氷で造られたドーム状の天井。そして湖に向かって突き出した人工的な足場。かつて氷の壁に並んでいた哀れなオブジェはもうない。シディアスが回収して丁寧に荼毘に付したあと、遺族のもとへ返還していた。
 そして、かつて惺が囚われていた光球があった場所――台座の前に、少年が背を向けて立っていた。

「惺!」

 父の声に、息子が振り向く。
 吐息が凍るような低気温の中、惺はタンクトップを着ている。下は長ズボンだが薄手に見える。上下とも漆黒の色合いで、彼の肌の白さを際立たせていた。
  
「――っ!?」

 真っ先に絶句したのはクリスだった。惺の服装のおかしさなど吹き飛ばすほどの衝撃が襲う。
 抜けるように透き通っていた惺の瞳。それがいま、ブラックホールのようにすべてを呑み込む黒に変化していた。宇宙の闇よりも深く、炯々とした暗黒色の輝きに満ちている。
 虚無――そんな言葉が、クリスの脳裏をよぎった。 
 惺の横で闇の炎が蠢く。それはすぐ人の形へと収斂していった。

《はぁーい、こんにちは。罠とわかっててのこのこやって来たお間抜けちゃんたち。ここまでの道中、楽しかったかしらぁ?》

 アヌビスは片手でウォーサイスを構え、もう片方の手をひらひらと舞わせた。緊張感の抜けた「声」と凶悪な存在感のギャップが凄まじい。
 蒼一が鋭く身構えた。

「惺は返してもらうぞ」

《嫌よ。アタシ、この子のこと気に入ったから。それに、まだまだやってもらうことがあるの》

 蒼一は惺の背後をちらっと一瞥した。
 台座の上に無造作に置かれた石造りの棺――星櫃。

「……おまえはそれをどうするつもりだ?」

《愚問ねぇ。アタシとあなたの仲ならわかるでしょ》

 勘弁してくれ、とでも言うように蒼一は肩をすくめた。そして正面を見据えたまま、背後に控えるクリスとセイラに向かって言う。

「惺を頼む。わたしは、あの馬鹿をなんとかする」

 すぅ――と呼吸を整えながら、腰に携えていた蒼牙護神聖を抜刀。それと同時に蒼一の全身から魔力があふれる。高度な〈マーシャル・フォース〉の理が彼の肉体を最大限まで強化した。
 びりびりと空気を震わせるほど魔力を感じて、クリスは瞠目する。いままで見てきた蒼一とはレベルが違う。つい先ほど、出入り口の封印を吹き飛ばした蒼一ですら霞んで見えてしまうほどの凄み。
 対するアヌビスの周囲にも、どす黒い魔力がほとばしる。暗い魔力の奔流が、ただでさえ冷たい空気をさらに冷ましていく。

《あなたと本気で遊ぶのは久しぶりねぇ。ちょっと楽しみかも》

「……これが最後だよ、アヌビス」

《あら、つまんないこと言わないでよ――》

 ――瞬間、双方が動いた。
 蒼牙護神聖を振りかぶりながら、淡い光の軌跡を描きつつ蒼一が跳ぶ。
 アヌビスもウォーサイスを構え、真正面に突進した。ほとばしる闇色の魔力に吸収されているがごとく、あらゆる音を立てずに。
 異なる種の刃が交わったのは、ふたりが動いてから1秒も経ってない刹那。キィンという甲高い音が最初に鳴った頃、すでに双方は無数の連撃を放っていた。
 まさに神速の斬撃。絶えず発生する衝撃波が空間をまるごとを震撼させる。超大型台風のような暴風が吹き荒れ、空気を無情に引き裂いていく。
 神話で語られる神々の戦いのような壮絶な戦闘が、いままさに始まる――

◇     ◇     ◇


「惺! 一緒に帰ろう。ね?」

 クリスの悲痛な叫びは、確実に惺に届いたはず。しかし彼が動こうとする気配はなかった。闇を煮詰めたような瞳で、クリスたちを静かに睥睨している。
 クリスが逡巡したその直後、惺が動いた。腰の後ろに差していたカラド・ヴェイヌスを抜刀。敵意や殺意をその刃に乗せ、クリスたちに向けてくる。
 クリスは覚悟を決めた。ぐずぐず迷っている時間はない。

