唇の端をつり上げたような三日月が、僕を見下ろしながらあざ笑っていた。
三日月は額縁の中、濃紺のキャンバスに描かれている。それが天井のほぼ中央、天窓から見える光景だと気づくのに数秒ほどかかった。その次に、驚くほどやわらかいソファに仰向けに寝転がっていることにも気づく。
見覚えのない室内だった。信じられないほど広く、天井は二階部分まで吹き抜けになっているようだ。頭を傾けると、螺旋階段がぐるぐると伸びた上に二階の廊下らしき空間が見えた。
室内は白い壁を基調に、柱や梁などは焦げ茶色の木材で統一されている。天井の別の場所には、くるくるまわっているプロペラみたいのがあった。……これ、なんていうんだっけ?
家具もアンティークな色合いでまとめられ、ぱっと見でも高級品だとわかる。間違いなく金持ちの家のリビングだ。
「起きた?」
向かいのソファにさっちゃんが座っていた。その隣で、さっちゃんに寄りかかるようにしてナオちゃんが眠っている。
ふたつのソファのあいだにはガラス製の洒落たローテーブルがあって、その上には高そうなウイスキーのボトルと氷の入ったグラスがひとつ。それから、羽子板みたいな形をした立派なおろし金がひとつ。
おろし金?
とりあえず僕は体を起こしてさっちゃんに訊いた。
「いま何時?」
さっちゃんは壁かけの時計を指さしてくれた。午前3時過ぎ。2時間少し眠り続けていたようだ。そのあいだにさっちゃんはシャワーでも浴びたのか、Tシャツと短パンに着替え、髪はわずかに濡れていた。
その時計のすぐ下で、家電量販店でしかお目にかかれないような、馬鹿みたいに大きなテレビが壁にかけられながら沈黙している。
このテレビは何インチなのか。この部屋はいったい何畳あるのか。そもそも、そこのおろし金はなんのために置かれているのか。様々な疑問が頭をよぎるけど、最初にどれを尋ねるべきか判断がつかない。
「倒れたときすごい音してたけど、頭大丈夫?」
「いろんな意味でかなりやばかったからね。むしろ衝撃でまともになったかも」
さっちゃんは笑ってくれた。
「ごめんね。まさかナオちゃんがあんな行動に出るとは思わなくて」
「その子はお友達?」
「幼なじみなの。小学生のときからずっと一緒」
ナオちゃんの頬には涙の跡がくっきりとにじんでいる。さっちゃんはそんな彼女の頭を優しくなでた。
「事情は話したの?」
「だいたいはね。そしたら案の定というか、殺されるんじゃないかって勢いで怒られて、散々引っぱたかれた。でもあたしにも言いたいことがあって、さっきまで泣きながら大喧嘩してたの。けっこう大騒ぎしてたのに、よく起きなかったね」
「いい蹴りしてたから」
さっちゃんは再び笑った。
ナオちゃんが怒り疲れて眠っちゃったのは、つい先ほどらしい。
「僕のことなんか言ってた?」
「まあ、なくはないけど、聞かないほうがいいよ」
さっちゃんがちらっとおろし金を見ながら言う。とても気になるけど、僕はなにも訊かなかった。
「あなたもシャワー浴びる? お風呂も沸いてるよ」
「ありがとう。でも、着替えが」
「お父さんのでよければ貸すよ」
僕がそれでいいよと言うと、さっちゃんは螺旋階段をのぼってどこかの部屋に消えた。それから数分して戻ってきて、男物の下着と、スポーツブランドのTシャツと短パンを貸してくれた。まだ新品のようにきれいだった。
いろいろ聞きたいことはあるけど、まずは汗を流したい。さっちゃんに案内されて、バスルームに向かう。
バスルームもめちゃくちゃ広かった。黒光りする石で造られた湯船は、大人が3人入ってもまだ余裕がある大きさだった。
そこで僕は汗を流した。ついでに僕の心を満たしていたどす黒い感情も一緒に洗い流せればよかったけど、そう簡単にはいかないようだ。
いちおう死ぬのはやめた。
でも人間、そう簡単には変わらない。
30分ほど湯に浸かって、リビングに戻る。
思わず固まってしまった。
