11

 正午をまわり、昼食を食べ終えた僕たちはソファに座っていた。テーブルの上にはウイスキーのボトルと炭酸水のペットボトル。おつまみも少々。真っ昼間からお酒ってどうなのと思うけど、「少なくとも住所不定無職のあんたが気にすることじゃないよ」と、ナオちゃんから素敵なご指摘をいただいた。
 さっちゃんは手に持ったグラスを傾けながら、ウイスキーに浮かぶまん丸い氷をぼんやりと眺めている。やがてその視線が僕に向いた。
 
「たーくんは『美夜坂路線バス爆破テロ事件』って覚えてる?」
 
 僕はうなずいた。
 何年経っても忘れられない事件というものが世の中にはある。さっちゃんの言った事件もその中のひとつだ。そして、美夜坂というのがこのあたりの地名だと気づいて、僕はすぐに事情を察した。
 いまから5年前。この地域を走る路線バスに男が乗り込み、自作の爆弾を爆発させた。結果、バスは走行中に大爆発を起こす。バスに乗っていた約30人はそのときほぼ即死。
 それだけではない。爆発したとき、バスはちょうど下り坂に差しかかっていた。美夜坂という地名の由来にもなった長く険しい坂。運転手もすでに死亡していて、ブレーキを踏む者などいない。さらに幸か不幸かそのとき道路は空いていて、バスの前進をさえぎるものはなにもなかった。
 バスは炎上したまま重力に従って坂を下り続け、やがて坂の終点にあった幼稚園に突っ込んだ。当日は日曜日だったけど、ちょうどファミリー参観日でかなり賑わっていたそうだ。その幼稚園は古い木造建築で、近々建て替えする予定だったという。そんなところに炎上するバスが突っ込んだらどうなるか。
 楽しい参観日が地獄絵図に様変わりするのは一瞬だった。
 結果、幼稚園は全焼。中にいた園児や保護者、教員など含めて40人以上が逃げ切れずに焼け死んだ。つまり、バスの乗員乗客も合わせて、70人以上の命が一瞬にして奪われたわけだ。当然大ニュースになり、テレビでは連日その事件の報道番組が流されていたのを覚えている。
 
「あたしの父さんと母さんが、そのバスに乗ってたの。ほら、このあいだCharlotteに行くために乗ったバスがあるでしょ。あれと同じ路線だよ」
 
 僕はなにも言葉を返せなかった。
 
「事件から何日か経ったあと警察から『ご両親が見つかりました』って電話があって、ナオちゃんと一緒に警察に行ったんだ。遺体安置所の台の上に、ぽつんと黒いかたまりがいくつかあったの。どれも手のひらに乗っかるくらいの小さな炭。『ご両親の体の一部です』だって」
 
 信じがたい事実をさっちゃんは淡々としながら話している。隣のナオちゃんは涙を流しながら鼻をすすっていた。
 
「うちの両親は断片だけでも見つかっただけマシだったかもね。実際、体の小さな子どもの犠牲者はほとんど焼き尽くされて、建物の炭となかなか区別がつかなかったみたい――ねえ、焼け死ぬ直前、子どもたちがどんな悲鳴あげるか想像できる?」
「……ちょっと待って。なんか、直接見てきたような言いまわしだね?」
 
 さっちゃんはうなずいた。
 
「その幼稚園でバイトしてたの。事件当日も出勤してた」
 
 僕は「言葉を失う」とはこういうことかと、はじめて思い知る。
 
「あたしは園庭にいたからほとんど無事だったけど、建物の中にいた人たちは悲惨だった。泣き声とか悲鳴とか助けを呼ぶ声とか、子どもとか大人とか関係なく響いてくるの。でも炎と煙がすごすぎて、誰も助けに入ることができなかった。そのとき生まれてはじめて、足ががくがく震えるって体験をしたよ」
 