「セイラ、あなたは待機してて。わたしが終わらせる」

 あんな哀しい瞳、見ていられない――そんな思いを胸に、クリスは強く踏み出す。
 空色の魔力がクリスの全身からほとばしり、〈マーシャル・フォース〉の理が全身とセイント・ヴァルステンに宿る。鮮やかな魔力が、剣に尾を引くような軌跡を描いた。
 もちろん、クリスに惺を傷つけるつもりはない。銃をメインに扱うセイラを控えさせたのもそのため。だから〈マーシャル・フォース〉で無力化を図るのは必然だった。
 カラド・ヴェイヌスを構える惺の間合い内に、クリスが侵入する。
 クリスには惺を制圧するまでの明確なイメージがあった。苛烈な連撃で惺の体勢を崩し、とどめの一撃を加える。下手な小手先はいらない。惺はまだ子どもで、戦闘技術の訓練を始めてからまだ間もないのだ。膂力も技術も、元シディアスの騎士であるクリスが劣る道理などない。
 だが、誤算――

「――っ!?」

 クリスの斬撃を受け止める惺の刃。カラド・ヴェイヌスが、淡い紫色の輝きを放っていた。それが魔力の輝きであると、クリスは瞬時に悟る。

 ――〈マーシャル・フォース〉!?

 クリスが目を見開いた矢先、惺が動いた。セイント・ヴァルステンを弾き飛ばし、カラド・ヴェイヌスが奔る。

「――っ!」

 動揺がクリスの動きを鈍らせる。カラド・ヴェイヌスが狙うはクリスの頸動脈。刃が迫り来る速度は尋常じゃないほど速い。
 避けられない。
 ――銃声。
 刹那、1発の銃弾がクリスの真横を抜け、惺の肩をかすめた。彼の動きが鈍ったことで、クリスは斬撃を紙一重で回避。
 クリスの背後で、セイラが拳銃を構えていた。
 しかし惺が動きを止めたのは一瞬だった。返す刀で再びクリスを狙ってくる。セイラの銃を認識したのか、惺は立ち位置をめまぐるしい勢いで変え、巧みにロックオンから逃れている。
 怒濤の連撃。それぞれの斬撃は突風を巻き起こすほどの速さと鋭敏さを誇り、クリスの急所を的確に突いてくる。小太刀の絶妙なリーチを活かす間合い感覚も抜群だった。

 ――う、嘘……っ!

 動揺を無理やり押し殺しながら、クリスが受ける。彼女の脳裏に、惺に武術を教えた日々の情景がよみがえった。
 もともと才能はあると感じていた。身体感覚はバレエで極限まで鍛えられており、五感を失いながらも、超能力じみた鋭い「感覚」を有している。吸収力は抜群に高かった。
 優しい剣だなと感じていた。間違いなく「殺す剣」ではなく、「活かす剣」。惺はきっと誰よりも優しいのだろう。それが彼の振るう剣から読みとれていた。
 しかしいま、惺の剣から感じるのは徹底された暗殺の理。一撃で敵を屠る無慈悲で冷酷な気配。

「惺! いったいなにがあったの!?」

 惺の攻撃を巧みに受け流しながら問う。
 もちろん惺は答えない。彼の瞳は暗く沈んでいて、絶望が色濃く浮かんでいる。
   
《惺はねぇ、世界に絶望しちゃったのよん》

「――っ!?」

 突然の「声」に反応し、クリスはとっさに背後に飛び退いた。
 惺の背後にアヌビスが幽鬼のように立っている。音もなく、気配も感じない。
 クリスは、離れたところにいる蒼一の異変に気づいた。床から伸びる数本の「影の手」が、蒼一の全身に絡みついて離さない。

「蒼一!」
「大丈夫だ――っ――はあああっっ!」

 蒼一が裂帛の気合いを放つと、影の手が消滅した。
 
《あら、気合いでどうにかなるものじゃないのに。さすがに甘く見過ぎていたかしら》

 アヌビスに氷点下の視線を向けながら、蒼一が問う。

「貴様は――惺になにを見せたんだ?」

《だから、この世界の「すべて」を。あなたたち、上っ面のきれいなところしか見せてなかったんでしょう? それだとバランスが悪いから、裏の裏の裏まで余すところなく、ね》

