いつの間にか4月になっており、世間では春真っ盛りだった。
にもかかわらず、寒い。念のため冬の登山服を用意していたからまだマシなものの、それでも寒い。
埼玉県の外れのほうにある山の中、人どころか獣すらまったく見当たらない樹海の最奥。僕はそこを自分の死地と決めた。これといった理由はないけど。
僕が最期を遂げるにふさわしい場所はないかなと、道なき道を歩き続ける。緑は深すぎてもはや黒く、晴れた日の昼下がりなのに空の光を通さない。
たしか1時間くらい歩きまわっていたと思う。いや、2時間だったかもしれない。
もっと奥へ。ひたすら奥へ。誰にも見つかることのないほどの深淵へ。僕の足は休むことを知らない。日頃の運動不足が祟って体力はないはずだけど、なぜか疲労感は感じない。
むしろ、わくわくしていた。
子供の頃、こういう山の中を冒険した記憶がよみがえる。長野に住む祖父母の家――母の実家。その近くにある小高くて鬱蒼とした山の中に、兄貴と一緒に秘密基地を作ったりしていた。
あの頃は僕も兄貴も無邪気でなんの悩みもなくて、本当に楽しかったと思う。
まあでも、もう昔の話だ。
どうでもいい。
だから僕はひたすら探す。自分の死地にふさわしい場所を。
大きく象徴的な木の下がいいなと、漠然と思っていた。正直、自分の体重がかかっても折れそうにない枝だったらどれでもよかったと思う。けどそのときの僕は妙な――おそらく僕以外には絶対に理解できないであろうこだわりを見せていた。
自分が首を吊るのにふさわしい場所を見つけるまでは、絶対にあきらめない。生きることはあきらめたけど、そこだけは譲れない。そんなわけのわからない使命感が、僕の足をひたすら動かしていた。
やがて鬱蒼としていた木々がまばらになる代わりに、ごつごつした岩場が出現する。
そして、やっとその樹を見つけた。
20メートルくらい離れたところに、数メートルほどの高さで屹立する崖があった。その崖の麓に、天高くそびえ立つ立派な樹が一本だけぽつんとある。がんばって背伸びすれば届きそうな高さに、太い枝が伸びていた。
樹の根もとまで歩いて行き、背負っていたリュックを下ろす。
ひと息つきながら、しばらく樹を眺める。おもむろに、この樹にぶら下がっている自分を想像してみた。
完璧だ。
僕の死地は決まった。
あらためて決意をしつつ、リュックの中から、このときのために準備していた品を取り出そうと――
背後から音がしたのはそのときだった。
やばい、熊とか狼だったらどうしよう――すでに死ぬ覚悟はあるはずなのに、それでも恐怖感に凍りつきながら僕は振り返った。
ひとりの女性が立っていた。
緑色のウインドブレーカーに、紺色の長ズボン。背中にはリュック。髪は短めのショートボブ。体は小柄で、下手したら中学生にも見える。胸の存在感は、遠目からでもわかるくらいに大きい。でも漂ってくる大人びた雰囲気から、なんとなく二十代の半ばくらいかなと思った。
彼女は僕を見つめたまま、驚くように硬直していた。きっと、彼女から見たら僕も同じように見えるだろう。
数分にも数十分にも思える沈黙が続いたあと、彼女はこちらに向かって歩いてきた。
彼女の瞳の輝きは、あまりにもきれいに澄んでいる。でも近づいてくるにつれて、瞳の内部に深い闇が存在していることに気づいた。まるで瞳の中にブラックホールでもあるみたいだ。
――ああ、この人は。
僕は生まれてこのかた、自分の直感というものにまったく信頼を置いたことはない。でもこのときだけは、なぜか確信めいた直感があった。
――彼女はたぶん、僕と一緒だ。
「きみもロープ使う?」