さっちゃんがソファで寝ている。その隣で、ナオちゃんが起きて座っていた。彼女はさっきさっちゃんが使っていたとおぼしきグラスを右手に、氷が溶けて水割りになったようなウイスキーをちびちび飲んでいる。左手で、例のおろし金を大事そうに抱えながら。
ナオちゃんは泣いていた。充血して赤くなったナオちゃんの目とばっちり合い、僕は観念したように向かいのソファに座る。
「そのおろし金はなんなの?」
ナオちゃんはグラスとおろし金を置き、涙を拭いた。
「最初の質問がそれ?」
「だって……じゃあ自己紹介でもしようか?」
ナオちゃんは首を横に振った。
「たーくんでしょ。さっちゃんから聞いた」
ナオちゃんは、隣でぐっすりと眠るさっちゃんを優しい眼差しで見つめた。が、すぐに険しい眼差しに変わり、僕を鋭く見据える。
「この子の処女奪ったんだよね。冷たい岩の上で」
「……うん」
「さっちゃんのあそこ、具合はどうだった?」
そんなことに軽々しく答えられるほど僕のコミュニケーション能力は高くなく、女性の秘部に関しての経験則もなく、そもそもナオちゃんとは初対面で、冗談で切り返すような間柄でもない。
こういうときどうすればいいのか。どれだけ思い出そうとしても、学校や両親に教わった記憶はなかった。
いっそ逃げてしまおうか。
けど僕に逃げて行き着く先などありはしない。
やっぱり死ぬしかないんじゃないか。
「なんかくだらないこと考えてない?」
「……ごめん」
ナオちゃんはグラスに残っていたウイスキーをぐいっと飲み干したあと、言いにくそうに口をもごもごさせながら、やっと言葉を口にする。
「えーと、頭大丈夫?」
どっちの意味合いだろうか。とりあえずさっきのさっちゃんに対する返答と同じようなことを返したら、ナオちゃんはくすりともしてくれなかった。彼女はそのまま隣のさっちゃんに視線を落とす。
「さっちゃんが死のうとしたの、あんたが止めてくれたんだよね」
「いや、あれはその場の成り行きというか、別に止めたわけじゃないんだけど。僕も同じだったわけだし」
「聞いてる。でも、さっちゃんはこうして生きて戻ってきたわけだから、少なくともその部分だけにはありがとう、って言っとく。……あなたも飲む?」
僕がうなずくと、ナオちゃんは壁際にある大きな食器棚から、グラスをひとつ取り出して僕の前に置いてくれた。
「あいにく炭酸水はないけど。水割りかロック」
「いや、ストレートでいいよ」
慣れた手つきでウイスキーを注いでくれた。このグラスも絶対高いやつだ。バカラだっけ――なんてぼんやりと思いながら、グラスを持って口と鼻に近づける。
芳醇な、としか言いようがない香りがまず鼻孔をくすぐってくる。味わいも深く、こちらも濃厚で芳醇――自分の語彙の少なさに、少々うんざりした。僕は作家にはなれないだろう。
「このおろし金はね、寝ているあんたのイチモツを取り出して、じっくり丁寧におろしてやろうってね」
ウイスキーを噴き出した。
「このウイスキー高いんだよっ」
実際のところ、僕のイチモツは無事だった。数時間前に童貞を卒業したことが誇らしかったのか、お風呂の中で得意げにたゆたっていたのを覚えている。
「ごめんなさい」
「謝って済む問題? さっちゃん、この歳になるまでずっと処女守ってきたんだよ。それなのにあんたが軽々しく奪うから、もう腹立ってしょうがなかった」
「でも、さっきありがとうって……」
「それとこれとは話が別! いろいろ聞き出そうにも肝心のあんたはそこでのんきに寝てるし、ついかっとなってさ。さっちゃんに止められたけど」
「僕のこと、嫌い?」
「知らない。だって初対面だし」
「きみは初対面の男に跳び蹴りを食らわせたあげく、肉体の一部をおろそうとした。大根とかワサビみたいに」
「怒ってるの?」
「別に。実行されていたらわからないけど、そうじゃないから」
「あんた、変わってるよね」
「きみもね。さっちゃんもなかなかだと思う」
ナオちゃんがふんと鼻で笑う。ぱっと見は大人びた印象を与えてくるけど、笑うと少女のように可愛らしかった。