 アヌビスを黙殺したあと、蒼一は優しく温かい眼差しを惺に向けた。

「惺。一緒に帰ろう。悠が待ってる」

《嫌よねぇ?》

「貴様には聞いてない!」

《アタシは惺の気持ちを代弁してるの。大好きなクリスお姉ちゃんには刃を向けられ、シルバーワン……いまはセイラだったかしら――には弾丸を叩き込まれた!》

「そ、それは違う!」

 クリスの否定を、アヌビスがさらに否定した。

《違わないわよ。……ねえ惺、だから言ったでしょう。もうみんな、あなたのこと見限ったの》

「違う! 惺!?」

 髪の毛が抜けるほど強く、惺は頭を掻きむしった。表情には苦悶が満ち、瞳の絶望がさらに強まっていく。
 惺はうずくまって耳をふさいだ。

《もうみんな、あなたのこと嫌いになっちゃったの。だから傷つけようとするの》

 耳をふさいだところで、アヌビスの「声」から逃れることはできない。
 いまの惺に、正常に判断する余裕は存在しない。

《――何度も見たでしょう。血を分けた家族ですら傷つけ合うの、この世の中の人間ってやつはっっっ! あはははははっっっっ!》

「いい加減にしろ!」

 蒼一の咆吼。
 同時に駆ける。床を震撼させるほどの踏み込みだが、足音が鳴った頃にはすでに姿は消えている。残像を残すほどの速度を保ったまま蒼牙護神聖を振りかぶり、たぎる激情をその刃に乗せる。
 蒼一がアヌビスの間合い内に侵入したのは、1秒以下の出来事だった。神速の斬撃がアヌビスの首を刈り取ろうと迫る。
 仮面の下でアヌビスは嗤った。ウォーサイスを前面に構え防御の姿勢をとる。
 直後、金属と金属がぶつかり合う甲高い鳴音が響きわたる頃にはすでに、幾重にも重ねられた応酬が繰り広げられていた。

《そうこなくっちゃ!》

 アヌビスはこの状況が楽しくて仕方がないのか、言葉の端々に興奮の感情を混ぜる。しかしそのような余裕があっても、かの動作に微塵の隙も生じさせなかった。

《――ねえ惺。あなたにおもしろいこと教えてあげる。実はいままで黙っていたの》

 苛烈な神風が吹き荒れる中、アヌビスの「声」が軽快に響いてきた。

「惺、聞くなっ!」

 愛する父の声よりも明確に、アヌビスの軽快な声が惺の心を絶望色に染めあげていく。

《3年前にこの場所で起こった魔力の暴走。なにがあったのか説明したでしょう? あれはねぇ、前に説明した事実で、「いちおう」は合っているの》

 蒼一がアヌビスの声をかき消そうと、物理法則の限界を超越するような斬撃の嵐を放っている。
 だが、アヌビスにそれが届くことはなかった。

《――でもちょっと待って? じゃあ、どうしてあなただけ光の球に覆われて助かったの? 「誰が」助けてくれたの?》

 惺がぴくっと反応した。

《あそこの壁に並んでいた子どもたちは、脳みそだけになっても生きていた。ぼんやりとしていただろうけど、意識はあったのでしょう。そしてそのままの状態で、すべての脳が連結されていた。そこの装置によってね。あなたも覚えているでしょう?》

 惺がぼんやりとした動作で、それを見上げた。
 天から床に向かって伸びる巨大な装置。それはいまや完全に機能を停止し、無言を貫いている。

《いつからなのかはわからない。でもその装置のせいで、子どもたちの意識は結合していたの。大昔にユングが提唱した、「集合的無意識」と呼ばれる領域でね》

「アヌビスっ!?」

《うふふ。あなたはさすがに気づいていたみたいねぇ、蒼一。あのヴィクター博士でも最期の瞬間まで気づかなかったくらいなのに》

「それ以上はやめろ!」

《嫌よ》

 アヌビスは蒼一の前から姿を消し、一瞬で惺の横に移動した。そのため、惺に駆け寄ろうとしていたクリスが思わず足を止める。

《子どもたちの気持ちになって考えてみて、惺――》

 セイラがアヌビスに向けて発砲。同時に蒼一も蒼牙護神聖を構えながら疾走し、アヌビスに肉薄。
 ――だが、なにかに気づいて急に止まる。
 セイラの放った弾丸が、途中で跡形もなく消えていた。
 蒼一が苦々しくつぶやく。

