌビスの「声」が聴こえる。
最近は惺の認識能力も向上してきて、近くにいる人の性別やおおよその年齢くらいはわかるようになっていた。それなのに、隣に立っているアヌビスという存在を正確に認識することができない。漆黒の外套の下にどんな人物がいるのか――そもそも本当に人間なのかまるで認識できなかった。
惺はアヌビスの仮面を見つめた。
《なぁに? どうしてぼくを連れてきたのって?》
こくり。
アヌビスは膝を折り、惺と視線の高さを合わせる。
《実はアタシ、これまでにもあなたと会ったことがあるのよ。覚えてる?》
惺は首を傾げた。
《まあ、覚えてないのも無理はないか。アタシがあなたを「見つけた」とき、完全に意識を失ってたからね。……んん? なにを言ってるのって? そのうち教えてあげるわ……もっとも、教えてあげないかもしれないけどね! うふふっ》
アヌビスは立ち上がり、数メートルほど離れたところまで移動する。
《こっちにいらっしゃい》
言われ、惺がアヌビスの横まで移動する。
《それがなんだかわかる?》
石造りの棺――星櫃。それが台座の上に置かれていた。
星櫃の存在を認識したとたん、それの内部に存在する得体の知れない「なにか」が、惺の心の最奥にある恐怖を呼び起こす。以前、アーク・レビンソンの貨物室で星櫃に触れたときも同様の感覚を覚えていた。そのときは気を失ってしまったが、今回はなんとか踏みとどまる。しかし体の震えが止まらず、やがてその場にうずくまった。
《ふーん。これをちゃんと認識するには、まだ早いのかしらね……》
アヌビスは再び膝を折り、惺の肩に手を置いた。惺がゆっくりと顔を上げる。透明で無垢な瞳に、アヌビスの白い仮面が映った。
《いいでしょう。これからアタシが、あなたを鍛えてあげる!》
惺は再び首を傾げた。
アヌビスは立ち上がり、両腕を広げながら大仰な仕草を見せる。
《あなたは蒼一やクリスお姉ちゃんと一緒に、フォンエルディア中を旅してたのよね。だったらこれから、もっと広い世界を識りたいとは思わない?》
惺の頭の上に、アヌビスは漆黒の手のひらを乗せる。
《大丈夫。そんな不安そうにしなくていいのよ。あなたにもっと美しい世界を教えてあげるから。きっと楽しいわよ。うふふ――あはははははっ!》
惺の意識が徐々に遠のいていった。
◇ ◇ ◇
急激に意識が覚醒する。
どれくらいの時間が経過したのか、惺にはまるでわからない。それでも場所を移動し、いまが夜中で外――やわらかい土の上を歩いていることはわかった。自分の前にアヌビスがいることにも気づく。
穏やかな風が、鬱蒼と茂る木々の葉を揺らしている。深い自然の気配を感じた。
道なき道を進んでいく。この場所に来たことはないはず。しかしそれでも、妙に懐かしく感じるのはなぜだろうか。
《せっかくだから、あなたになじみ深い国から始めようと思ってね。お察しのとおり、ここは日本よ》
懐かしく感じる理由がわかった。
やがて立ち止まり、アヌビスは「声」を張りあげる。
《ご紹介するわ。日本が世界に誇る底辺のクズどもです!》
やや開けた場所に、無数の人間が無造作に座っていた。男女合わせて十数人。年齢はバラバラ。手足は縛られ、猿ぐつわまで噛まされている。
それ以上に特徴的なのが、彼らが全員作業服――日本における囚人服を身にまとっていることだ。
《アタシが厳選し、いろんな刑務所から連れてきたこの国のクズどもよ。ほんとによくもまぁ、あんな下劣な犯罪を犯せるものだわ。まあ、アタシが言うのもアレだけどね!》
現在、日本中の刑務所が大パニックに陥っている。服役中の受刑者たちが大量に、なんの前触れもなく忽然と姿を消したのだ。
アヌビスが受刑者のひとりに近づいていく。三十代半ばの坊主頭。ゆくっりと近寄ってくる異形に、彼は全身を震わせた。
《惺。あなたもこっちへいらっしゃい》
惺がゆっくり歩み、アヌビスの隣へ。
《こいつの頭に手をかざして》
戸惑うが、アヌビスに「早く」と急かされ言われたとおりにする。坊主頭がびくっと体を硬直させた。
坊主頭の上に置かれている惺の手のひら。その上に、アヌビスは自らの漆黒の手のひらを重ねた。
直後、惺の脳に、ぼんやりとした映像が流れ込んできた。
どこかの雑然とした室内に、6、7歳くらいの女の子がいる。その子の瞳には滂沱とする涙。表情には悲哀が浮かんでいた。
坊主頭はその子の父親。だが彼に、父親としての自覚も愛情も皆無であった。「しつけ」と称された悪夢のような暴力が、女の子にとっての日常。彼女の全身に浮かぶおびただしい痣が、容赦のなさを物語っている。
そしてある日、それが起こった。虫の居所が悪かった坊主頭が、これまでにないレベルの暴力を振るったのだ。
女の子は死んだ。
しかし坊主頭は最後まで自分がやったことは「しつけ」と信じて疑わなかった。
《惺、あなたの大好きなクリスお姉ちゃんが言ってたわよね。「子どもの首を絞める親なんていない」って。でもね、見てのとおりこの男はそれよりひどいことを自分の娘にしたの。信じられる?》
坊主頭に残されていた記憶の断片が、どういうわけか女の子の感情を伝えてくる。
――どうして言うことを聞いているのに、パパはいっぱい叩いてくるの?
