Prologue 06

 3日が過ぎた。そのあいだ、政府による人質解放の説得が続けられていたが、テロリストはとりつく島を与えない。
 機動隊は何度も突入する機会をうかがっていたが、運には味方されなかった。車両やヘリを攻撃したグレネードランチャーは脅威で、ほかにもまだ見ぬ兵器が隠されているかもしれないという疑心暗鬼。それらを取り払わない限りどうすることもできない。
 人質たちの肉体的疲労と精神的疲弊は、無視できないほどまでに悪化していた。中でも精神的に不安定になった子どもたちが泣き出し、いらついたテロリストに罵声を浴びせられる事態が何度かあった。そのたびに親は死に物狂いで謝り、子どもを抱きしめていた。
 目に見えない怪物が、目に見えない圧力で人質を徐々に押しつぶしているような――それが今日、夜が明けてからはっきりとし始めたことを、セイラは感じていた。
 
 ――そろそろ限界か。
 
 隣に座っている詩桜里からも、強い疲労感が漂ってくる。化粧はすでに落ち、肌は荒れ気味で顔色は悪い。
 対するセイラは3日前となんら変わりなく、鋭い知性をその瞳に宿したまま。髪はさすがに脂でべたついているが、顔の血色もほとんど変わってない。
 
「……よく平気な顔していられるわよね」
 
 小声の詩桜里。
 
「さすがのわたしでも、そろそろ風呂に入りたいぞ」
 
 テロリストに占拠されてから、人質たちはみんな風呂に入っていない。食事やトイレという、人間として最低限の尊厳は守られているが、風呂ばっかりはどうしようもなかった。事実、テロリストも最初「しばらく風呂は我慢してくれ」と、馬鹿にするような口調で言っていた。
 
「期限まで……あと30分」
 
 詩桜里が腕時計を見ながらつぶやく。もはや周囲の人間にしゃべる気力は残されなく、静まりかえっていて、ちょっとした小声でも目立ってしまう。だから詩桜里は、セイラに聞こえるぎりぎりの音量で話していた。
 最初の身代金を支払う期限が、まもなく訪れる。人質たちを押しつぶそうとしているプレッシャーが、期限めがけてどんどん強まり、高まっていた。身代金が払わなければ、誰かが殺される。そんな非現実的な事実が、とうとう形を伴って人質たちの目の前に姿を現した。
 恐怖に満たされた静寂の中、時間だけが刻々と過ぎていく。
 そのとき。
 ひとりの男性が立ち上がり、怯えた様子で両手を上げながらテロリストに向かっていった。
 
「……なんだ、貴様は」
 
 テロリストのひとりが応える。彼はいままでカメラの前で声明を発表していた人物。ほかの仲間たちに命令を出していたり、逆に報告を受けたりしていた。セイラの見立てでは、彼が革命戦線アナ・シュテイラのリーダー格だった。
 
「わ、わたしは篠木田。に、日本の……も、元防衛大臣だ」
「……ほう」
 
 リーダー格が隣にいた仲間に目配せする。仲間はすぐにタブレット端末を持ち出してなにやら操作し始める。やがて、タブレットがリーダー格の手に渡った。
 
「篠木田重臣。いまから3年前までの2年間、防衛大臣を務める。が、度重なる失言と、とどめの政治資金流用問題で辞任。逮捕は免れるが、議員辞職は免れなかった。当時の内閣や国民から完全に見限られ、『今世紀最大の失言大臣』との異名を持つ、か……くく、こりゃあおもしろい」
 
 篠木田は顔を真っ赤にするが、なにも言うことができなかった。
 
「失言大臣さんよ、あんたみたいな大物がなんの用だ」
 
 大物、という部分に嘲笑を含ませて言った。
 
「み、身代金は支払われたのか?」
 
 リーダ格は首を横に振る。
 
「わ、わたしが……身代金が支払われるよう、せ、政府と交渉してやってもいい!」
 
 なぜ上から目線なんだ? とテロリストだけでなく人質までも思ったが、誰も口にしない。
 リーダー格が黙る。圧倒的な無言のプレッシャーに、篠木田の顔から脂汗が吹き出た。
 
「……いいだろう」
 
 リーダー格は仲間数人に、フォンエルディア語でなにかを命じた。それからすぐ篠木田はテロリストに両脇から抱えられ、近くにあった椅子に座らされる。
 
「お、おい!」
 
 背もたれに腕を、脚に足をロープで縛りつけられ、篠木田は顔どころか全身から汗が吹き出していた。
 テロリストのひとりがカメラを用意した。大型モニターにリーダー格と、その斜め後ろに篠木田が映り込む。篠木田の足が、まるで貧乏揺すりのように揺れている。彼がいまさっき人生最大の勇気を発揮し、それを使い果たしたのは間違いなかった。
 