 たぶん多くの人にとって、そんな大事件がどこかで起こっても対岸の火事みたいな感覚だろう。
 だって、ふつうは自分と関係ないから。
 テレビで事故や事件の被害者や遺族が涙を流している。台風や地震で住む家を失った人の、途方に暮れた姿が新聞に掲載されている。それらを見たら、さすがの僕でも「まあかわいそうに」とか「ご愁傷様」とか、少なくとも一瞬は思う。
 でもそれだけだ。それ以上は特に思うことなんかない。その人たちはそういう目に遭ったけど、僕はそうじゃない。だいたい、日本どころか世界中でそんな惨劇が毎日のように起こっている中、いちいちすべてに心を揺さぶられている余裕などない。
 いままでは漠然とそう思っていた。
 僕は何事にも傍観者だった。兄貴の死を目の当たりにしたときだって、もしかしたら心なんて動いてなかったのかもしれない。
 
「もうわかると思うけど、あたしが将来の夢をあきらめたのはこの事件のせい。こんな世界に絶望したあたしが、どうして未来を担う子どもたちを育てられると思う?」
 
 言葉を必死に探すけど、見つからない。しばらく黙るしかなかった。
 
「たーくんは慰めてくれないの?」
「付き合いの短い僕がそんなことできると思う? もうほんとに言葉が浮かんでこない。ごめん」
 
 さっちゃんはいいよと笑ってくれた。そこにナオちゃんが口を挟んでくる。
  
「ねえ。あんた事件の犯人どうなったか知ってる?」
 
 ナオちゃんの瞳にはあふれんばかりの怒りが渦巻いていた。
 
「たしか……まだ生きてるんだっけ?」
「そう。バスの中でリュックに隠していた爆弾を爆発させたんだけど、そのときの衝撃でバスの外に吹っ飛んだの」
 
 犯人は事件当時三十代後半の男だった。ナオちゃんの言ったとおりになり、バスが爆発した現場あたりの道路で見つかって病院に収容されたと記憶している。
 そして現在も意識が戻らないまま入院しているそうだ。バスに乗った人の中で唯一生き残ったのが、皮肉にも事件を引き起こした張本人だった。当然ながら、まだ逮捕もされてない。
 
「動機とかわかってるんだっけ?」

 さっちゃんが答えてくれた。
 
「犯人の家に、世の中に対する恨み辛みを記したノートが残されていたらしいよ。爆弾の設計図もあったって」
 
 思い出してきた。犯人は理系大学出身のエリートだった。かなり大きな企業の化学工場に就職するも、不況のあおりをくらって解雇。住んでいた賃貸マンションも家賃滞納で追い出された。事件を起こしたのはその3ヶ月後くらいだったらしい。仕事柄、事件に使用した爆弾もかなり精巧なものだったようだ。
 ナオちゃんが、吐き捨てるように言う。
 
「犯人の入院費、税金でまかなわれているらしいよ。天涯孤独らしいし、本人に支払い能力がない以上、そうするしかないみたい。ふざけた話よね」
 
 犯人が目覚めた先に待っているのは、容赦のない世間の視線と批判。そしてその先には、確実に「死刑」の二文字が待ち構えている。事件に至るまでの過程や状況から、責任能力は確実にあるだろうと言われていた。
 たしかにナオちゃんの言うとおり、いずれ死刑になるであろう人間を税金で生かし続けているのは滑稽な話だ。もう生命維持装置の電源を切ればいいのではないか、という過激な声がいろんなところからあがっていた気がする。
 生き続けていようがぽっくり死のうが、どちらにしても激しい誹りや罵詈雑言は免れない。そんな人間、日本ではめずらしいだろう。
 