女の子の「どうして?」が惺の「どうして?」と混ざる。
どうしてこんなことが起こりうるのか。
どうして誰も助けてあげなかったのか。
こんなことが現実にあっていいわけがない。
惺は苦しそうに頭を抱えた。
《さ、続けましょ》
重苦しい空気にまるで似合わない、アヌビスの軽快な声。
アヌビスに半ば強引にうながされ、惺は次々と受刑者の頭に手を乗せた。
――二十代前半の男は、自暴自棄になり自らの家に火をつけた。結果、本人だけが生き残り、家族5人が焼け死んだ。
――五十代半ばの禿頭の男性は、小中学生の男女を次々誘拐し、自らの欲望のはけ口とした。口封じの結果、6人の若い命が絶望のまま散った。
――六十代の元暴力団員の男性は、スナックで機関銃を乱射して十数人を殺害。目標は敵対する暴力団員ひとりだけだったのにもかかわらず、無関係な一般市民を十人以上も巻き込んだ。
――四十代の女性は飲酒無免許運転の常習犯で、泥酔したまま運転する車を観光バスに追突させる。その衝撃でバスを谷底に叩き落とし、修学旅行の帰りだった高校生30人近くを犠牲にした。
惺は、そのほかにも様々な罪を犯した受刑者の記憶をのぞいた。
裁判で反省を口にする受刑者たち。しかし惺は、彼らがほとんど反省してないことを知る。
そしてどういうわけか、犠牲者や被害者たちの苦痛や悔しさが惺に流れ込んでくる。どうして無実の人々が死なないといけないのか。死んだ人々の心に救済はないのか――感情の大津波が惺を最大級に苛ませる。
《――救済なんてないわよ》
まるで惺の心を見透かしたように、アヌビスが言う。
《幸せになる人もいれば、不幸に打ちひしがれる人もいる。世の中を俯瞰してみると、後者のほうが圧倒的に多いの。世界にはね、なんの罪もない人々を死に追いやるクズが大量にいるのよ。……もしかしたら、ここにいるクズたちよりもひどい人間が、もっと大勢いるかもしれないわね!》
惺の精神が、無慈悲な現実に押し潰されていく。
世界にあまねく存在している人間。それが有する心と感情。それらが無数に重なり、紡がれていく普遍的な交流が美しさの原点だと、惺は思うようになっていた。世界を美しく彩るのは雄大な自然だけではないという実感が、最近やっと生まれていた。
《シルバーワンはどうなの? あの子はもう償えきれないほどの罪を犯している。ここに並んでいるクズどもが霞むぐらいのね。それなのにあなたやクリスお姉さんは、そばにいて優しくしてあげた。幸福になろうとする暗殺者。そんなので果たして、あの子に殺された魂に救済はあるのかしら》
惺は全力で震えた。
それを言われると、どうしようもできない。
アヌビスがそっと耳打ちしてきた。
《この世界はあまりにも残酷で残虐で暴力的で醜い。そこが美しいの!》
――違う。
――そんなはずは。
《いいえ、違わない。ここにいるクズどもは、自分のことしか考えてない。そして世の中、そういうクズたちであふれている。だからこの世界は美しくなんかない。言うなれば、ただの肥溜めなのよ。――でも、そこがまた美しい。うふふ、文学的でしょう!》
ぶんぶんと大きく首を振る惺。そんなこと絶対に認められない。では、いままで自分が見てきた世界は――クリスたちとともに歩んできた世界はなんなのか。
いまだかつて感じたことがないほど温かく、幸福に満ちた日々。それは決して、肥溜めなどではなかった。
《クリスお姉ちゃんは、うわべだけの世界しかあなたに見せてないのよ。あの子、シディアスの騎士としてけっこうつらい目にあったんでしょ? ……あれ、アタシのせいだっけ? まあとにかく、だから現実を惺に見せたくなかったんでしょうね……なぁに? そんなつらそうな顔して》
どれだけ暴力的に頭をかきむしっても、現実は変わらない。限りなく透明に近かった惺の虹彩が濁っていく。思わず膝が折れ、うずくまりながら震えた。
やがてぴくりともしなくなる。気を失っていた。
《あら、刺激が強すぎたかしら。まあいいわ。――さて、と》
アヌビスが受刑者たちに向く。その右手周辺で、暗黒色の闇の粒子が踊る。それがすぐ、ウォーサイスの形を作った。
まさに死神の鎌そのもの。
受刑者たち絶望の海に沈むのは一瞬だった。涙や鼻水で顔をくしゃくしゃにし、猿ぐつわの向こうで、声なき悲鳴や絶叫をあげる。
仮面が嗤う。
――その後、受刑者たちを見た者は誰もいない。