いまから死のうとしている初対面の男にこんなことを言われたからだろう。彼女は僕の3メートルほど手前で立ち止まり、戸惑ったような仕草を見せた。しかしそれもつかの間。彼女の中でもすべてがつながったらしい。
「余分なロープなんてあるの?」
リュックの中から取り出そうとしていたロープ――虎紐とかトラロープとか呼ばれているしましまのアレ――を見せた。
「30メートルのやつ買ったんだ。よく考えたらこんなにいらないよね。ハサミもあるから大丈夫。半分こしよう」
「あなたも……その、同じなの?」
「うん。じゃないとこんなところに来ないって。きみもそうでしょ?」
答える代わりに、彼女は小さな笑いをこぼした。最初は堪えようとしてたみたいだけど、やがて我慢できず最後には大笑い。
「僕、なんかおもしろいこと言った?」
「そうじゃなくて、この状況が。だって、絶対に見つからないように、こんな辺鄙な場所までわざわざ歩いて来たんだよ。なのに同じ目的の人と出会うなんて、冗談以外のなにものでもないでしょ!」
哀しんでいるのか怒っているのか喜んでいるのか、彼女はいまいち判断が難しい感情を発露させていた。
「ごめん」
「別に謝る必要ないんだけどね」
そう言いながら、彼女は例の樹を見上げた。枝の端々に瑞々しい若葉が生い茂っている。
「この樹、なんかいいね」
「でしょ。なんの樹か知らないけど」
「……ナラの樹じゃないかな」
「詳しいね。でもこれは僕が先に見つけたからだめ。きみは別の場所にしてね」
なにがだめなのか、自分でもよくわからない。案の定、彼女はきょとんとした。
「あなたって、変わって――」
言いかけて、彼女が突然黙る。そしてなにかを考え込むように、僕と樹のあいだに視線を泳がせた。
不意に訪れた静寂を、涼しい風がなでるように吹く。
「ねえ、ちょっと相談なんだけど。頭おかしいとか思わないで聞いてほしいんだけど」
「まあ、もともと頭がおかしいからこんなところ来たんだろうからね。お互いに」
「あたしとエッチしてくれない?」
僕は文字どおり凍りついた。言葉の意味を呑み込むのに、それはそれは長い時間を有した。
「あの――ごめん。もう一度」
「だから、抱いてほしいの。セックスしよ?」
驚きすぎて僕はそれ以上なにも言えなかった。そんな僕を先まわりするかのように、彼女が説明してくる。
「あたし今年で25なんだけど、処女なんだ。死ぬ前に、一度くらいは経験したかったなーって。実はそれだけが心残りだったの」
二の句が告げない。
「……聞いてる?」
「ごめん。えっと……僕だと後腐れなさそうだから?」
「それもある。だって、すぐ死ぬんでしょ?」
「まあね。……でも、僕なんかでいいの?」
彼女はきょとんとした。
「だって、すぐ死ぬんでしょ? お互いにね」
僕は笑った。
もう深く考えるのはやめた。
「いいよ。しよう」
そして僕は彼女を抱いた。
大きくて冷たい岩の上で。新緑がまぶしい立派な樹の下で。
触れた彼女は思いのほか熱かった。
とにかく僕は夢中で、名も知らない女性の中に侵入した。まさか死の間際に童貞を卒業するとは思わなかった。しかもいわゆる青姦。いつか読んだエロ漫画を思い出す。
人生なにが起こるかわからない。
――やがて、すべてが終わったあと。
お互いに息があがり、半裸で汗まみれ。僕は彼女の体内の最奥に、いまだかつて見たこともないほどの精液を放出していた。彼女の秘部から、血の混ざったそれがあふれ出ているのが見える。
すべてが美しかった。
奇妙な高揚感と達成感、そしてうんざりするような喪失感に包まれる。
僕と彼女のどちらからだったのかは、もう覚えていない。
僕たちは泣いた。
ふたりして、子どものように泣きじゃくった。
――そして、僕たちは死ぬのをやめた。