それから何日もしないうちに、仕事が見つかった。
Charlotteのオーナーは会社経営者で、昔からこの美夜坂周辺で事業を営んでいた。不動産をメインに、飲食店をいくつか経営している。Charlotteの入っているマンションもその会社の不動産だ。
運よく、その会社のシステムエンジニアとして雇われることになった。
会社は昭和の時代からあり、その頃から働いている昔気質の社員さんが多いそうだ。ただし、年代的にコンピューターやIT関係には疎い人が多い。だから最近になって、その手の分野に明るい若手を採用しようと考えていたとか。
ある日、オーナーがCharlotteに飲みに来たとき、僕とさっちゃんもちょうど来ていて、僕の紹介から始まってトントン拍子に話が進んだ。オーナーとさっちゃんは昔からの知り合いで、さっちゃんは彼にかなり気に入られているらしい。
なんでか知らないけど、僕も気に入られた。
しかし、「ブラック企業だからやめたほうがいいよ」と、オーナーがいる目の前で堂々と、さっちゃんだけでなくマスターにも言われた。向こうでナオちゃんとやなちゃんも強くうなずいている。
オーナーはげらげら笑い飛ばし、とりあえず今度、うちの会社に遊びに来いと僕の肩をばんばん叩いてきた。
後日、オーナーの会社に面接に行き、その場で採用。来週から出社することになる。無職を卒業することが決まって、少し寂しくなってしまったのは内緒だ。
ちなみに、面接したその日のうちに歓迎会と称して、Charlotteで飲み会があった。
社員さんたちはみんないい人に見えた。それをマスターに言うと、「みんな猫かぶってるんだよ。あの会社は伏魔殿だから、気を抜いたらだめだよ」とアドバイスされた。
飲み会が終わり、夜11時頃にさっちゃんちに帰宅。
だが、玄関を開けて思わず「わっ」と声を出してしまう。
上がり框のところに、さっちゃんが膝を抱えながら座っていた。彼女はぼんやりとした瞳で僕を見る。
「……おかえり」
声に覇気がなかった。
「ただいま。電気もつけずにどうしたのさ?」
「ナオちゃんと喧嘩した」
今日、ナオちゃんはCharlotteにいなかった。マスターいわく、「最近こき使いすぎ。今週いっぱい休みくれないと辞めてやる」とナオちゃんに脅されたそうだ。
僕とさっちゃんはリビングへ移動し、ソファに座った。テーブルの上に、ウイスキーの瓶やグラスが置かれている。グラスの中では氷が溶けたような形跡があった。
「ナオちゃん、しばらくアパートに戻るってさ」
「なんで喧嘩したの?」
さっちゃんにしてはめずらしく、不満を表情に浮かべた。
「よくわかんない。ここで飲みながら話してたら、なんか急に怒りだして」
「どんな話?」
「えーと、この前たーくんと、『絆』の話したじゃない。それをナオちゃんに話しあとだったかな」
1週間くらい前、ナオちゃんが仕事でいないとき、さっちゃんとふたりでここで飲みながら会話したことだ。
僕は昔から、絆という言葉が大嫌いだった。兄貴が死ぬ以前から、その言葉に妙な違和感を感じていた。特に東日本大震災の直後、マスメディアがこぞって絆って言葉を強調したのは心底辟易していた。
絆というものは、目に見えないだけで存在はするのだろう。人と人のつながりを表す言葉だから、まあ多少は理解できる。けどその言葉を声高に強調する必要はないと常々感じていた。 僕は絆という言葉が表に出てきた途端、急に安っぽく、嘘くさいものに思えてしまう。言葉にしないと不安になるのか知らないけど、そんな絆絆絆言い合って、お互い強迫観念を植え付けたいのかと薄ら寒くなる。
そんなことを僕はさっちゃんに語った。彼女はそれに心底共感してくれたのか、
「ことあるごとに絆を強調してくる連中に、うんち投げつけてやりたいよね」
などという過激な言葉が返ってきた。僕も酔っ払っていたから、げらげら笑った。
「それで怒ったの?」
さっちゃんは腑に落ちない表情でうなずいた。
「ナオちゃんって、ことあるごとに絆を強調してくるタイプだっけ? だとしたら絶交したほうがいいよ」
「ナオちゃんの口からそんな言葉聞いたことないよ」
さっちゃんが懇願するように見つめてきた。だから僕はない知恵を絞りながらしばらく考える。
どうすればいいのか。
