6

 午後。ナオちゃんは一度アパートに帰り、この家に滞在するための準備をしてくるそうだ。彼女から小声で、「さっちゃんのことお願い。もしもなにかあったら……わかってるでしょうね」と、冷たく睨みつけながら言われた。

「たーくんは本好き?」
 
 ナオちゃんを見送ったあと、さっちゃんに問われる。
 
「僕から本を取ったら、あとはパソコンとかプログラムの知識くらいしか残らないってくらいには」
「じゃあお父さんの書斎でいいかな。広いし、たしか折りたたみのベッドもあったし。布団はお客さん用のやつが……ああでも、一度干したほうがいいのかな」
「お構いなく。でもさ、お父さんの部屋なんて使っていいの?」
「気にしなくていいよ。娘のはじめての彼氏だよ。大目に見てくれるって。むしろ有意義に使ってくれたほうが喜ぶんじゃないかな。……そこでエッチしたらさすがに怒られるだろうけど」
 
 そして僕はナオちゃんに殺されるだろう。
 さっちゃんは少し寂しそうに笑っていた。
 お父さんの部屋は二階の外れにあった。重厚な木製のドアを開けると、古い書籍の匂いが鼻をつく。15畳くらいの洋間で、壁のほとんどが備え付けの書棚になっている。床から天井まで様々な種類の書籍がびっしり。フローリングの床にも収まりきらない本が無数に積み重なっていた。壁掛けのアンティークな時計は止まっているようだ。
 
「テレビはないけど、大丈夫?」
「うん。最近はほとんど見なかったから。……お父さん、読書好きだったんだ」
「大学の教授だったからね。本の虫だった」
 
 東に向いた大きな窓の手前に、両袖の机が置かれている。さっちゃんはその上につぅっと指を走らせた。机の上に埃の線が走る。
 
「やっぱ掃除したほうがいいね。5年前に1回やったきりだったから」
「掃除道具貸してくれれば僕がやるよ。ところで、お父さんが亡くなったのって5年前?」
「うん。お母さんも一緒に……事故でね。詳しく聞きたい?」
「いや。それはまた今度にする」
 
 彼氏になったとはいえ、僕のような新参者が聞いていいような内容ではない気がする。ひとまず掃除に精を出すことにした。


 数十分後、広い部屋の掃除はひととおり終わった。床に散らばっていた大量の本も、それなりに整理した。けっこうな重労働だった。
 久々の労働にいい汗をかいた気がして、なぜか自分が偉くなったように感じる。
 
「まあでも、基本的には働きたくないんだよね、僕」
 
 ナオちゃんあたりに聞かれたらまた睨まれそうなことをぼんやりとつぶやいた直後、机の裏になにかが落ちているのに気づいた。
 埃のかぶった大きめの茶封筒。ずっしりと重い。一瞬、さっちゃんにこれどうするか訊いてみようと思ったけど、もしもお父さんが隠し持っていたエロ本やエロDVDだったらまずい。こっそりと中を覗いた。
 原稿用紙の束だった。小学生か中学生のとき以来見たこともなかったそれを、なぜかどきどきしながらめくってみる。別に、さっちゃんのお父さんが秘密裏に書いていた官能小説だったらどうしよう、なんて少しも考えていない。
 小説なのは間違いなかった。万年筆で書かれたとおぼしき、黒っぽいインクの筆跡。タイトルも作者も不明なまま、僕はそれを読み進めた。 
 主人公は18歳の女の子だった。その子が大学へ退学届を出すところから物語は始まる。とりあえず適当な大学へ入学したのはいいけど、周囲の軽率な人間たちとなじめず、半年も経たずに孤立したらしい。
 
 「こいつらなにが楽しくて四六時中はしゃいでいるんだろう。動物園に帰ればいいのに。まあでもこいつらから見たら、群れられないあたしのほうが野生に帰れって思われてるんだろうけど」

 などという、痛烈な独白があった。
 その後の描写は、主人公の日常が中心だった。特にやりたいことでもない事務系の職場に就職する。その職場で知り合った、そこまで好きでもない男性に処女を捧げる。さらに別の男性――直属の上司。危ない人格の持ち主――に惚れられ、人間関係がとてつもなく面倒くさいことになる。
 やがて25歳を過ぎた主人公の前に、新たな男性が現れる。その人は主人公にとって、心の底から愛せる存在だった。
 しかしその男性には妻子がいた。
 価値観があまりにも多様化した現代において、目的や夢もなく生きることのやるせなさを鮮烈な言葉で綴っている。無情で残酷な社会やどこかおかしい登場人物たちも、目の前にそのまま思い浮かんでくるような精緻な文章で、きちんと描かれていた。
 物語はここで終わっていた。枚数は80くらい。最後のページに、「続きが読みたい!」と書かれた赤い付箋が貼られていた。
 僕は思わずうなずいていた。まさにそう思っていたからだ。そんなとき、不意に人の気配を感じて振り返る。
 さっちゃんが立っていた。
   
「それ、どこで見つけたの?」
 
 さっちゃんの視線は、僕が持っている原稿に吸い込まれているようだ。
 
「机の裏に落ちてたよ」
 
 さっちゃんの両肩ががっくりと下がる。
 
「そこにあったんだ……もしかして、全部読んじゃった?」
「うん。薄々気づいてたけど、これってやっぱりさっちゃんが書いたの?」
 
 文字はきれいだけど、どこか丸っこい。男性でこういう文字を書く人はあまりいない気がしていた。
 さっちゃんは首肯した。その後、彼女はドアの近くに置いてあったひとりがけのソファに座る。スプリングが古いのか、みしみしと鳴った。
  
「20歳のとき、急に思い立ったの。でもあたしパソコン使えないし持ってなかったからさ、わざわざ銀座まで万年筆と原稿用紙買いに行ったんだよ。……おもしろかった?」
「うん。すごく」
「ありがと。お父さんがさ、あたしが小説を書いてるって気づいたの。隠してたのにだよ。まだ途中なのに、それでもいいから読ませてくれってしつこくて」
「それでここに?」
「それ渡したすぐあとに死んじゃった。感想聞く前にね」
 
 僕は小説の最後のページをさっちゃんに見せる。
 彼女はそれをじっくりと眺めたあと、やがて――
 両目から大粒の涙を流した。
 僕はなにも声をかけられない。
 しばらくの沈黙のあと、さっちゃんは鼻をすすって涙を拭く。
 
「ごめん……大丈夫だから」
「うん」
「……ねえ、たーくんも続き読みたい?」
「うん」
「でもごめんね。続きは書いてないんだ」
「うん」
「構想はあったの。その先でも主人公に理不尽が降り注ぐんだけど、それをなんとか乗り越えて、最後は幸せになる予定だった」
「……うん」
 
 こんなときに女性にかけるべき言葉を、僕は知らない。たぶん、これから先も知らないと思う。
 やっぱり人間は、簡単には変わらない。
 
「まあ、話すと長くなるから、いつか気が向いたら話すね」
 
 僕はごくっとのどを鳴らした。それを言うさっちゃんの雰囲気が、死を予感した猫のような達観と寂寥感に満ちていたから。


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