「日本の国民諸君! 期限が迫っているが、まだ支払いがされていない。このままでは我々は、尊い命を犠牲にせねばらならない。しかし! ここに、愚かな政府にもの申す勇気ある人間が現れた! 紹介しよう、日本が誇る最大最強の失言大臣にして、3年前に永田町を追い出された篠木田重臣だ!」
 
 あまりに残念な紹介に、篠木田の頭の中は、もはや恐怖なのか羞恥なのか怒りなのかまるでわからない――あるいはそれら全部を混ぜ合わせた筆舌に尽くしがたい感情が渦巻いていた。
 カメラが篠木田に寄り、脂ぎった顔を映し出す。リーダー格がなにかしゃべろ、と鋭く投げかけた。
 
「わ……わたしは、元防衛大臣、篠木田重臣だ……日本政府へ嘆願する。た、ただちに身代金を払ってほしい……。いちばん大切なのは、人質の命だ。こ、この船にはまだ、前途明るい子どもたちが乗っている! こ、ここ子どもたちの未来を奪うわけにはいかない!だ、だだだだから身代金の支払いを――」
「なるほど。あんたはまず、子どもたちを解放してほしいと?」
 
 一瞬だけきょとんとするが、篠木田はすぐに勢いよくうなずいた。
 
「そ、そうだ!」
 
 カメラがリーダ格へ向く。
 
「日本政府よ。正午までに身代金が支払われたのなら、ひとまず未成年の人質全員の解放を約束しよう」
「あ、あと年寄りも解放してくれ! せめて60歳以上は! と、年寄りも体力の限界だ!」
 
 篠木田は今年67歳だった。
 
「……いいだろう。年寄りは次の期限で解放する」
 
 ただし、と凄みを利かせながら、リーダー格が篠木田の顔に寄った。
 
「あんたは最後まで解放しない」
「なっ!?」
「あんたは元政治家だろう。しかも防衛大臣だ。貴様が人質の安否を最後まで見届けなくて、誰が見届けるんだ」
 
 リーダー格が笑うと、ほかのテロリストも嘲笑を飛ばした。
 全身から力が抜ける篠木田。自分が助かりたいだけの発言だったのかと、人質たちのあいだに同情はまったく生まれなかった。
 リーダー格が仲間に視線をやる。仲間はタブレットを操作し、すぐに首を振った。
 
「まだ振り込みはない。……失言大臣さんよ、あんた本当に人望がないんだな。それでどうやって政治家になれたんだ。汚れた金でもばらまいたのか?」
 
 もはや余力が残されてないのか、篠木田は背もたれにもたれかかり、死んだ魚の目をしている。ちなみにテロリストの言ったことはだいたい合っていた。
 それから10分以上経過しても、身代金の振り込みはなかった。期限の正午まで、もう猶予はない。
 カメラはまわっている。
 
「テロには屈さない。それも結構! ――さて、そろそろカウントダウンだ。1分前」
「――っ!? ええいっ、くそ! は早く、ははは早く身代金を! た、頼む! 早く助けてくれぇ!」
 
 篠木田は、最後の力を振り絞ってわめき始めた。
 やがて、リーダー格が拳銃を取り出し、銃口を篠木田の額に向けた。その意味を察した篠木田は、今度こそ全身全霊を込めて、発狂したように暴れた。
 
「な、なななにゃなにをするううう!? ままま待てっ! わたしはまだ死にたくない! こ、こここ殺すなら、べべべ別の誰かをおおおっ!?」
 
 最後の最後まで、彼は失言をやめることはできなかった。
 
「30秒前――」
「やめろおおおおおおっ!? やめてくれええええええぇぇぇぇっっっ!?」
 
 篠木田の体が、椅子ごと床に倒れた。カメラはその情けない姿を余すところなく映す。
 
「20秒前――」
「だぁあたたあああのぉむうぅぅぅっ!? みみ身代きき金! かねえええぇっ! みのっじろ! ぎん! はらははは払っで! おおおねぇがぁい!? があああああぁぁっっ!?」
「10秒前――」
「ぎゃあああああ! わわだじはぁああああっ!? しぁ! ししに! じに! ししし死にだぐないぃぃっ! だあああぁのおおむううううぅぅぅっ――!?」
「ゼロ」
 
 篠木田の絶叫を、弾丸が彼の命とともに取り除いた。
 額の真ん中に風穴が空き、一瞬で瞳から光が消え去る。驚愕と恐怖で目を見開き、汗と鼻水と涙と血で汚れた顔には、人類が経験しうる最大級の恐怖がこびりついていた。
 一転して、静寂。
 さらに一転して――
 誰かの悲鳴が呼び水となり、絶叫と絶望が広がった。


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