「死ぬならひとりで勝手に死にやがれって思わない? 無関係な人を巻き込むなんて絶対間違ってる!」
 
 さっきから見ていると、被害者遺族のさっちゃんよりも、ナオちゃんのほうが憤慨しているように見える。
 
「でもさ、うちの兄貴はそれを実行したんだよ。じゃあ兄貴は正しかったの?」
 
 ナオちゃんは黙った。しばらく気まずそうに視線を漂わせたあと、小さく「ごめん」とつぶやく。
 
「いや、いまのは僕がちょっといじわるだった。ごめん」
 
 話を聞いていくと、ナオちゃんがここまで憤慨するのも理由があった。
 ナオちゃんは小学3年生のときに両親が離婚し、母親に引き取られてこの美夜坂の地に越してきたそうだ。しかしその母親がろくでもない人間――要するに、誰にでも股を開く女性だったらしい。小学校6年生のとき、家に帰ったナオちゃんは母親と知らない男性が性行為に励んでいるところを目の当たりにした。ふたりはナオちゃんに睨みつけられても行為をやめなかったとか。「むしろ、さらに興奮してた」とはナオちゃんの感想。
 母親はその後、ナオちゃんが中学を卒業した段階で別の男と一緒にふらりと家を出たっきり戻らなかった。その行方は現在もわからないそうだ。捜す気もないらしい。
 さっちゃんの両親は、そんなナオちゃんに昔から目をかけていた。食事はほぼ毎日呼ばれ、旅行も一緒に連れて行ってくれたとか。だからナオちゃんは、さっちゃんの両親のことを本当の親のように慕っていた。
 ナオちゃんはグラスを荒い動作でテーブルに置いた。彼女が飲んでいた何杯目かのウイスキーの水割りはすでに空になっている。そして妙に据わった眼差しで、僕とさっちゃんを交互に見た。
 
「あのさ。ふたりともそれなりにハードな人生送ってるのに、どうして自ら死のうなんて発想になるわけ? もう意味がわかんないんだけど!」

 さっちゃんが言葉を探すような仕草を見せたあと、おもむろに口を開いた。
 
「この世界で人間として生き続けて、本当に幸せなのかなって」
 
 ナオちゃんはなにも言わず、さっちゃんの言葉の続きを待った。
 
「思春期入ったくらいから不思議に感じていたの。なんでみんなそんなに幸せそうなんだろう、なにが楽しくて笑っていられるんだろうって」
「さっちゃんも幸せそうにしてたでしょ? 一緒に遊んで笑って、時にはいたずらして怒られて泣いて……でも、楽しそうだったよ」
「小学生の頃はね。なにも知らなかったけどすべてが楽しくて、幸福に満ちていた幼い日々。でも、大人になってからはほとんど毎日が苦痛だった。つらいことばっかり。巨大隕石が落ちて世界滅亡しないかなーって、1週間に1回くらいは思うもの」
「なんでそんな極端なの!」
 
 さっちゃんの眼差しの温度が急激に下がる。
 
「父さんと母さん、どうして死んじゃったの? ふたり、なんか悪いことした? 幼稚園の子どもたちも焼け死ぬ必要あった? あたしに懐いてくれた子、何人も死んだんだよ」
「そ、それは――」
「犠牲者に落ち度なんてなかったでしょ。でもあの事件の犯人は、あれだけ人を殺しておいていまだに生き続けてる。なんかよくわからないけど、必死に生かされ続けているよね。どうして?」
 
 ナオちゃんは絶句しているようだ。
 
「ごめんねナオちゃん。こんな質問、あたしがされても答えられないと思う。……病気や不慮の事故だったら、まだ納得できたかもしれない。そういうこともあるかもしれないって。けどあの日、あんなに大勢が死なないといけない理由なんてなかったでしょ」
 
 さっちゃんは僕を見た。
 
「あの日ふたりが出かけたのはね、北海道へ旅行に行くためだったの。結婚記念日のお祝いに、あたしがバイトでお金貯めて用意したんだ」
 
 ナオちゃんはもちろん知っていたのか、苦々しそうに唇を噛みしめている。
 
「あの日の朝、いつもより早めに出勤するあたしを、ふたりは玄関先で見送ってくれたの。たしか、『行ってきます』と『行ってらっしゃい』。そんなありきたりの言葉を交わしたのが最後だった。次に見たのが、黒焦げの小さな炭になったふたり。こんな理不尽ってある?」
「……ないね」
 
 僕が答えた。うちの兄貴よりも理不尽かもしれない。
 兄貴はまだ自分の意志で死んだ。
 でもさっちゃんのご両親や、ほかの大勢の犠牲者はそうじゃない。きっとなにがなんだかわからないうちに焼け死んだんだと思う。その苦しさや痛みや哀しみや悔しさをきちんと想像しようとするだけで、僕の心臓はショックで止まるだろう。

「あたしが小説書けなくなったのはもちろん、この事件のせい。だって、あたしがぼんやりと思い描いていた理不尽よりも、現実のほうがはるかに理不尽で無慈悲だったから」
 
 世界は歴史を積み重ねていくごとに、その理不尽さを更新している。
 そのせいで世界と人類に降り注ぐのが不幸だけだとしたら――その不幸よりもはるかに大きな隕石が、先に世界に降り注ぐべきではないのだろうか。


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