すぐに結論が出た。
「僕に打つ手はない」
さっちゃんの肩ががくっと下がり、目を細めて見つめてきた。
「こういうときは僕に任せてとか言うものじゃない?」
「だってふたりのあいだを取り持つなんて、僕がそんな高度なコミュニケーション能力持ってるわけないでしょ。そんなのあったら今頃もう結婚して、子どもがいるはずだ」
「たーくん……」
「冗談だよ。でも、いくらなんでもこれで絶交だとかにはならないでしょ。しばらく経てばナオちゃんの頭も冷えるって」
「事なかれ主義」
「なんか母親にも言われた気がする、それ。まあ明日は休みだから、ナオちゃんち行って話聞いてきてもいいけど」
さっちゃんの瞳に、わずかな希望の光が宿った。
翌日のお昼頃、僕はナオちゃんちに向かった。
徒歩で約10分。いつか聞いていたとおり、本当に近かった。白っぽい壁をした二階建てのアパート。決して安普請でもなければ、取り立てて高級というわけでもない。なんとなくナオちゃんにふさわしい気がした。
二階の隅にある部屋のチャイムを鳴らす。たっぷり30秒は経ったあと、ドアホンから眠そうな声が聞こえてきた。僕が名乗ると、ナオちゃんが息をのむ気配が伝わってくる。
『帰って』
「そんなこと言わずに。そこのセブンでおでん買ってきたんだ。お昼まだでしょ」
『……具材は?』
「大根、たまご、こんにゃく、ちくわぶ、厚揚げ。それからね、ちょうど仕込み立てだった牛すじをあるだけ」
『それを置いて帰って』
「ナオちゃん……」
『ああもう! わたしの好きなやつばかり! さっちゃんの差し金でしょ。……ちょっと待って』
中からごそごそと音がしたあと、ドアが開いた。ナオちゃんはディズニー(キャラの名は知らない)のTシャツと、黒いスパッツをはいていた。案の定寝起きらしくて、髪には寝癖がついてる。ふつう、付き合ってもない男に見せるような格好ではない。
僕に気を許しているのか、そもそも男として見られてないのか。まあ、後者だろうと思う。
「すっぴんでも可愛いよ」
「やかましい。やっぱりおでん置いて帰る?」
「褒めたのに」
「だからやかましい」
ナオちゃんにうながされ、中に入る。部屋は1LDKで、思っていたより広かった。というより全体的に物が少ないからそう見えるだけかもしれない。家具は必要最低限で、きちんと整理されている。
僕はうずうずしながら、さらに部屋の中を見まわした。
「あまりじろじろ見ないでくれる?」
「それ!」
「……は?」
「一度女の子の部屋に入って、その台詞言われてみたかったんだ。さっちゃんのときはまったく気にされなかったから、夢が叶った」
「……あんたって、本気で気持ち悪いよね」
適当に座ってと言われ、白いローテーブルの前に座る。おでんの容器をふたつ、その上に置く。ナオちゃんは冷蔵庫から麦茶のペットボトルを取り出していた。
やがて、麦茶とコップをふたつ持ってきたナオちゃんが向かいに座る。
「さっちゃんはどうしてる?」
「昨日からずっと泣いてる。今朝も僕の胸を濡らしていたよ」
「死ねば?」
本気の瞳だった。ひとまず謝る。
「それで、なんで喧嘩なんかしたのさ」
ナオちゃんは牛すじから串を抜きながら答えた。
「さっちゃんから聞いてないの?」
「ナオちゃんが怒った会話の流れはわかったけど、なんでそうなったのか僕もさっちゃんもわからなかった」
「会話の流れってあれ? あんたが人間として終わってるって話」
「え……あ、そんな話だった?」
「わたしにはそう聞こえた。あんた根っからひねくれてるよね。……まあ、わたしもその言葉はあんまり好きじゃないから、共感できなくもないけどね」
ナオちゃんはおでんを食べ始める。大根が熱かったのか、口をぱくぱくさせる仕草は可愛らしかった。
なぜか知らないけど、このときいきなり天啓を受けたように頭が冴えた。
「もしかして、やきもち?」
ナオちゃんの動きがぴたっと止まる。
「……なんでそう思った?」
「いや、理由を問われても答えられないけど。なんかピンときた」
ナオちゃんは麦茶をひと口飲んでから、はあ、とため息を吐いた。
「あんたって、たまにそうやって冴えてるときがあるからむかつく」
「じゃあ正解?」
ナオちゃんは神妙にうなずいた。
