惺が再び星櫃の前に立つ。
 手を触れた。
 以前は未知の感覚しか感じることができなかった。
 そして今回。言語化不可能な気配が、惺の脳内を揺さぶってくる。

 ――無限の波濤。
 ――時間と空間を超越した「なにか」。

 まるで、ここに「在る」のと「無い」のが同居しているような、不可思議な曖昧さを内包している。しかし、それ以上を感知しようとすることは惺の本能が拒絶した。弾かれるように手を離す。

《そろそろ大丈夫だと思ってたんだけどねぇ……まだ無理だったか》  

 震えてうずくまった惺が、アヌビスを見上げた。

《これがなにか知りたいって?》

 こくり。

《アタシも知らない》

 わずかにきょとんとする惺。

《人知を超越した神器なのは確実。ただし、そもそもこれは封印されているのよ。アタシでも容易に解除できない方法でね》

 そんな代物と自分を引き合わしてどうするつもりなのか、惺には想像できない。

《……あなたに、アタシの秘密をひとつ教えてあげる》

 アヌビスは惺に顔を近づけた。
 
《アタシには過去の記憶はほとんどないの。アタシがどこの誰で、どうしてこんな力を持っているのか、自分でもわからない。気づいたらこんな仮面をつけて活動していた。でも、ふたつだけはっきりと覚えていることがある》

 アヌビスは滔々と言葉を紡いでいく。

《人類に対する強い憎悪と、同じくらい深い愛情。全人類、もう全部ぐちゃぐちゃにして血祭りにしてやりたい。でも同時に、すべて抱きしめてペロペロ舐めまわしてあげたいほど深く愛してもいる。どうしてそんなわけのわからないことになってるって? そんなの知るわけないじゃない。……ねえ、惺はお父さんから星櫃についてなにか聞いてる?》

 惺はゆっくりと首を横に振った。

《でしょうね。誰もその正体を知らない。けれど「すべての願いを叶える希望の箱」、あるいは「この世すべての災厄を封じ込めた絶望の箱」――そんな伝説が残されている。なにかに似ていると思わない?》

 なんとなく、アヌビスの言いたいことがわかった。

《そう、人類よ。希望と絶望を併せ持った矛盾した存在。空っぽだったアタシはかつて、あなたと星櫃を一緒に「見つけた」ことによって希望を見いだした》

 ――――?

《あたしはただ知りたいの。星櫃の中に「なに」があるのか。それを知りたいがために、アタシは星櫃と一緒にあなたをソーントン・ヴィクター博士に預けたのよ。存命時点では世界最高峰の頭脳の持ち主にね。幸い、博士はあなたに興味を持ってくれた。理論上、人類史上最高の魔力指数を有するあなたの脳に》

 惺は首を傾げた。
 
《なのにあいつときたら、アタシに内緒で星櫃を売りやがった! 研究資金の足しにしたって言うのよ! ねえ信じられる!? ちゃんと謝礼のお金をたんまりと渡したのに、星櫃には興味がなかったの! ほんとにもう、あの狂人は魔力と人間の脳しか興味がなくて、しかも資金を湯水のごとく使って――》

 惺の理解を完全に超えていた。

《ともかくヴィクター博士は、その後もあなたに人体実験を続けた。でもあなたはなにをされても目を覚まさなかったし、だんだんと研究も行き詰まるようになっていった。当時のあなたに〈ワールド・リアライズ〉が発現していたか定かじゃないけど、なんとなく「覚えて」いるんじゃないかしら?》

 そう言われて、惺は胸のあたりを掻きむしる。
 心の激痛を、はじめて感じた気がした。

《氷底湖の地下にあった子どもたちの脳は、魔力を電力に変換する装置につなげられていた。でもヴィクター博士はある日、それを流用することを思いついたの――生み出された膨大な魔力を、あなたの脳に注ぎ込んだらどうなるのか、とね》