「〈グラビティ・フィールド〉……っ」

《あなたはさっきもこれを破った。もう同じことする魔力は残されてないでしょう? いくら規格外の魔力の持ち主でもね》

「――っ。……どうしてまた、わざわざ『見える』ようにしているんだっ」

《決まっているでしょう。あなたたちに本物の絶望を見せてあげたいからよ。……ねえ、惺》

 クリスが叫ぶ。

「アヌビス、もうやめてっ!?」 

 アヌビスは嗤い飛ばした。

《さあ惺、答えはわかったかしら……わからない? しょうがないわねぇ。アタシ優しいから教えちゃう》

 蒼一が悲痛な表情で「やめろ!」と叫ぶ。しかし息子には届かない。惺までは十数メートルほどしか離れてないのに、無限の距離を感じる。

《子どもたちはね、いつの日かあなたの存在に気づいたの。ああ、また哀れな子どもがここに連れてこられた、かわいそうって。でも、あなたはなかなか脳みそを引きずり出されなかった。不思議だったでしょうねぇ》

 惺は呆然としていた。

《あなたに対する「実験」を直接見ていて、やがて子どもたちは気づいた。あなたは特別なんだってね。でも、ヴィクター博士や、この施設にいたすべての大人たちに慈悲や情けなど存在しない》

 惺の中で、ぼんやりとした「実験」の記憶がよみがえる。

《子どもたちは思ったの。このまま実験が続けば、あの子は殺されてしまうかもしれない。それはまわりにいる大人がいけない。大人は嫌い。自分たちにあんなひどい仕打ちをして、のうのうと生きている。誰も助けてくれなかった。だからみんな殺しちゃえ――もうわかったでしょ? 魔力の暴走の本当の原因はこれ》

 アヌビスは惺に仮面を寄せた。

《でも子どもたちは考えたの。魔力を暴走させただけなら、あなたを巻き込んでしまう恐れがある。死んでしまうかもしれない。そんなのはだめだ。ちゃんと守らなくちゃ――健気よねぇ。その答えがあの光の球よ!》

 惺はふるふると首を振った。

《どうしてあの子たちがそう思ったのって? 簡単よ。自分たちはもう肉体を失っている。生きているけどなにもできない。死んでいるのと一緒。お父さんにもお母さんにも兄弟姉妹にもお友達にも、もう永久に会えない。けれど、あなたは違う。まだ肉体がある。ずっと眠ったままだけど、まだちゃんと生きている。まだ輝かしい未来がある――》

 話を聞いていたクリスが、思わずセイント・ヴァルステンを落とす。彼女の中でもすべての線がつながり、あまりの衝撃にぺたりと座り込んだ。
 涙が澎湃と流れ出す。
 3年前。光球が弾け、惺が顕現する瞬間に聴こえてきた「声」。


 ――お願い――あの子を――助けてあげて――


 あれがどういう意味だったのか、やっとわかった。 
 生きていてほしい――と。
 自分たちがどんな目に遭っても、こんな残虐で愚かな世界でも、子どもたちは惺に生きていてほしかった。
 それがあの子たちに残された、最後の希望だった。
 
 しかしそれがいまこの瞬間、惺の中で絶望へと変化する。
 殺してしまった。
 クローンとはいえ、そんな哀れで健気な子どもたちを。かつて大森林だったあの空間で。 先ほどクリスたちが見た光景。巨大な虫たちが群がって食べていたのは、その残骸だ。
 でもあれは仕方がなかった。彼らは本気で殺しにかかってきたのだから。ああするほかなかった。

 そんな事実、もはや惺には関係ない。
 もう全部、消えてなくなってしまえばいい。
 自分も含めてすべて。
 こんな世界に、存在している価値はない――!

 
「                               !?」

 無音の絶叫とともに。
 惺の精神は、ついに崩壊した。

《――あなたの願いを叶えてくれるかもしれないものが、そこにあるわよ――》

 突然、惺は絶叫をやめた。 
 アヌビスが台座の上にあるものを見つめている。惺もその視線を追う。

「惺、だめだっ!」

 父の声はやはり、息子に届かない。
  
《星櫃に祈りなさい。きっと叶えてくれるわよ! あはは――あははははははははははははははっっっ!》

 アヌビスの気の狂うような嗤いの中、ついに惺は願ってしまった。

 
 ――コンナクソミタイナセカイ、オワラセテホシイ――

  
 そして、願いを聞き届けた星櫃がついに「覚醒」する。

 
 ――直後、世界が変質した。


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