「あんたの話をしてるときのさっちゃん、本気で楽しそうだった。きっとすごく共感したんだろうね。あの子があんなふうに瞳を輝かせて語るの、はじめて見たかもしれない」
僕は黙って続きを待った。
「あの事件でご両親が亡くなってからは特に、笑っててもどこか影があるっていうか、そんな曇り空みたいな雰囲気があって。でもあんたが来てから、さっちゃんはよく笑うようになったの。影も暗さもない、澄んだ青空みたいな笑顔をね」
さっちゃんといちばん付き合いの長いナオちゃんが言うのだから、間違いないだろう。
「なんかね、それで『ああ、わたしはもう必要ないのかな』って感じたの。だから急にいらいらして、ついきつく当たっちゃって」
僕はすべてを理解したように深くうなずいたあと、自分のおでんを食べる。
確信した。ナオちゃんとさっちゃんは、放っておいても仲直りできるだろう。これは時間が解決してくれる問題だ。もう僕にできることはない。
「……ねえ、たーくん。いますぐじゃなくていいんだけど」
「うん」
「さっちゃんと結婚してくれない?」
ちくわを噴き出した。
「あんたなんでいつも噴き出すの!? わざとでしょ!」
ぶんぶんと首を振った。ひとまず麦茶を飲んで落ち着かせる。
「ナオちゃん、僕のこと嫌いじゃなかった?」
「嫌いとはちょっと違う。むかつくの。それがなに」
「だって、むかつく男がきみの親友と結婚していいの?」
「馬鹿なの? わたしがあんたにむかついてても、ふたりが愛し合ってるなら結婚するのには関係ないでしょ」
「愛し合ってるなんて、正面から言われると恥ずかしいよね」
「やかましい!」
「でもさ、さっちゃんて結婚に興味ないんじゃ? ほら……なんていうか、人ともっとも深くつながる行為を伴ってるわけだし」
要するにセックスだ。物理的にも精神的にも、あそこまで他人とつながることだったとは、30年近く寡聞にして知らなかった。
「わたしが寝静まったあと、あんたたちこっそりエッチしてるでしょ。あんたの――さっちゃんのお父さんの部屋でさ」
僕は思いっきり慌てた。
「ばれてないと思ってたの? 馬鹿じゃないの」
「その……ごめん」
「謝るな。まあ若いカップルなんだし、仕方ないとは思う。それで、さっちゃんはあんたの粗末なイチモツに貫かれてるとき、嫌そうな素振り見せてる?」
「表現が」
「いいから答えて」
「……嫌そうではないよ」
むしろ悦んでいるというか。「こんなすごいの知らなかった」と、いつか言っていた。
「ちなみにいま想像して勃起してたら、それねじり切るからね」
息が止まり、股間のあたりがきゅっと締まった。
この子は本当に僕に対して容赦がない。けどすぐに別の感情に満ちた眼差しに変わる。
「あんたと出会ってから、さっちゃんは変わった」
嬉しさと悔しさと諦観をごっちゃに混ぜた複雑な感情。
「ちょっと前にあんたがいないとき、わたしに訊いてきたの。『結婚ってどう思う?』って。さっちゃんからそんなこと質問されるなんて夢にも思ってなかったから、びっくりしちゃった」
「それで?」
「わたしがちゃんと答えられるわけないでしょう。もっとも身近な人たちのなれの果てを見てきてるんだから」
自分の親を思い出したのか、ナオちゃんの瞳が一瞬だけ濁る。この子の感情表現が素直なところ、実はかなり好きだった。
「だからね、自分の両親を思い出してって言ったの。さっちゃんのご両親、ほんとに仲がよかったから。子煩悩だったし、わたしから見たら理想の夫婦だった。で、なにを思ったのか知らないけど、さっちゃんは幸せそうに微笑んだの」
さっちゃんの感情は猫のように気まぐれで、万華鏡のように決まった模様がない。だから脈ありと捉えることもできるし、違うかもしれない。
「わたし、さっちゃんには幸せになってほしい」
「それは僕も思う」
「あんた知らないと思うけど、死んだら幸せになんかならないよ。絶対に」
「もう知ってるよ」
「じゃあ幸せにしてやって。たぶん、さっちゃんをそうできるのはあんただけ。わたしじゃなかった。認めるのは悔しいけど」
僕はなんの迷いなく首肯した。
そして僕の中で、これまでぼんやりとしていた「生きる目的」が、はっきりとした輪郭を結んだ気がした。
――たぶんこのときだったと思う。
僕の思考から、どす黒い「死」の存在感が消えたのは。