 惺は頭を抱えてうずくまった。

《そしてそれを実行した。何度も何度もね。そしたら結局どうなった? さすがのアタシでも予想できなかったわよ――》

 アヌビスは両手を広げ、芝居がかった大仰な動作で告げる。

《――魔力の暴走は、そのために起きた!》 

 膝を折り、惺と視線の高さを合わせるアヌビス。

《ねえ惺。「お友達」に会いたくない?》

 惺はゆっくりと顔を上げた。

《そんな不安そうな顔しなくても大丈夫。会えばすぐにわかるわよ》

◇     ◇     ◇


 広い空間だった。
 現実的には真っ暗な空間。しかし、視覚を持たない惺が恐怖を感じることはない。
 その空間には、信じがたいほどたくさんの人間の気配があった。
 紫色の装甲スーツ――パワードトルーパーの大軍。
 惺はすぐに気づいた。
 装甲スーツの中にいる人間の正体を。


 氷底湖の管の中に並べられていた、あの子どもたちだと。

 
 惺の頬を涙が流れる。膝をつき、激しい嗚咽で苦しくなった。
 その様子を、隣で亡霊のように睥睨していたアヌビスが「声」を放つ。

《正確には、あの子たちのクローンよ。あの子たちの魔力が高いことは気づいていたでしょ? だからわざわざクローン体を作り上げて、脳や肉体を素敵にいじくりまわして従順な戦士にしてあげたの。ただね――》

 アヌビスはがっくりと肩を落とした。

《この子たちは生物としては不完全なの。寿命は短いし、すぐに発狂する。だから実験としてステラ・レーギアに貸し出したんだけど、アンセムのやつが裏切って、全世界に動画で配信しちゃった。しかもあのデブ、アタシに内緒で星櫃まで手に入れていて……ああ、思い出したら腹が立ってきたわ。あいつのこと、あと2兆回くらい木っ端微塵にしてやりたい!》

 アヌビスが惺を見る。
 仮面の下がほくそ笑んだ気がした。
  
《――ねえ、惺はお父さんやクリスお姉ちゃんに会いたい?》

 惺がぴくっと反応する。

《会いたいでしょ? 会いたいわよね? アタシは会いたいわ! だ・か・ら、いまお膳立てしてる最中なの!》

 るんるん、と異形の怪物が体をくねらせて興奮している。そんな悪夢のような様相に意を介すことなく、惺はアヌビスを見上げた。

《でもいまのあなたを見たら、ふたりはどう思うんでしょうねぇ。たくさんの人を傷つけて、ダークサイドに墜ちようとしているあなたを見たら》

 惺の体が再び震えた。
 否――心が全力で震えていた。
 紛争地域に身を投げて、火の粉が降り注がないわけがない。中東で男性兵士の両腕を斬り落としたのは序の口だった。
 カラド・ヴェイヌスはたくさんの血を吸い、悦ぶような輝きを放っている。そのときの感触を思い出し、惺は頭を抱えて再びうずくまった。

《失望されるかもねぇ。せっかく育てた息子が、あるいは弟のように目をかけた子が、悪の道に走る。ふたりはどう感じるのかしら》

 耳をふさいでも、アヌビスの「声」は響いてきた。

《もしかしたら、あなたを止めるために実力行使してくるかもね》

 惺は顔を上げた。涙で濡れ、絶望で塗り固められた表情を伴って。

《でも大丈夫よ。これからあなたに、身を守るすべを教えてあげる。これまで以上に徹底的にね。――ほら、お友達がお手伝いしてくれるって》

 無骨なヘルメットの「視線」がすべて、惺に降り注いだ。その「視線」に含まれている殺気を、惺は敏感に察知する。

《アタシは手出ししない。なにしてもいいから生き残りなさい。ふふ……期待しているわよ》

 その瞬間、アヌビスの気配が露と消えた。 
 惺の中にあった希望も、ほぼ消失していた。

 ――そして、死闘が始まる。
 この場所が、以前クリスが巨大な虫の軍団と死闘を繰り広げたあの地下の大森林だと、惺が知るよしはない。


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